理体の三宝。
五分法身
(ゴブンホッシン)を名づけて仏の宝と為す。
滅理無為を名づけて法の宝と為す。
無学を学ぶ功徳を名づけて僧の宝と為す。
【現代語訳】
 理体の三宝(真如の法身を体とする三宝)。
仏戒を保つ身、禅定を修する身、仏の智慧を証する身、煩悩を解脱した身、解脱を知見する身の五つを仏陀の宝と呼び、
寂滅の真理による無為(因果を離れた不変の真実)を仏法の宝と呼び、
煩悩を断ちつくして、更に学ぶべきものが無い悟りを学ぶ功徳を僧団の宝と呼ぶ。
 

《三つ目は「理体の三宝」ですが、『全訳注』が「理論的な意味における三宝」と言います。『提唱』が「真実の姿」による三宝と言っていますが、その「真実」もそういうことなのでしょう。
 「五分法身」は、『提唱』に「戒」「定」「慧」「解脱」「解脱知見」という「釈尊の説かれた教えの実体」を言う、とありますが、「実体」の意味が分かりません。この書は口述筆記で、話がの中で軽く使われた、無くてもいい言葉のように思います。
 例えば「化儀」における釈尊が人間釈尊ないし偶像的に把握された全体像としての釈尊であるのに対して、こちらは五つの修行方法をたどることによって理論的に構成された釈尊、哲学的に把握された釈尊とでも考えたらいいのでしょうか。
 「滅理無為」は、『全訳注』が「寂滅して無為なる」と言います。涅槃に入って自適であるというようなことかと思われますが、それが「法」であるというのが、これもよく分かりません。
 「無学」は学が無いのではなくてすでに学ぶものが無い状態(もっとも、原文は漢文で「学無学功徳」と書かれていて『提唱』は「学、無学の功徳」と読んで、「まだ真実を得ていない人(現在学んでいる人、という解釈なのでしょう)とすでに得た人」と解して全く異なります)。
 そこに至った「功徳」(よい報いとして与えられたもの、というような意味でしょうか)を僧と呼ぶ、というのがよく分かりません。無学を学ぶ境地を与えられることを、僧というというようなことでしょうか。》

 一体の三宝。
証理大覚
(ダイガク)を名づけて仏の宝と為す。
清浄
(ショウジョウ)離染を名づけて法の宝と為す。
至理和合、無擁無滞を名づけて僧の宝と為す。」
【現代語訳】
 一体の三宝(三宝の一々の本体が同体である三宝)。
寂滅の真理を証する大いなる悟りを仏陀の宝と呼び、
清浄にして煩悩を離れていることを仏法の宝と呼ぶ。
寂滅の真理に達して和合し、蓄えることなく滞ることなきを僧団の宝と呼ぶ。」
 

《「一体の三宝」というのは、「三宝のそれぞれにそなわる三宝」(『全訳注』)、「一つのもので仏・法・僧のそれぞれについて全部を包み込んでおるという考え方」(『提唱』)である、というのですが、よく分からない言い方で、ここの訳の方が分かりやすく思われます。
 そして挙げられた三つは、当然ながらいずれも同じ状態を言っているように見えて(「本体が同体である」のですから当然とも言えますが)、強いて言えば、「証理大覚」は求めるもの、「清浄離染」はそこに至る方法論、「至理和合、無擁無滞」はその道程において得られる喜び、というようなことでしょうか。


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