雑阿含経(ゾウアゴンキョウ)に曰く、
「仏、比丘に告げたまはく、四種の馬有り、
 一つには鞭影を見て、即便(スナワ)ち驚悚(キョウショウ)して、御者の意に随ふ。
 二つには毛に触るれば、便ち驚悚して、御者の意に随ふ。
 三つには肉に触れて、然(シカ)して後、乃ち驚く。
 四つには骨に徹して、然して後方(ハジ)めて覚(オドロ)く。
 初めの馬は、他の聚落(ジュラク)の無常を聞いて、即ち能く厭(エン)を生ずるが如し。
 次の馬は、己(オノ)が聚落の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
 三の馬は、己が親の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
 四の馬は、猶(ナオ)己が身の病苦によりて、方めて能く厭を生ずるが如し。」
 これ阿含の四馬(シメ)なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり。しらざるは人天(ニンデン)の善知識にあらず。
 学者もし厚殖(コウジキ)善根の衆生にして、仏道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。仏道とほきものは、きかず、しらず。しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。
 いま生厭(ショウエン)といふは、「仏、一音(イットン)を以て法を演説するに、衆生類に随って各(オノオノ)(ゲ)することを得。或は恐怖(クフ)する有り、或は歓喜し、或は厭離(エンリ)を生じ、或は疑(ギ)を断ず。」なり。
 

【現代語訳】
 雑阿含経には次のように説かれています。
「仏(釈尊)は、比丘(出家)たちに告げられた。馬には四種類がある。
 一は、鞭の影を見て、驚いて御者の意に随う馬。
 二は、鞭が毛に触れて、驚いて御者の意に随う馬。
 三は、鞭が肉に触れて驚く馬。
 四は、鞭が骨に達してやっと驚く馬である。
 初めの馬は、よその村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 次の馬は、自分の村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 第三の馬は、自分の親の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 第四の馬は、自分自身の病苦によって、漸く世の無常を厭う心を起こすようなものである。」と。
 これが阿含経の四馬(四種類の馬)の譬えです。仏法を学ぶ時には、誰もが必ず学ぶべきものです。真の正法の師として人間界や天上界に出現し、仏の使いとして祖師となった者であれば、必ずこの四馬を学んでいて、仏道を学ぶ者のために伝授するのです。ですから、これを知らない者は人間界 天上界の師ではありません。
 仏道を学ぶ者が、もし過去に厚く善根を植えた人々で、仏道に親しければ、必ずこの四馬を聞くことが出来るのです。仏道に疎遠な者は、四馬を聞かず、知ることもないのです。ですから、師匠は急いで説こうと思いなさい。弟子は急いで聞こうと願いなさい。
 先ほどの『世の無常を厭う心を起こす』というのは、『仏は、すべての人々に対して同じように法を説かれるが、人々はそれぞれの因縁に随って、おのおのが理解する。ある者は恐れの心を抱き、ある者は歓喜し、ある者は無常の世を厭い離れる心を起こし、ある者は疑いを断つのである』ということです。
 

《こういうふうに並べられると、ははあ、そういうことを言いたいのかと、不遜ながら、大筋が分かるような気がします。
 そこで私が思うのは、誰しもが第一の馬でありたいと思うに違いないのだけれども、ではどうやったら第四から第三に、また第二になれるのか、ということですが、そういうことに答えてもらえるのでしょうか。それとも、それもまた、「聖黙」によって応じられるのではないかと、心配になります。
 かの唐木先生は講義の中で、禅僧は「絶言詮」などと言っているが、実は禅僧ほど多く語っている僧も少ないと、やや冗談めかして言われましたが、さて、以下、四馬の比喩の意味が語られています。
 しかし、その比喩は分かりますが、その上で、「四馬」を「参学」するとは、一体何を学べというのでしょうか。
 四つの馬、四つの段階があるということ自体は、学ぶも何も、そういう分類をすれば、そういうことであるのは論を待たないことでしょう。
 すると、何を学べと? そういう四種類はそのまま四段階であるようですから、おのおの修行して第一の馬のようであれ、ということでしょうか。そうだとすれば、冒頭に『全訳注』が「内容も簡明である」と言っていることを紹介しましたが、確かにそう言えそうです。
 終わり近くの「いま生厭といふは」以下は、原文は漢文で、補足説明のような形になっているところで、前節後半に繰り返された「即ち能く厭を生ずる」を説明して、教えは同じでも、教えを受ける人によってその「厭」が、「恐怖」、「歓喜」、「厭離」、「疑」になるという相違がある、ということのようです。
 しかしこれもよく分かりません。「厭」の中に、「歓喜」があるというのも変ですし、第一、この話は、これだけで終わって、次は「調馬」の話になります。何のための説明かと思いますが、ふと気になっての全くの「補足説明」ということでしょうか。


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