この巻は、『全訳注』では第八巻にあります。「深信因果」とは、因果を深く信ずべき事」というような意味でしょうか。

 百丈山大智禅師懐海(エカイ)和尚、凡(オヨ)そ参の次いで、一(ヒト)りの老人有って、常に衆に随って法を聴き、衆退けば老人も亦退く。忽ち一日退かず。
 師遂に問ふ、「面前に立つ者は復是何人(ナンピト)ぞ。」
 老人曰ソレく、
「某甲
(ソレガシ)は是人に非ざるなり。過去迦葉仏の時に於いて、曾(カツ)て此の山に住す。因みに学人問ふ、『大修行底の人、還た因果に落つるや無(イナ)や。』
 某甲他(カレ)に答えて云く、『因果に落ちず。』
 後の五百生(ショウ)、野狐身(ヤコシン)に堕す。今請ふらくは、和尚代わって一転語したまへ、貴(ネガ)ふらくは野狐身を脱せんことを。」
 遂に問ふて曰く、「大修行底の人、還た因果に落つるや無や。」
 師云く、「因果を昧(クラ)まさず。」
 老人 言下(ゴンカ)に於いて大悟し、礼を作して曰く。「某甲(ソレガシ) (スデニ) 野狐身を脱し、山後に住在す。敢へて和尚に告ぐ、乞ふらくは亡僧の事例に依らんことを。」
 

【現代語訳】
 百丈山の大智禅師懐海和尚が説法する時、一人の老人がいつも修行僧の後について法を聴き、終わって修行僧が帰れば老人も帰っていました。ある日、老人は説法が終わっても帰りませんでした。
 そこで師は尋ねました。「私の前に立っている者は誰か。」
 老人は答えました。
「私は人間ではありません。昔、迦葉仏が世に出られた時代に、この百丈山に住持していた者です。
その当時、修行者が私に尋ねました。『仏道を大悟した人は因果の法に落ちるものでしょうか、それとも落ちないものでしょうか。』
 私は彼に答えて、『因果の法に落ちることはない。』と。
 そして私は、後の五百生を野狐の身に堕ちて過ごしました。今日は和尚様にお願いがございます。どうか私に代わってお答えください。私は野狐の身を抜け出したいのです。」
 そこで老人は尋ねました。「仏道を大悟した人は因果の法に落ちるものでしょうか、それとも落ちないものでしょうか。」
 師は答えました。「因果の法をくらますことはない。」と。
 老人は師の言葉を聞いて大悟し、師を礼拝して言いました。
「和尚様のお陰で、私は今野狐の身を抜け出すことができました。その亡骸は山の後ろにあります。あえて和尚様に申し上げます。どうかそれを亡僧の例に倣って葬りください。」と。
 

《次の章まで続く長い引用から始まります。『全訳注』の「開題」によれば、『天聖広燈録』の一節で「いわゆる大修行の公案」なのだそうです。
 また、この巻の主題は「不落因果」と「不昧因果」という公案だと言いますが、ここで早速その言葉が出てきました。意味が分かりませんが、ともかく読んでいきます。
 ここの老人はかつてこの山に住んでいた(おそらく修行僧として)のですが、別のある修行僧から「大修行底の人、還た因果に落つるや無や」と問われて、「不落因果」と答えたために、その姿を野狐に変じられてしまったようです。
 そして今、人間の身に帰りたいと大智禅師に懇願したわけです。
 こういう場合、普通なら、禅師が、それならと言って老人に問いを発し、それに見事に答えることによって、その願いが叶えられる、ということになりそうなところですが、ここはそうではありませんでした。
 ここでは逆に老人の方が先の修行僧の問いをそのまま禅師に投げかけ、禅師が「不昧因果」と答え、それを聞いた老人が「大悟」したことによって、めでたく野狐の身を逃れて、人間の姿に帰った、というのです。
 「不落因果」「不昧因果」とは、どういうことなのか、「不昧因果」と聞いて老人が大悟したのは、どういうことか、など、いろいろな疑問がありますが、引用がもう少し続きますので、一応先に進みます。》

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