舎利弗、是の万劫過ぎ已りて、仏有りて出世したまふ。号して普守如来、応供(オウグ)、正遍知(ショウヘンチ)、明行足(ミョウギョウソク)、善逝(ゼンゼイ)、世間解(セケンゲ)、無上士、調御丈夫(チョウゴジョウブ)、天人師、仏世尊と曰ふ。
 我爾(ソ)の時に、梵世に命終(ミョウジュウ)して閻浮提に生まれ、転輪王(ジョウオウ)と作(ナ)れり。号して共天(グウテン)と曰ふ。人寿(ニンジュ)九万歳なり。
 我形寿(ギョウジュ)を尽して、一切の楽具を以て、彼の仏及び九十億の比丘を供養せり。九万歳に於て、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。
 是の普守仏、亦我に「汝来世に於て当(マサ)に作仏(サブツ)を得べし。」と記せず。何を以ての故に、我爾(ソ)の時に、諸法実相に通達(ツウダツ)すること能はず。計我、有所得の見に貪著したればなり。
 

【現代語訳】
 舎利弗よ、この一万劫を過ぎて仏が世に出現された。名付けて普守如来、応供(供養に値する者)、正遍知(正理を窮め尽くした知者)、明行足(智慧と実践の具わる者)、善逝(善所に行ける者)、世間解(世間を知解する者)、無上士(この上なき優れた人)、調御丈夫(如何なる者でもよく導く人)、天人師(人間や天衆を導く無上の師)、仏世尊(世に尊き仏)と呼ばれた。
 私はその時に、梵天世界で命を終えて閻浮提(須弥山南方の人間世界)に生まれ、転輪聖王(偉大な統治者)となった。名を共天といい、人としての年齢は九万歳であった。
 そこで私は、身命の尽きるまで、あらゆる楽しきもので、その普守仏と九十億の比丘(出家僧)を供養した。それは九万歳の中に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を求めるためであった。
 しかしこの普守仏は、又私に、「お前は来世に仏となるであろう。」とは予言されなかった。何故なら、私はその時に、諸法実相(全ての存在は真実である)の道理に達することが出来ず、自我を認めて、得るものがある、という考えに囚われていたからである。
 

《「計我、有所得の見」は、『全訳注』では「我のことを思い、有所得の考え」と訳しています。
 ここも、訳だけで通過します。》


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