世尊 (ノタマ)はく、
「衆人所逼(ショヒツ)を怖れて、多く諸山園苑(オンエン) 及び叢林孤樹制多(セイタ)等に帰依す。此の帰依は勝(ショウ)に非ず、此の帰依は尊に非ず。此の帰依に因りては、能く衆苦を解脱せず。
 諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依すること有るは、四聖諦(シショウタイ)の中に於いて、恆(ツネ)に慧を以て観察し、苦を知り、苦の集を知り、永く衆苦(シュク)を超えんことを知り、八支(ハッシ)の聖道(ショウドウ)、安穏の涅槃に趣くと知る。
 此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり。必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱せん。」
 世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼(ショヒツ)をおそれて、山神(サンジン)鬼神(キジン)等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦(シュク)を解脱することなし。
 

【現代語訳】
 世尊(釈尊)は次のように言われました。
「人々は窮迫することを怖れて、多くの人が山々や庭園、林、一樹、廟などの神に帰依している。だがこの帰依は勝れたものでも尊いものでもない。この帰依によっては、多くの苦を解脱することはできない。
 しかし諸人が仏に帰依し、仏の法や僧団に帰依するならば、その四聖諦(苦、集、滅、道の四つの真理)の教えの中で、常に智慧によって世間を観察して、その苦を知り、苦の原因を知り、永く諸々の苦を離れることを知り、そして八つの聖道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)によって、安穏の涅槃(仏の悟り)に赴くことを知るであろう。
 この帰依は最も勝れ、最も尊いものである。必ずこの帰依によって、多くの苦を解脱することが出来るのである。」と。
 このように 世尊(釈尊)は、すべての人々のために教え示されました。ですから 世の人々は、徒に窮迫することを怖れて山神や鬼神等に帰依したり、外道(仏教以外の教え)を祭る廟などに帰依してはいけません。彼は、その帰依によって諸苦を解脱することはないのです。
 

《ここは、たとえば自然信仰を越えるものとしての帰依三宝を説いているようです。「諸山園苑及び叢林孤樹制多」のうち、「制多」を除くすべては自然のものです。
 山や野原、林、木々といった自然のものに神が宿るというの、何やら日本風の考え方のようですが、古代の人間世界ではどこにでもあった ものなのでしょう。
 そして、このように改めて強調されると、この仏法は、そういう従来の古代信仰を越えた、新しい教えなのだと言っているようにも見えます。
 平安末期に一般的であったらしい、浄土信仰、念仏思想という「弥陀の本願」にひとえにすがる考え方ではなく、坐禅し供養し日常生活を行ずることが涅槃の世界なのだとする考え方は、当時の日本にあっては目新しい新興宗教であって、禅師には、その先達としての強い自負があったらしいことは、『辨道話』においても感じられたことでした。》


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