しるべし、如来世尊、あきらかに衆生の断善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさずくるとして、出家をゆるせたまふ。大慈(ダイズ)大悲なり。
断善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま学者、かならず善友に親近(シンゴン)すべし。
善友とは、諸仏ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無(ハツム)せざるを善友とし、善知識とす。
この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
しかあればすなはち、衆生は親疏をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに釈尊の正法なるべし。
【現代語訳】
知ることです。如来世尊は、明らかに善根を断つ人々を知っておいでになるのですが、そのような人でも、善因を授けるために出家を許されたのです。これは如来の大慈悲心からなのです。
人々が善根を断つ原因は、善い友に親しまず、正法を聞かず、善い考えをせず、法のように行じないことにあります。今仏道を学ぶ人は、必ず善い友に親しみなさい。
善い友とは、諸仏はいらっしゃると説く人であり、悪行には罪報があり 善行には福報があると教える人です。因果の道理を無視しない人を善い友といい、善い師というのです。
この人の説く教えは正法であり、この道理を思惟することは善い考えであり、このように行じることは法に適った行いなのです。
ですから人々の親疎を選ばず、もっぱら出家受戒を勧めなさい。その後の修行が続くか続かないかを顧みてはいけません。精進不精進を気に掛けてはいけません。これはまさに釈尊の説かれた正法なのです。
《禅師の解説です。以上のことから、まず、釈迦は、善星が将来不善を犯すであろうことはお見通しだったのだが、それでも、いや、むしろそれだからこそ彼の数少ない「善因」となるように出家をさせたのだ、ということが分かるではないか、…。
したがって、また、道を学ぼうとする者は、「諸仏まします」と信じ、「罪福ありとをしふる」ような人と親しみ、出家に導いてもらわなくてはならないのだということも、わかるであろう、…。
ということなのだから、出家である私たちは、衆生に対しては、「ただ出家受戒をすすむべし」、その後にその者たちの中には、仏道を捨てたり、仏道を怠けたりする者もでてくるであろうが、出家をするということ自体が「善因」になるるのだから、そういうことにこだわる必要はないのだ、と禅師は説きます。
いい人が何時までもいい人であり続けることは難しい、「♪人間生きてりゃ いつか身につく 垢もある」、それはそれで仕方がない、その時のために、できるうちに出家受戒しておくがいい、それがいつか善因となるのだ、…。確かに「大慈大悲」だという気がします。
今をよりよく生きることが仏法だ、と言ってしまうとひどく軽くなってしまいますが、深く広いところでそういうことなのでしょう。》