世尊言(ノタマワ)く、「南洲に四種の最勝有り。一に見仏、二に聞法(モンポウ)、三に出家、四に得道。」
 あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力(シュクゼンゴンリキ)にひかれて、最勝の身をえたり、歓喜随喜して出家受戒すべきものなり。
 最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生生をかさねば、積功(シャック)累徳ならん。
 

【現代語訳】
 釈尊が言われるには、「この須弥山南方の世界には、四つの優れた事がある。一つには、仏にまみえることが出来る。二つには、仏の教えを聞くことが出来る。三つには、仏に従って出家することが出来る。四つには、仏の道を悟ることが出来る。」と。
 明らかに知ることです、この四つの優れた事のある我々の南方世界は、 人の寿命が千年と言われる北方世界よりも、天上の神々の世界よりも優れているのです。今我々は過去世の善根力によって、仏法を学べる最も優れたこの世界に生まれることが出来ました。ですから、歓喜し随喜して出家受戒するべきなのです。
 仏法を学ぶのに最も優れた人身を受けながら、それを無駄にして、朝露のような命を無常の風に任せてはいけません。出家の一生を重ねていけば、その功徳は積み重なっていくことでしょう。
  

《ここでは、私たちは幸いにも須弥山を囲む四大州のうちの南州に生まれたのであって、そのことに「随喜歓喜」すべきである、とされます。なぜなら、そこでは、仏に会うことができて、得道が可能だから。
 須弥山の麓に東西南北、四つの世界があって、その南の世界が我々の住んでいる、この現世であるとされます。後の三つは、やはり人が住んでいるようですが、どういう世界なのか、ネットで探してみるのですが、どうも見つかりません。
 「私は貝になりたい」という映画がありましたが、詩集『消息』(吉野弘)にある詩「I was born」の一節「人間が生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね」というとおり、人間のみならず、世の生き物は、自分が何に生まれるかということを選ぶことはできないままに、そのものとして生を受けます。
 日本語の「生まれる」もやはり受け身形と考えるのが一般のようで、「Weblio辞書」には四段動詞『生む』に受け身の助動詞『れる』の付いたもの」とあります。
 もっとも、私は実は、この「れる」は自発(自然発生)の意味ではないかと思っているのですが、しかしどちらにしても「自分の意思ではない」ことは間違いないわけで、そんな、何に生まれても文句の言えない中で、私たちは(私は)人間として「南州」に「生まれさせられ」ました。そのことをこのように考えてこの上ない幸運とするのは人間の知恵なのですが、禅師にはそれが現実としてまざまざと見えている、ということなのでしょう。
 なお、初めの釈尊の言葉は、「いまだその出処を詳らかにすることをえない」(『全訳注』)そうです。》


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