第四祖優婆毱多(ウバキクタ)尊者、長者の子あり、名を提多迦(ダイタカ)といふ。来りて尊者を礼(ライ)し、出家を志求す。
 尊者曰く、「汝身の出家なりや、心の出家なりや。」
 答えて曰く、「我出家を求むるは身心の為に非ず。」
 尊者曰く、「身心の為にせず、復誰か出家する。」
 答えて曰く、「夫れ出家は、我我所(ガガショ)無し。我我所無きが故に、即ち心生滅せず。心生滅せざるが故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり、心形相(ギョウソウ)無く、其の体も亦然り。」
 尊者曰く、「汝当に大悟して心自ら通達すべし。宜しく仏法僧に依りて聖種(ショウジュ)を紹隆(ショウリュウ)すべし。」
 即ち与(タメ)に出家受具せしむ。
 

【現代語訳】
 釈尊から第四祖、優婆毱多尊者の所に、長者の子で提多迦という者が来て、尊者を礼拝して出家を願い出た。
 尊者が言うには、「あなたが願うのは身の出家か、それとも心の出家か。」
 提多迦答えて、「私が出家を願うのは、自分の身や心のためではありません。」
 尊者は尋ねて、「自分の身心のためでなければ、一体誰が出家するのか。」
 提多迦答えて、「そもそも出家者には、私も私の所有物もありません。私も私の所有物も無いので、心は生じることも滅することもありません。心は生じることも滅することもないので、これは恒常不変の道です。諸仏もまた恒常であり、心に決まった姿はなく、その本体もまた同様です。」
 尊者の言うには、「それなら、あなたは先ず大悟して心を自ら知りなさい。そして仏法僧に従って聖者の種を受け継ぎ、繁栄させなさい。」
 そこで尊者は提多迦を出家させ戒を授けました。
 

《二人目の祖師の出家の話です。前の話と違って、これは難問です。
 「汝身の出家なりや、心の出家なりや」という問いが、身近でありながら含みがありそうで、なかなか面白く、普通に考えれば、もちろん「心の出家」ですと答えねばならなさそうです。
 それに対して、「我出家を求むるは身心の為に非ず」というのがまた、そう来たか、という答えで、読む者は、さて、その心は、と、ちょっと座り直す感じです。
 「我我所無し。我我所無きが故に、即ち心生滅せず」は驚くべき言葉で、その心は「道元禅師が坐禅のことを『身心脱落』といわれておった思想と同じことを意味する」(『提唱』)と言えそうです。彼は、出家する前に、すでに十分に出家者であったわけです。
 逆に、それだから出家するのだと考えれば分かりやすいでしょうか。出家即菩提は、出家=菩提であるわけですから、=(イコール)の前後は、どちらであっても同じ、ということで、この人の場合は、たまたま菩提の方が先だった、…。》


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