いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏(エブク)なり。このゆゑに帰依といふ。帰投の相は、たとへば子の父に帰するがごとし、依伏は、たとへば民の王に依(エ)するがごとし。いはゆる救済(グサイ)の言(ゴン)なり。
 仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。
 問ふ、「何が故にか偏(ヒトヘ)に此の三に帰するや。」
 答ふ、「此の三種は、畢竟帰処なるを以て、能く衆生をして生死(ショウジ)を出離し、大菩提を証せしむるが故に帰す。此(コノ)三、畢竟不可思議功徳なり。」
 仏は西天には仏陀耶と称す、震旦(シンタン)には覚と翻す。無上正等覚なり。
 法は西天には達磨と称す、また曇無(ドンム)と称す。梵音(ボンノン)の不同なり。震旦には法と翻す。一切の善悪無記の法、ともに法と称すといへども、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則の法なり。
 僧は西天には僧伽(ソウギャ)と称す、震旦には和合衆(ワゴウシュ)と翻す。かくのごとく称讃しきたれり。
 

【現代語訳】
 いわゆる帰依とは、帰は帰投(身心を投げ出してつき従うこと)であり、依は依伏(たよって従うこと)です。このために帰依というのです。帰投の姿は、例えば子が父につき従うようであり、依伏は民衆が国王に従うようなものです。これはいわゆる救済の言葉なのです。
 仏は大いなる師であるから帰依するのです、仏の法は煩悩を癒やす良薬であるから帰依するのです、仏の僧団は優れた友であるから帰依するのです。
 問う、「なぜひたすらに、この三種に帰依するのですか。」
 答え、「この三種は、要するに人々の帰着する所であり、よく人々の生死輪廻を解き放ち、大いなる悟りを得させるから帰依するのです。この三種には、つまり不可思議な功徳があるのです。」
 仏のことをインドではブッダヤと呼び、中国では覚(覚者)と翻訳しています。覚は無上正等覚であり、この上ない正しい悟りの意です。
 法のことをインドではダルマと呼び、またドンムと呼んでいます。これは梵語(インドの言語)の音の不同によります。これを中国では法と翻訳しています。すべての善、悪、無記(善でも悪でもない)の法を、共に法と呼んでいますが、今三宝(仏、法、僧団)の中の帰依するところの法とは規則の法です。
 僧団は、インドではソウギャと呼び、中国では和合衆と翻訳しています。インドや中国では、このように三宝を称賛してきたのです。
 

《続いて、「帰依」と「三宝」という二つの言葉の禅師による解説です。
 まず、「帰依」は、「帰投」と「依伏」であり、子が父に「帰する」ようにすることであり、民が王に「依する」ようにする、つまり、信じて従い、権威を認めて従うことであって、それをミックスしたのが、「帰依」するということだ、ということでしょうか。
 次に「三宝」の解説です。
 「仏はこれ大師」とは、私たちに目指すべき行く手、目標を示してくれるもの、「法は良薬」とは、そこへ赴く行き方を示す、道中において修正を助けてくれるもの、「僧は勝友」とは、その道中を同行して励ましてくれるもの、というような意味と考えるといいでしょうか。
 というわけで、「此の三種は畢竟帰処」、人の行き着くべき処であって、「不可思議功徳なり」、つまりは無限の功徳をもたらすものである、…。
 ちなみに、この問答は原文が漢文で、引用のようですが、「此三、畢竟不可思議功徳なり」は和文で、『全訳注』は、ここを引用に含めず、禅師の言葉として扱っています。》


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