仏の言(ノタマ)はく、「及び我に依りて鬚髪(シュホツ)を剃除(テイジョ)し、袈裟の片を著(ヂャク)して戒を受けざる者有らんに、是の人を供養せば、亦(マタ)乃至(ナイシ) 無畏城(ムイジョウ)に入ることを得ん。是の縁を以ての故に、我是の如く説く。」
あきらかにしる、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒をうけずといふとも、これを供養せん人、無畏城にいらん。
 又云はく、「若し復(マタ)人有りて、我が出家と為り、禁戒を得ざるも、鬚髪を剃除し袈裟の片を著せんに、非法を以て此れを悩害せん者有らば、乃至三世諸仏の法身(ホッシン)報身を破壊(ハエ)す。乃至三悪道に盈満(エイマン)するが故に。」
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「私を拠り所にして髪を剃り袈裟を着けて、出家の戒を受けていない者もいるが、この人でも供養すれば、遂には畏れのない堅固な心を得ることができる。このような因縁があるので、私はこのように出家の功徳を説くのである。」と。
 この言葉から明らかに知られることは、髪を剃り袈裟を着けた者であれば、その者が出家の戒を受けていなくても、これを供養する人には、畏れのない堅固な心が得られるであろうということです。
 また言うには、「又、私を拠り所にして出家となり、禁戒を受けずに髪を剃り落として袈裟を着ける人を、仏法に反していると誹謗する者は、遂には三世(過去世、現在世、未来世)の諸仏の法身、諸仏の成就した仏身を壊してしまうであろう。遂には三悪道(地獄餓鬼畜生)に堕ちる因が満ちるからである。」と。
 

《「鬚髪を剃除し、袈裟の片を著」してはいるが、まだきちんと戒を受けていない、そういう人でも、その者を「供養」すれば、それによって、その「供養」した人は「無畏城にいらん」、つまり悟りの境地に至れるであろう、…。
 髪を剃り、袈裟を身につけるというのは出家の意思を示すことですが、それだけで、戒を受けずとも、また悟道に至らずとも、その人は出家者として扱われるのであって、そういう人を供養すれば、それは仏を供養するのと同じ功徳があるのだ、ということのようです。
 先に「出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり」(第十一章2節)とありましたが、「出家して禁戒を破」しても大丈夫なくらいですから、「破」す前の「戒を受けざる」ことなど問題ではない、ということでしょうか。
 逆に、そういう人を「非法を以て此れを悩害」したりすれば、地獄に落ちるであろう、…。
 先に「ただ修証していること、また坐禅している姿が『即心是仏』なのだ」というふうに考えてみたことがありました(「即心是仏」巻第七章1節)が、それと同じように、悟りの深浅はあるとしても、住む世界は仏の世界なのだと考えるのでしょう。
 「出家」というのはそれほど尊いのであって、その意思を示しただけで仏と同じ平面に立つことになるのだという教えのようです。》

  都合により、明日は休載します。


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