古聖(コショウ)(イハ)く、「出家の人は、禁戒を破ると雖も、猶在俗にして戒を受持せる者に勝れり。故に経に偏(ヒトエ)に説かく、人を勧めて出家せしむる、其の恩報じ難し。
 復次に出家を勧むる者は、即ち是れ人に尊重業(ソンジュウゴウ)を修することを勧む。所得の果報は、閻魔王、輪王、帝釈にも勝れたり。
 故に経に偏に説かく、人を勧めて出家せしむる、其の恩報じかたし。人に近事戒(コンジカイ)等を受持せよと勧むるは、是の如きの事無し。故に経に証せず。」
 

【現代語訳】
 昔の聖者の言葉に、
「出家の人は、たとえ禁戒を破っても、まだ在家で戒を保つ者よりは勝れている。故に経はもっぱら説いている、人に勧めて出家させれば、その恩は報い難い。
 また、出家を勧める者は、人に尊重すべき善行を勧めているのである。その者の果報は、罪を裁く閻魔王や世界を治める輪王、三十三天にあって地上を支配する帝釈天よりも勝れている。
 故に経はもっぱら説いている、人に勧めて出家させれば、その恩は報い難いと。人に在家の戒などを保つことを勧めても、そのような事は無いのである。故に経には在家の戒などが優れていることを証明していない。」と。
 

《ここも原文は漢文で、『大毘婆沙論』という経典にある言葉だそうです(『全訳注』)。
 出家の人は、禁戒を破ると雖も、猶在俗にして戒を受持せる者に勝れり」という断定は他のところでも語られていたと思いますが、やはり目を引きます。現代においても、一般に僧侶に対しては、社会生活における具体的な優位性は特にないにもかかわらず、無条件にある種の敬意がはらわれているように思われますが、それは、どこかの段階でこういう考え方が定着したのかも知れません。
 出家であること自体が、その理由や動機、その内容の如何を問わず、直ちにその人の価値となる、というような事柄は、他にはあまりないように思われます。
 当人にとってさえそうなのですから、まして、他人を出家させれば、その価値は倍増するのでしょう。勿論それは、自分が出家した上でのことでしょうが。》


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