このゆゑに、西天竺国にはすなはち難陀、阿難、調達(チョウダツ)、阿那律(アナリツ)、摩訶男(マカナン)、抜提(バダイ)、ともにこれ師子頬王(シシキョウオウ)のむまご、刹利種姓(セツリシュショウ)のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅(ショウチョク)なるべし。
 いま刹利にあらざらんともがら、そのみをしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。
 閻浮(エンブダイ)最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に帰するは、すなはち出家なり。自余の諸小国王、諸離車衆(ショリシャシュ)、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とどまるべからざるにとどまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。
 

【現代語訳】
 この故に西方のインド国では、難陀、阿難、提婆達多、阿那律、摩訶男、抜提など、すべて師子頬王の孫で、王族の最も尊貴な人たちでしたが、皆釈尊に従って速やかに出家したのです。これは、後の人々への勝れた足跡です。
 まして今、王族でない人たちは、その身を惜しんではいけません。王子でない人たちには、何の惜しむ所がありましょう。
 インド国の最も尊貴な王族から庶民に至るまで、この世界で最も尊貴な仏に帰依して出家したのです。まして、その他の多くの小国の王や民衆が、いたずらに惜しむべきでないものを惜しみ、誇るべきでないのに誇り、止まるべきでない所に止まって、出家しないことは、誰が見苦しい事としないでしょうか。誰が愚かの至りとしないでしょうか。
 

《これまで幾度となく繰り返された、出家こそこの世の最大の価値あることである、という話です。
 「師子頬王」は「釈尊の祖父にあたる」(『全訳注』)人だそうで、したがって難陀以下の人は釈尊の兄弟、ないしは従兄弟ということになります(第二十一章1節にも出てきました)。
 「閻浮提最第一の尊貴より…」のここの訳は(『提唱』の訳も同様に見えますが)、ちょっと変で、「この世のもっとも尊貴な存在から、さらに三界のもっとも尊貴な存在へと転ずる、それがすなわち出家なのである」(『全訳注』)というのがよいように思います。
 しかし、これも何度も書いたことですが、高貴な人が行ったことだからと言って、それが価値あることだとは思えず、また、地位の「高貴」であることが価値であるかのような言い方で、釈然としません。
 むしろ出家した先の世界がどのようなものであるのか、涅槃とはどのような状況を言うのか、そういうことを、もっと繰り返し聞きたい気がします。
 それは結局自分でその世界に入る以外に知ることはできないことなのでしょうが、それでもなお、その片鱗でも、と思います。
 桂枝雀は「茶漬け閻魔」で極楽を、「静かやがな、だいち。…(あなたは)『静かはえぇ』っちゅうけど、…一日や二日はえぇけども、三日、四日、五日と『静か』っちゅうけど並みの静かやあらへん、シシラ、シ~ンとしてて、ちょいちょい蓮の花が、ポンッと開く音が聞こえるぐらいで、あとはシシラ、シ~ンとしてる。住んでる人々も大きぃ声出さずに小ぃさい声で、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ…、なぁるほど、てなこと言ぅてんねんで」と描いて見せました。
 これは勿論落語の極楽ですが、といって、では本当はそれと違ってどういう世界なのか、悟りの世界とはどういう世界なのか、それを本気で聞きたいという思いがあります。》


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ