しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり。帰仏かならず出家受戒すぐれたるべし。出家をすすむる果報、閻魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐれたり。
 たとひ毘舎(ビシャ)、首陀羅(シュダラ)なれども、出家すれば刹利(セツリ)にもすぐるべし。なほ閻魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐる。在家戒かくのごとくならず、ゆゑに出家すべし。
 しるべし、世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、ひろくあつめたり。まことにしりぬ、仏法におきて道理あきらかなるべしといふこと。
 一聖(イッショウ)、三明(サンミョウ)六通の智慧、なほ近代の凡師のはかるべきにあらず、いはんや五百の聖者をや。近代の凡師らがしらざるところをしり、みざるところをみ、きはめざるところをきはめたりといへども、凡師らがしれるところ、しらざるにあらず。しかあれば、凡師の黒闇愚鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ。
 婆(バシャ)一百二十に云(イハ)く、「発心出家するすら、尚聖者と名づく、況や忍法を得んをや。」 しるべし、発心出家すれば聖者となづくるなり。
 

【現代語訳】
 知ることです、出家して禁戒を破っても、在家で戒を破らない人よりは勝れているのです。これは、仏に帰依するには出家受戒が最も勝れているということです。又、出家を勧める人の果報は、閻魔王よりも勝れ、輪王よりも勝れ、帝釈天よりも勝れているのです。
 たとえ庶民や身分の低い者であっても、出家すれば王族よりも勝れているのです。さらに閻魔王よりも勝れ、輪王よりも勝れ、帝釈天よりも勝れているのです。在家の戒はそうではありません。ですから出家をしなさい。
 知ることです、釈尊の説いた教えは推し量れないことを。そこで、世尊と五百人の大阿羅漢たちは教えを広く集めました。実にこれにより仏法の道理が明らかになったことが知られます。
 一人の聖者の三明六通(物事を見通す三つの智慧と六つの力)の智慧でも、近頃の凡庸な師には推し量れるものではありません。まして五百人の聖者の智慧など考えも及ばないことでしょう。これらの聖者は、近頃の凡庸な師たちの知らないところを知り、見ていない所を見、究めていない所を究めてはいても、凡庸な師たちの知る所を知らないわけではありません。ですから、凡庸な師の暗愚な説を、智慧ある聖者の言葉と混同してはいけません。
 「毘婆沙論」一百二十に説かれています。「仏道に発心出家するだけで聖者と呼ぶ、まして無生の悟りを得た者はなおさらである。」と。知ることです、発心出家すれば聖者と呼ぶのです。
 

《前節の『大毘婆沙論』の言葉について禅師が解説、敷衍して、出家の意義を説きます。その要点は「しるべし、世尊の所説、はかるべからざるを」にあると思われます。そして「近代の凡師のはかるべきにあらず」と言われてしまうと、もとより「凡師」でさえない私としては、とりつく島がないような気がします。
 「出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり」と言えるのはなにゆえなのか、もう少し語ってもらいたい、…。
 しかし翻って考えれば、お前のような人間は、どんなに語ってやっても、どこまでも何故、どうして、と問い続けるだけだろう、と言われるような気もします。
 小学校の頃、何故という疑問を持つことが大切だと言われました。自分の疑問を持つことが自己の成長にとって不可欠のこととされ、後にそれは問題意識という言葉に代わりました。
 しかし、例えば自然科学において、「何故」を三回問い続けると、大抵の疑問は行き詰まるという話を聞いたことがありますが、どこまでも「何故」と問い続けることは、究極においてはあまり意味のあることではないのかも知れません。
 どこかで疑問を発することを立ち止まって、大いなるものの前に全面的にぬかずくことが必要なのかも知れません。
 少なくとも、どこかでそうする覚悟を持った上で問わなければならない、ということはあるような気がしますが、それは実は勇気のいることでもあります。》


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