優婆毱多(ウバキクタ)の弟子の中に、一比丘有り。信心もて出家し、四禅を獲得して、四果と謂(オモ)へり
 毱多方便して他処に往(ユ)かしむ。路(ミチ)に於て群賊を化作(ケサ)し、復五百の賈客(コカク)を化作す。賊、賈客を劫(オビヤ)かし、殺害狼藉せり。
 比丘見て怖れを生じ、即便ち自ら念(オモ)へらく、「我は羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべし。」
 賈客亡(ニ)げて後、長者の女有り、比丘に語(ツ)げて言はく、「唯願はくは大徳、我と共に去るべし。」
 比丘答へて言はく、「仏は我と女人と行くことを許したまはず。」
 女言はく、「我大徳を望んで而(シカ)も其の後に随はん。」
 比丘憐愍(レンミン)して相ひ望んで行く。
 尊者次に復大河を変作(ヘンサ)せり。
 女人言はく、「大徳、共に我と渡るべし。」
 比丘は下流に在り、女は上流に在り。女 便ち水に堕ち、白(モウ)して言はく、「大徳我を済(スク)ふべし。」
 爾(ソ)の時に比丘、手接して出す。細滑(サイカツ)の想(オモヒ)を生じて愛欲の心を起せり。即便ち自ら阿那含(アナゴン)に非ずと知る。
 此の女人に於て、極めて愛著(アイジャク)を生じ、将(ヒキ)いて屏処(ヘイショ)に向かひて共に交通せんと欲(オモ)ふ。方に是れ師なるを見て、大慚愧を生じ、低頭(テイヅ)して立つ。
 尊者語りて言はく、「汝昔自ら是れ阿羅漢なりと謂へり。云何(イカン)が此くの如きの悪事を為さんと欲(ホッ)するや。」
 将(ヒキ)ゐて僧中に至り、其れをして懺悔せしめ、為に法要を説きて、阿羅漢を得しむ。
 

【現代語訳】
 優婆毱多の弟子の中に、信心で出家し、四禅(四つの禅定)を獲得して四果(四つの聖者の悟り)を得たと思った一人の比丘(出家)がいた。
 そこで師の毱多は、方便してその比丘を他所に行かせて、道に多くの賊を出現させ、又五百人の商人を出現させた。その盗賊たちは商人たちを脅し、殺害狼藉をはたらいた。
 比丘はそれを見て恐れおののき、すぐに自ら思うに、「私は阿羅漢(一切の煩悩を滅ぼした聖者)ではない。おそらく第三果の阿那含(欲望の誘惑を断った聖者)であろう。」と。
 商人が逃げた後、比丘に長者の娘が話しかけてきた。「お坊様、どうかお願いがございます。私と一緒に行ってくださいませんでしょうか。」
 比丘は答えて、「仏は私と女人とが一緒に行くことを許されておりません。」
 娘の言うには、「それでは、私はお坊様を遠くに眺めて、その後ろに付いていきます。」と。
 比丘は娘を哀れに思い、互いに遠くに眺めあって行った。
 毱多尊者は次に大河を出現させた。
 娘は言った、「お坊様、私と一緒に川を渡りましょう。」
 比丘は下流にいて、娘は上流にいた。娘は水に堕ちて言った、「お坊様、私を助けてください。」
 その時に比丘は、手を出して助け上げると、娘の滑らかな肌に引かれて愛欲の心を起こし、すぐに自分は阿那含の聖者ではないと知った。
 そしてこの娘に非常な愛着の心を起こして、物陰につれて行って交わりを迫ると、そこではじめて師であることを知り、大いに慙愧して頭を下げて立ちつくした。
 毱多尊者は言った、「お前は以前、自分は阿羅漢であると思っていた。それなのに、どうしてこのような悪事をしようとするのか。」
 そこで尊者は、比丘を僧団の中につれて行き、懺悔させて法要を説き聞かせ、阿羅漢を得させた。

 

《第二の「無聞の咎」の続きで、第二の例話と思われます。
 「杜子春」物語のような話です。「四禅を獲得して、四果と謂へり」という僧が、自分の誤りに気付いたという話ですが、おもしろいのは、気付いたことによってそこからやり直した、というのではなくて、その気付いたこと自体が功徳であるかのように、そこで「懺悔」してそのまま「阿羅漢を得しむ」となったという点です。
 何か一つのことが、本当に、例えば骨の髄まで分かれば、それは一切が分かったということなのだ、という考え方のようで、分かるということの意味を考えさせられるところがあります。
 最初の「賊、賈客を劫かし、殺害狼藉せり。比丘見て怖れを生じ」が、どうして「即便ち自ら念へらく、我は羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべし。」となるのか、よく分かりません。もし阿羅漢だったら、割って入って賊を諭すとか、商人を助けるとか、しなければならなかった、ということでしょうか。あるいは、恐れを感じることが、煩悩があるということになるのでしょうか。


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