かくのごとくの三宝に帰依したてまつるなり。もし薄福少徳の衆生は、三宝の名字(ミョウジ)なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや帰依したてまつることをえんや。
 法華経に曰く、
「是の諸の罪の衆生は、悪業(アクゴウ)の因縁を以て、阿僧祇劫(アソウギコウ)を過ぐれども、三宝の名(ミナ)を聞かず。」
 法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民(シンミン)なり、眷属なり。
 法華経の所説、これまことなり。余経中の所説、みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。余経中の説をきたして、法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。
 法華の功徳力(クドクリキ)をかうぶらざれば、余経あるべからず。余経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかに、いまの説まします。しるべし、三宝の功徳、まさに最尊なり、最上なりといふこと。
 

【現代語訳】
 このような三宝に帰依し奉るのです。もし福うすく徳の少ない人間であれば、この三宝の名称すら聞き奉ることがないのです。まして帰依し奉ることなど出来ましょうか。
 法華経には次のように説かれています。
「この罪多き人々は、悪しき行いのために、無量の時を経ても、三宝(仏陀、仏法、僧団)の名を聞くことがない。」と。
 法華経は、諸仏如来が世に出現した大切な因縁を説いた経典です。大師釈尊の説いた諸経の中では、法華経は大王であり大師なのです。その他の経典その他の教えは、皆法華経に従う臣下であり家族なのです。
 法華経に説かれている教えは真実です。他経の中に説かれている教えは、皆方便を帯びていて、釈尊の本意ではありません。ですから、他経の中の教説によって、法華経を比較して論ずることは本来逆なのです。
 法華経の功徳力を受けなければ、他の経は存在しなかったのです。他の経は、皆法華経に従うことを待ち望んでいるのです。この法華経の中に、先ほどの教えが説かれています。これによって、三宝の功徳は、まさに最尊であり最上であることを知りなさい。
 

《禅師の解説です。
 「法華経は、諸仏如来 一大事の因縁」であって、こうした三宝に帰依すべしということは、その法華経に書かれているのだから、「三宝の功徳、まさに最尊…、最上」であること間違いなし、…。
 昔、東京で道を歩いていたら、呼び止められて某仏教系新興宗教に誘われた事がありました。ついて行って話を聞いたのですが、私が曹洞宗の寺の生まれだと話すと、その人が、釈迦が最後に説いた教えは法華経で、したがってそれが釈迦の到達点であり、曹洞宗の言う坐禅はそこに至る過程に過ぎなかったのだ、だから坐禅を言う曹洞宗よりも自分たちの教えの方が正しいのだ、というような話をしたことを思い出します。
 そのことはそれだけで私は帰ったのですが、そういえば、今でも、法華経と坐禅ということは、どう関わるのだろうか、という関心が残っています。
 法華経はいわば到達点で、そこに至る方法論が坐禅だというふうに、一応は言えるのでしょうが、その方法論・過程こそが実はそのまま到達点だというのが、いわゆる禅の教えの発見したことだ、と言っていいのではないでしょうか。法華経を読まないままでの話で、何とも、…。


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