第三に現前供養とは、面(マノアタ)り仏身及び支提(シダイ)とに対して、供養を設くるなり。
第四に不現前供養は、不現前の仏及び支提に於て、広く供養を設く。
謂(イハ)く、現前と不現前と共に、仏及び支提塔廟に供養し、并(ナラ)びに不現前の仏及び支提塔廟に供(クウ)ず。
現前供養は、大功徳を得(エ)、不現前供養は、大大供養を得(ウ)。境寛広(キョウカンコウ)なるが故に、現前不現前の供養者は、最大大の功徳を得(ウ)。
第五に自作(ジサ)供養は、自身仏及び支提に供養す。
第六に、他作(タサ)にして仏及び支提に供養す。少しく財物有れば、懈怠(ケダイ)に依(ヨ)らず、他をして施作(セサ)せしむるなり。
謂く、自他供養は彼此(ヒシ)同為す。自作供養は大功徳を得(エ)、教他供養は大大功徳を得(エ)、自他供養は最大大の功徳を得(ウ)。
【現代語訳】
第三の現前供養とは、直接仏や霊廟に相対して供養を捧げることである。
第四の不現前供養とは、仏像や霊廟のないところで広く供養を捧げることである。
つまり、現前供養と不現前供養とは、共に仏や霊廟塔廟に供養することであり、また眼前にない仏や霊廟塔廟に供養することである。
現前供養をすれば大きな功徳が得られ、不現前供養をすれば更に大きな功徳が得られる。広い心によって、現前と不現前の供養を修める者には、最大の大功徳が得られるのである。
第五の自作供養とは、自身が仏や霊廟に供養することである。
第六、他の人が仏や霊廟に供養するとは、少しでも財物があれば、怠ることなく他の人に施しをさせることである。
つまり、自身が供養しても、他の人に供養させても、同じように功徳があるのである。自身が供養すれば大きな功徳が得られ、他の人に教えて供養させれば更に大きな功徳が得られ、自ら供養し、他にも供養させれば最大の功徳が得られるのである。
《供養の種類、第三から六が一挙に語られます。
現前供養よりも不現前供養の方が大きな供養となる、というところが興味深いところです。目の前に仏や霊廟が見えておれば、少々信心の薄いものでも供養する気持ちになるけれども、何もないところで供養しようという気持ちにはなかなかならないわけで、それをするのは「現前供養」よりも信心が篤いというふうにでも考えるのでしょうか。
「謂く」以下は、前の二つの単なる繰り返しに過ぎないように思えるのですが、どういう意図か、よく分かりません。
同様に、自作供養よりも他作供養の方が大きな供養となるというのは、自未得度先度他の精神に近いからでしょうか。
あるいは、人に勧めて供養させるのは、自分もすでに供養の心があるのと同じだから、同時に二人が供養することになる、というようにでも考えるのでしょうか。》