舎利弗、我過去を念ふに、万劫(マンゴウ)の中に於て、仏の出でたまふこと有ること無し。
 
(ソ)の時、初めの五百劫に九万の辟支仏(ビャクシブツ)有りき。我形寿(ギョウジュ)を尽して、悉く皆衣服飲食臥具医薬を供養して、尊重(ソンジュウ)し讃歎しき。
 次の五百劫に、復(マ)た四事を以て、八万四千億の諸(モロモロ)の辟支仏を供養して、尊重し讃歎しき。
 舎利弗、是の千劫を過ぎ已(オワ)りて、復た辟支仏無し。我時に閻浮提(エンブダイ)に死して梵世(ボンセ)の中に生まれ、大梵王と作(ナ)れり。是(カク)の如く展転(テンデン)して、五百劫中、常に梵世に生まれ、大梵王と作りて閻浮提に生まれず。
 是の五百劫を過ぎ已りて、閻浮提に下生(ゲジョウ)し、閻浮提を治化(ジケ)し、命終(ミョウジュウ)して四天王天に生まる。中に於て命終して忉利天(トウリテン)に生まれ、釈提桓因(シャクダイカンイン)と作れり。是の如く展転して、五百劫を満てて閻浮提に生まれ、五百劫を満てて梵世に生まれ、大梵王と作れり。
 舎利弗、我九千劫中に於て、但だ一たび閻浮提に生まれ、九千劫中に、但だ天上にのみ生まる。劫尽きて焼くる時、光音天に生まれ、世界成じ已れば、還(マ)た梵世に生まれて、九千劫中、都(スベ)て人中(ニンチュウ)に生まれず。
 舎利弗、是の九千劫に、諸仏辟支仏有ること無く、諸の衆生多く悪道に堕在す。
 

【現代語訳】
 舎利弗よ、私は過去を思うに、一万劫(劫は悠久の時間)の間、仏が世に出現されたことは無かった。
 その初めの五百劫には、九万の辟支仏(縁起の法で悟りを開く修行者)がいて、私は身命の尽きるまで、それら全ての者に衣服や飲食、臥具、医薬などを供養して、尊重し讃歎した。
 次の五百劫には、また四事(衣服、飲食、臥具、医薬など)でもって、八万四千億の諸々の辟支仏を供養して、尊重し讃歎した。
 舎利弗よ、この千劫が過ぎると辟支仏はいなくなった。そうして私は閻浮提(須弥山南方の人間の住む世界)で死んで梵天世界の中に生まれ、大梵王となった。このようにして五百劫の間、常に梵天世界に生まれて大梵王となり、閻浮提に生まれることは無かった。
 この五百劫が過ぎると、私は梵天世界から閻浮提へ生まれ下り、閻浮提を教化して、命が終わると四天王天に生まれた。そして命が終わると忉利天に生まれて、釈提桓因(帝釈天)となった。このように、私は五百劫を満たして閻浮提に生まれ、また五百劫を満たして梵天世界に生まれて大梵王となったのである。
 舎利弗よ、私は九千劫に、ただ一度だけ閻浮提に生まれ、九千劫の間はただ天上界にだけ生まれたのである。世界の終わりが来て劫火(世界を焼き尽くす火)に焼かれれば光音天に生まれ、世界が出来上がれば、また梵天世界に生まれて、九千劫の間、全く人間の中に生まれなかったのである。
 舎利弗よ、この九千劫の間には諸仏や辟支仏は無く、多くの衆生(人々)が悪道に堕ちたのである。
 
《ここは、次の第4節の前置きの話です。
 先に言ったように、第1節から続く、同じ主旨の話ですが、分かりにくいので、順を追って整理をしてみますと、…。
 釈尊の「過去」は「一万劫」であったようです。
 その「一万」のうちの初めの「五百劫」では「九万の辟支仏」を供養し、次の「五百劫」には「八万四千億の諸々の辟支仏」を供養しました。この、合わせて千劫の間は、「閻浮提(須弥山南方の人間の住む世界)」にいたようです。
 次の「五百劫」では、「梵天世界の中に生まれ、大梵王とな」り、さらに次の「五百劫」では「梵天世界から閻浮提へ生まれ下り」、次の「五百劫」では「四天王天に生ま」れ、そこから「忉利天に生まれて、釈提桓因(帝釈天)とな」りました。
 以上のようにして二千五百劫が過ぎ、以後ずっと「天上」界にいて、人間界からは離れていたようです。
 「我九千劫中に於て、但だ一たび閻浮提に生まれ」がよく分かりません。九千劫は、初めの千劫を除いたのでしょうが、その後閻浮提へは二回生まれているように思うのですが、…。
 もう一つ分からないのは、こういう転生の物語が何を意味するのか、ということですが、ともかく、その間に人間世界からは、いかなる仏も修行者もいなくなって、「諸の衆生多く悪道に堕在す」というありさまになったのだった、と語ります。
 さて、その一万劫の後の話が、次節です。》


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