「四馬」巻は、『全訳注』では第7巻に、前の「三時業」に続いて収められていて、その開題に「馬の調教に四種の方法があることが語られ、仏の教化にも種々の方法があることが説かれている」とあります。
 

 世尊一日(イチジツ)、外道、仏の所(ミモト)に来詣(キタ)りて、仏に問う、「有言(ウゴン)を問はず、無言(ムゴン)を問はず。」
 世尊拠座(ゴザ)、良(ヤ)や久しうしたまふ。
 外道、礼拝し讃歎して云はく、
「善哉(ヨイカナ)世尊、大慈(ダイズ)大悲、我が迷雲を開き、我をして得入(トクニュウ)せしむ。」乃(スナハ)ち作礼(サライ)して去る。
 外道去り已(オワ)って、阿難(アナン)尋(ツ)いで仏に白(モウ)して言(モウ)さく、「外道何の所得を以てか、而(シカ)も得入すと言ひ、称讃して去るや。」
 世尊云(ノタマ)はく、「世間の良馬(リョウメ)の、鞭影(ベンエイ)を見て行くが如し。」

 

【現代語訳】
 ある日、世尊(釈尊)の所に外道がやって来て、世尊に尋ねた。
「言ってはいけません。言わなくてもいけません。どうか言葉を使わずに法を説いてください。」と。
 すると世尊は、その座に着いたまま無言でじっとしていた。
 それを見た外道は、世尊を礼拝し賛嘆して言った。
「世尊、有り難うございます。あなたの大慈大悲のお示しは、私の迷雲を晴らして、私を悟りに導いてくださいました。」そう言うと外道は礼拝して去って行った。
 外道が去ると、阿難はすぐに仏(釈尊)に尋ねた。「あの外道は何を得て、悟ることが出来たと言って称賛したのでしょうか。」
 世尊は答えた、「あの外道は、世の良馬が御者の鞭の影を見て道を行くように、法を悟ったのである。」と。
 

《巻名は「シメ」と読むようです。
 『全訳注』が「この巻そのものについては、いうべきことは極めてすくない。極く短小な一巻であって、かつ内容も簡明である」と言いますが、早速気になることがあります。「有言を問はず、無言を問はず」とはどういう意味か。
 まず、ここの訳はちょっとへんです。訳の本分にない部分「どうか」以下はいらないのではないでしょうか。
 『全訳注』が、次節に出てくる「『聖黙・聖説』の二句に相応ずることになる」と言い、その「聖黙・聖説」に「仏陀の教化の方法として、古来から、聖なる沈黙と聖なる説法とがあると称されている」と注しています。
 つまり、沈黙でもなく説法でもない方法で仏法を説いてください、と言った、ということのようです。
 思うに、「外道」は、釈尊の前に来てただ坐っただけなのではないでしょうか。
 もう一つの疑問は、何故そういう制約付きで答えを求めたのだろうか、ということです。
 ずいぶん失礼な問い方にも思われますが、逆に、この「外道」はこれまでに「聖黙」や「聖説」という方法で説かれたことがあったけれども、それでは理解できなかった、という経験でもあって、あのやり方ではダメなんですが、それでも何とかお教えを受けたい、というような気持ちの表れとでも考えましょうか。
 その時、釈尊はというと、ただ黙って座っていた、すると、外道は「得入」し感嘆して帰って行った、という、様々になんとも釈然としない話ですが、もちろん、以下に禅師によるその解説が縷々語られます。》


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