この巻は、『全訳注』第8巻の最初に載っています。
 構成は、まず経典からの引用があって、禅師がそれに解説を加える、ということが、繰り返されていて、あたかも説法のための準備メモの観があります。
 そこでこの巻については、勝手ながらS『試み』の章分けを変更して、各引用ごとにまとめて、それを一章とさせてもらうことにします。
 禅師が存命で書き継がれたならば、それぞれの引用が相互に脈絡をもって語られたのではないか、などと想像してみます。
  

仏の言(ノタマ)はく、「若し過去世無くんば、応に過去仏無かるべし。若し過去仏無くんば、出家受具無けん。」
 あきらかにしるべし、三世(サンゼ)にかならず諸仏ましますなり。しばらく過去の諸仏におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに仏法の習学にあらず。
 過去の諸仏を供養したてまつり、出家し随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり。供仏(クブツ)の功徳によりて作仏(サブツ)するなり。
 いまだかつて一仏をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作仏することあらん。無因作仏あるべからず。
 

【現代語訳】
 仏(釈尊)の言うことには、
「もし過去の世が無ければ、過去の仏も無かったであろうし、もし過去の仏が無ければ、出家受戒も無かったであろう。」と。
 この言葉から明らかに知られることは、三世(過去現在未来)には必ず諸仏が居られるということです。しかし、一先ず過去の諸仏に、諸仏の始めがあると言ってはいけないし、その始めは無いとも言ってはいけません。諸仏の始めと終わりの有無について邪まに推し量ることは、仏法の習学ではないのです。
 過去の諸仏を供養し、出家して随順すれば、必ず諸仏となるのです。仏を供養する功徳によって仏となるのです。
 未だ曾て一人の仏をも供養しなかった衆生(人々)が、どうして仏になることがありましょうか。原因が無くて仏になることなどありえないのです。

 

《第一の引用文です。
 いきなり「若し過去世無くんば、応に過去仏無かるべし」が、あまりに当たり前で、どうしてこういうことを言う必要があるのか、よく分からないように思えますが、後を見ると、「若し過去仏無くんば、出家受具無けん」とあり、出家のためには「過去仏」がいなくてはならないわけで、そういう仏がいたのだ、ということを言っているようです。
 「そのはじめありといふことなかれ、…」は、『徒然草』最終段の「八つになりしとし」の話を考えればいいのではないでしょうか。つまり、「過去の諸仏を供養したてまつり、出家し随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり」ということなら、普通、「その…第一の仏は、いかなる仏にか候ひける」という疑問が生じるであろう、というわけです。
 問われた兼好の父は、「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と苦笑いしたようですが、禅師は、そういうことを問うてはいけない、と言います。問い続けて行くことによって答えに到達しようと考えてはならない、あるところからは、黙って信じればいいのだ、…。
 ここで「供養する」とは、つまり信じることを言うのかも知れません。
 私は、このブログの中で、私なりに真面目に問うたつもりではありますが、幾度も、そういう罰当たりな、許されざる問いを発してきたのではなかったか、という気がします。所詮、仏道の徒ではないのかも知れません。》
 

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