「四禅比丘」巻は、『全訳注』第八巻に先の「深信因果」巻に続いて収められています。
 「四禅」は、『全訳注』が「いわゆる禅定に入った時の境地を四つの階位にわかったものであって、古来から教相を論ずる人々は細かくそれぞれの境地を分析し語っているが、いまはその煩にたえないのでこれを記さない」と言っています。
 ちなみにサイト「愛知学院大学禅研究所」によれば、以下のようです。
 欲界の迷いを超えて、色界に生じる四段階の禅定。色界における心の静まり方が、初禅・第二禅・第三禅・第四禅と次第に深まっていく。(中略)
「初禅」は、覚・観・喜・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
「第二禅」は、内浄・喜・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
「第三禅」は、捨・念・慧・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
「第四禅」は、不苦不楽・捨・念・一心の心の伏態が現れる禅定。
 一巻の主題は、これも『全訳注』が「いわゆる三教一致の説の批判にあった」のではないかと言っています。
 

  第十四祖龍樹祖師言はく、
 仏弟子の中に一比丘有り、第四禅を得て、増上慢を生じ、四果(シカ)を得たりと謂(オモ)へり。
 初め初禅を得て、須陀洹果(シュダオンカ)を得たりと謂ひ、第二禅を得し時、是を斯陀含果(シュダゴンカ)と謂ひ、第三禅を得し時、是を阿那含果(アナゴンカ)と謂ひ、第四禅を得し時、是を阿羅漢と謂へり。
 是を恃(タノ)んで自ら高ぶり、復進むことを求めず。命尽きなんと欲(ホッ)する時、四禅の中陰の相有って来たるを見て、便ち邪見を生じ、涅槃無し、仏為に我を欺くと謂へり。
 悪邪見の故に四禅の中陰を失ひ、便ち阿毗泥犁(アビナイリ)の中陰の相を見、命終(ミョウジュウ)して即ち阿毗泥犁の中に生ず。
 諸(モロモロ)の比丘仏に問うて曰く、「阿蘭若(アランニャ)比丘、命終して何(イズ)れの処にか生ぜる。」
 仏の言(ノタマ)はく、「是の人は阿毗泥犁(アビナイリ)の中に生ず。」
 諸の比丘大(オオイ)に驚き、「坐禅持戒して便ち爾(シカ)るに至る耶(ヤ)。」
 仏前(サキ)の如く答へて言(ノタマ)はく、
「彼は皆増上慢に因る。四禅を得る時、四果を得たりと謂へり。臨命終(リンミョウジュウ)の時に、四禅の中陰の相を見て、便ち邪見を生じ、謂へらく涅槃無し、我は是れ羅漢なり、今還って復生ず、仏は虚誑(コオウ)を為せりと。是の時 即ち阿毗泥犁の中陰を見、命終して即ち阿毗泥犁の中に生ず。」
 是の時、仏偈を説いて言(ノタマ)はく、
「多聞(タモン)、持戒、禅も未だ漏尽(ロジン)の法を得ず、此の功徳有りと雖も、此の事信ずべきこと難し、獄に堕つることは謗仏(ボウブツ)に由る、第四禅に関わるに非ず。」
 

【現代語訳】
 第十四祖龍樹祖師の言うことには、
 仏弟子の中の出家の一人に、四つの禅定の中の、第四の禅定(ゼンジョウ)を得たことで、慢心して四果(四つ聖者の悟り)を得たと思った者がいた。
 その者は、初めに初禅定を得て、聖者の最初の悟りである須陀洹果を得たと思い、第二の禅定を得た時には、これを聖者の第二の悟りである斯陀含果を得たと思い、第三の禅定を得た時には、これを聖者の第三の悟りである阿那含果を得たと思い、第四の禅定を得た時には、これを究極の聖者である阿羅漢を得たと思った。
 彼はこれによって自ら慢心し、更に修行を進めようと思わなかった。そうして自分の命が尽きようとした時に、四禅天(四禅定を修めた者が生まれる天界)に生まれる中陰(死んでから次に生まれ変わるまでの期間)の相が現れたのを見て、そこで邪念を起こし、「阿羅漢ならば天界に生まれずに、煩悩を滅ぼし尽くした涅槃に入るはずである。それなのに涅槃は無かった。仏は私のことを欺いたのである。」と思った。
 彼は悪しき邪念を起こしたために四禅天の中陰を失い、阿鼻地獄の中陰の相が現れて、命が終ると阿鼻地獄の中に生まれた。
 出家の弟子たちは仏に尋ねた、「この出家は、命を終えてから何処に生まれたのでしょうか。」
 仏は答えた。「この人は阿鼻地獄の中に生まれたのである。」
 弟子たちは大変驚いて言った。「坐禅持戒した出家が、どうして地獄に行くのでしょうか。」
 仏は前のように答えて言われた。
「彼が阿鼻地獄に生まれたのは、皆慢心を起こしたことが原因である。彼は四禅定を得た時に四果を得たと思った。そのために、臨終の時になって四禅天の中陰の相が現れたのを見て邪念を起こし、阿羅漢の涅槃は無かった。私は阿羅漢であり、更に生まれる所は無いはずである。それなのに今また天界に生まれようとしている。仏は私に嘘を言ったのである、と思った。それでこの時、阿鼻地獄の中陰の相が現れ、命が終って阿鼻地獄の中に生まれたのである。」と。
 そしてこの時、仏は偈文を説かれた。
「教えを多く聞き、戒を保ち、禅定を修めても、まだ煩悩を尽くした法は得られない。何故なら、これらには功徳があるけれども、煩悩を尽した法は信じることが困難だからである。彼が地獄に堕ちたのは、仏を謗ったことが原因であり、第四の禅定には関係しない。」と。
 

《いきなり少々長くなりましたが、ひとまとめの引用ですので、あしからず。
 この比丘は二つの罪を犯しました。第一は「第四禅を得て、・・四果を得たりと謂へり」という「増上慢」の罪、第二は「仏為に我を欺くと謂へり」という「邪見」の罪です。
 彼は「第四禅」を得たので死後は「天界」に生まれ変わって「涅槃」を得るのだと思っていたのですが、「第四禅」を得て以後「増上慢」を起こして修行を怠っていた罰として、(以下のところがちょっと分かりにくいのですが)すぐに「天界」へ行くことができず、「中陰」に留められたようです。
 そしてその時彼は自分の罪を悟るのではなく、逆に「第四禅」を得れば「涅槃」が得られると教えた仏を、自分を欺いたのだと思ったので、その罪で阿鼻地獄に落とされることになった、ということのようです。
 なお、ここの訳文では仏の最後の答えにある「今還って復生ず」を「天界に生まれようとしている」としていますが、「人界」とすべきではないかと思いますが、どうでしょうか。『全訳注』は「やっぱり、生を受ける」としていますから、その意味でしょう。
 さて、終わりの偈の前段二句がよく分かりません。
 「多聞」は「よく師の法を聞いて忘れないこと」(『全訳注』)で、「多聞、持戒、禅」は修行・修証を言うのでしょう。「漏尽」は漏尽通(「六神通の一。 煩悩を打ち消して悟りの境地に至っていることを知る超人的能力」・コトバンク)だそうです。まとめてみると、どれほど修行を積んでも「漏尽通」に至り着くのは容易ではない、それは大きな功徳のあることなのだが、本当にそれを信じきるのは難しい、地獄に落ちるのは、そうした不信から仏を謗ることになることからのことであって、それと比べれば「増上慢」如きはさしたることではないのだ、というようなことになりそうな気がしますが、どうでしょうか。
 なお、「四果」は、『全訳注』の注を要約すると以下のようです。
 小乗仏教で、修行によって得られる悟りの位の四段階であって、須陀洹果(三界の見惑を断ち尽くしてはじめて聖者の流類に入ることを得たという段階)・斯陀含果(この果を得れば、もはやもう一度人中に来って涅槃に入るという意)・阿那含(欲界の煩悩を断じ尽くし再びこの欲界に還り来らない)果・阿羅漢果(もはや学ぶべき者なき聖者の境地)。》