仏の言はく、「復次に舎利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日法輪を転じ、転法輪の時、無量阿僧祇(アソウギ)の衆生、遠塵離垢(オンジンリク)し、諸法の中に於いて、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏(ショロ)の心解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、不退転を得んと欲はば、当に般若波羅蜜を学すべし。」
 いはゆる学般若(ガクハンニャ)菩薩とは、祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就するなり。
 しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚(ゼンナ)するにあらず。学人しるべし。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「また舎利弗や菩薩たちよ、もし出家の日に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を成就し、その日に人々のために法を説き、それによって無数の人々が煩悩を離れて、すべての物事の中に真実を見る眼を得、また無数の人々が、すべての物事に捕らわれない心を得て、さまざまな煩悩から解脱することを得、そして無数の人々が、阿耨多羅三藐三菩提に安住して退かないことを願うならば、まさに般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。
 いわゆる般若(智慧)を学ぶ菩薩とは歴代の祖師のことです。そうではありますが、阿耨多羅三藐三菩提は、必ず出家したその日に成就するのです。
 しかし、菩薩が三阿僧祇劫、無量阿僧祇劫という長い間修行するのは、迷いや悟りの有無に囚われているからではありません。仏道を学ぶ人はこのことを知りなさい。
 

《息の長い文の引用ですが、「若し出家の日」に、以下に挙げる六つのことを「不退転を得んと欲はば」という構造だと思われます。
 そして要するところ、出家即菩提であるということのようです。出家して修行して、その後に「阿耨多羅三藐三菩提」に至るのではなく、出家をしたその時に至っているのだ、と禅師は説きます。
 「しかあるに」は、ここでは逆接に訳してあります(『全訳注』も同様です)が、逆接である意味が分かりません。
 『提唱』が「おそらく鎌倉時代の初期には、…「それだから」という意味に使う例があったものと思われます」と言いますが、特にそういうことを想定しなくても、ここは、前の「いはゆる…」の一文を補足的に挿入されたものと考え、「しかあるに」からが本文で、前の「仏」の話全体を受けて、「そういうことで」と繋げていると考えればよいように思います。
 終わりのところ「有辺無辺に染汚する」は「染汚」が「よごれる、よごす(『漢語林』)で、『全訳注』が「有辺は有の辺際に執することであり、無辺は無の辺際に執することである」。その二つはまったく矛盾する。…そんな矛盾にそまるというほどの意である」と言います。「阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就する」と言ったことと修行することとが矛盾しないということを、これも補足的に語っておいた、ということでしょうか。「本来本法性 天然自性身」ならば何故に修行しなければならないか、ということが、禅師の問いの始まりであったことを思い出します。》


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