希有経(ケウキョウ)に曰く、
「四天下(シテンゲ)及び六欲天を教化(キョウケ)して、皆四果を得せしむとも、一人の三帰を受くる功徳には如かず。」
 四天下とは、東西南北洲なり。そのなかに、北洲は三乗の化(ケ)いたらざるところ、かしこの一切衆生を教化して、阿羅漢となさん、まことにはなはだ希有なりとすべし。
 たとひその益ありとも、一人ををしへて三帰をうけしめん功徳にはおよぶべからず。
 また六天は、得道の衆生まれなりとするところなり。かれをして四果をえしむとも、一人の受三帰の功徳のおほくふかきにおよぶべからず。
 

【現代語訳】
 希有経には次のように説かれています。
「たとえ四天下(須弥山を中心とする東西南北の全地上世界)と六欲天(天上の欲楽世界に住む六種の天人)を教化して、皆に四果(一切の煩悩を断じた阿羅漢)を得させたとしても、それは一人の人が三帰戒(仏陀仏法僧団に帰依する戒)を受けた功徳には及ばない。」と。
 四天下とは、須弥山の四方に位置する世界で、東西南北の洲のことです。その中でも北洲は、仏の三乗(悟りに至る三つの乗り物。声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のこと。)の教えの達しない所であり、そのすべての人々を教化して阿羅漢(一切の煩悩を断じた聖者)にすることは、実に甚だ希有なことと言えます。
 しかし、たとえそのような利益があっても、一人を教えて三帰戒を受けさせた功徳には及ばないというのです。
 また六欲天は、仏道を悟る人々が希な所であり、その人に四果(阿羅漢)を得させたとしても、一人の三帰戒を受けた功徳の多さ深さには及ばないのです。
 

《仏の順位でいうと如来(仏)が最上位で、次の第二位が阿羅漢で、「四果を得せしむ」というのは、その阿羅漢にするということのようで、多くの人をそのように導くのは、「まことにはなはだ希有」ことだけれども、しかし、それよりも、一人の人を仏法僧に帰依させる方が、よりいっそう尊いことだと言います。
 以前、国会で「一番でなきゃだめなんですか。二番じゃだめなんですか」という話が話題になりましたが、ここは、多くの人を二番にするよりも、一番に「帰依」する(一番になるのではないのです)ことの方が尊い、という、ちょっと画期的な考え方です。
 言い換えれば、鶏口牛後の故事の逆の教えです。銀のレプリカをもらうよりも、金の本物を見せてもらう(所有する、のではありません)方がいい、というと、言い過ぎでしょうか。
 「三宝」の尊さは、そのように絶対的なものなのだ、ということです。》


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