かくのごとくなるがゆゑに、諸仏の所説と菩薩の所説と、はるかにことなり。しるべし、調馬師(チョウメシ)の法におほよそ四種あり。いはゆる、触毛、触皮、触肉、触骨なり。
 これなにものを触毛せしむるとみえざれども、伝法の大士おもはくは、鞭なるべしと解(ゲ)す。しかあれども、かならずしも調馬(チョウメ)の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり、調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。
 たてるたけ八尺なる、これを龍馬(リョウメ)とす。この馬ととのふること、人間にすくなし。
 また千里馬(センリメ)といふむまあり、一日のうちに千里をゆく。このむま、五百里をゆくあひだ、血汗をながす。五百里すぎぬれば、清涼(ショウリョウ)にしてはやし。このむまにのる人すくなし、ととのふる法しれるものすくなし。
 このむま、神丹国にはなし、外国(ゲック)にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。
 しかあれども、古徳いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。
 

【現代語訳】
 このように、諸仏の説と龍樹菩薩の説とは遥かに異なっていますが、調教師の方法にはおよそ四つがあり、それは毛に触れる、皮に触れる、肉に触れる、骨に触れる等であることを知りなさい。
 この涅槃経からは、何を毛に触れさせるのか知られませんが、伝法の大士、龍樹祖師は、「思うにそれは鞭であろう。」 と答えています。しかし、調教の方法に鞭を使う者もあるし、鞭を使わない者もあるのであり、調教には必ず鞭だけを使うとは限らないのです。
 背丈が八尺の馬を龍馬といい、この馬を調教できる人間は少ないのです。
 また千里馬という馬がいて、一日の中に千里走ります。この馬は、五百里走る間は血の汗を流し、五百里を過ぎれば、さわやかで速いのです。この馬も乗りこなす人は少なく、調教の方法を知っている者は少ないのです。
 これらの馬は中国には無く、中国北方の外国にいます。これらの馬は、それぞれむやみに鞭を加えるようには見えません。
 しかし、古人は、「馬の調教には必ず鞭を加えなさい。鞭でなければ馬は調教できない。これが馬を調教する方法である。」と言っています。

《『全訳注』によれば、「諸仏の所説」は先の「阿含の四馬」(第二章)を指し、「菩薩の所説」は「涅槃経の四馬」(第三章)を「指しているらしい」のだそうです。それが「はるかにことなり」と言います。
 この二つの「所説」の違いは、「阿含の四馬」では馬自体が語られ、それが鞭影、毛、肉、骨の順になっているのに対して、「涅槃経の四馬」では調教師の方が語られ、それが毛、皮、肉、骨の順である、という点だと思われますが、それはそんなに大きな違いなのでしょうか。
 以下の話も、よく分かりません。
 「鞭」について見ますと、「触毛、触皮…」について「触毛せしむるは、…鞭なるべし」と一般的な解釈(ここの訳では龍樹と特定していますが、そうでもないようです)を示しながら、しかし「調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず」と言い、「龍馬」と「千里馬」を挙げて、鞭のいらない場合を強調しているようですが、終わりのところでは「調馬かならず鞭を加す」と言って「古徳」の言葉を指示しているようで、そのつながりが分かりません。
 ただ、いずれにしても、普通、仏法の教化に当たって実際に「鞭」を使うわけではなく単に比喩なのですから、「調馬」に鞭を使うか使わないかということは、あまり意味のある議論のようには思えないのですが、節穴だからでしょうか。》

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