大宋嘉泰(カタイ)中に、僧正受(ショウジュ)といふもの有り、普燈録三十巻を撰進するに云はく、
「臣、孤山智円の言(ゴン)を聞くに曰く、『吾が道は鼎の如し。三教は足の如し。足一つも虧(カ)くれば鼎覆(クツガエ)る。』
 臣、嘗て其の人を慕い、其の説を稽(カンガ)ふ。乃ち知りぬ、儒の教(キョウ)たる、其の要は誠意に在り。道の教たる、其の要は虚心に在り。釈の教たる、其の要は見性(ケンショウ)に在り。
 誠意と虚心と見性と、名を異にして体同じ。厥(ソ)の帰する攸(トコロ)を究むるに、適(ユク)として此の道と会(エ)せざるは無し、云々。」。
 かくのごとく、僻計生見(ショウケン)のともがらのみおほし、ただ智円、正受(ショウジュ)のみにはあらず。このともがらは、四禅をえて四果とおもはんよりも、そのあやまりふかし。謗仏、謗法、謗僧なるべし。
 すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり、莾莾蕩蕩招殃禍(モウモウトウトウショウオウカ)うたがひなし。三宝(サンボウ)、四諦(シタイ)、四沙門なしとおもひしともがらにひとし。
 仏法いまだその要見性にあらず。七仏、西天二十八祖、いづれのところにか仏法ただ見性のみなりとある。
 六祖壇経(ダンキョウ)に見性の言(ゴン)あり、かの書これ偽書なり。附法蔵の書にあらず、曹谿の言句(ゴンク)にあらず、仏祖の児孫、またく依用(エヨウ)せざる書なり。正受、智円、いまだ仏法の一隅をしらざるによりて、一鼎三足(イッテイサンソク)の邪計をなす。
 

【現代語訳】
 大宋の嘉泰年中に、僧の正受という者が普燈録三十巻を著し、天子に奉って申し上げるには、
「臣が、孤山智円の言葉を聞くところによると、彼は、『私の道は鼎に似ている。仏教、儒教、道教の三つは、その三本の足のようなものである。その一つでも欠ければ鼎はひっくりかえるのである』と言われました。
 臣は、以前にその人を慕ってその説を考察し、そして知りました。それは、儒教の教えの要旨は誠意にあり、道教の教えの要旨は虚心にあり、釈尊の教えの要旨は見性にあるということであり、又その誠意と虚心と見性とは、名称は異なっても本体は同じであり、その帰着する所を究めれば、行き着くところはこの道と合致するのである、云々。」と。
 大宋国には、このような僻見や我見の出家者ばかり大勢いて、ただ智円や正受だけのことではないのです。この者たちは、四禅(第四の禅定)を得て四果(阿羅漢)を得たと思う者よりも、その誤りは深く、仏陀を謗り、仏法を謗り、僧団を謗ることと同じなのです。
 このような考えは、もはや解脱を否定し、過去 現在 未来の三世を否定し、因果の道理を否定しているのであって、限りなく多くの災いを招くに違いありません。これは仏法僧の三宝や苦集滅道の四諦(四つの真理)、聖者の四沙門(四種の出家)などは無いと思う者たちと同じなのです。
 また仏法は今まで、その要旨が見性(自己の本性を見ること)であったことはありません。釈尊までの過去七仏や、その法を伝えたインドの二十八人の祖師の中で、いったい誰が、仏法とはただ見性だけである、と説いたでしょうか。
 六祖壇経に見性という言葉がありますが、この書は偽書です。正法を伝える書ではないし、曹谿(六祖慧能)の言葉でもありません。仏祖の児孫の全く使用しない書です。正受や智円は、まだ仏法の一隅さえ知らないので、仏教と儒教と道教を鼎の三本の足に例えるという誤った考えをするのです。
 

《前節の「いま大宋国に寡聞愚鈍のともがらおほし」からの展開、というか連想というか、その一つの典型が、いわゆる三教一致説だということで、四禅比丘の話を離れて、そちらへ話が移っていきます。
 最初に、正受という僧が孤山智円という僧の言葉を取り上げて語った話についてです。
 その人は「儒の教たる、其の要は誠意に在り。道の教たる、其の要は虚心に在り。釈の教たる、其の要は見性に在り」と理解し、その三つは同じことを言っているのだと考えました。
 もちろん私にその正確な当否を言う資格はありませんが、普通に考えてそんなことはありえないだろうという気がします。
 禅師は、仏法はただ「見性」(「修行によって表面的な心のあり方を克服し、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること」・Weblio辞書)だけが大切なのではない、というふうに批判します。
 そういうふうに言われると、ではほかに何が「要」でしょうかと聞きたくなりますが、多分、「要」はそんなふうに単発的にあるのではなくて、いくつもの小さな「要」が有機的に関わり合ってできあがった世界観のようなものとしてあるのではないでしょうか。
 すると、一人の人の世界観を一語で言い表すことからして無謀なことだと思いますし、それは、老子、孔子についても同じであるでしょうから、それを三つ並べて同じだなどと言うのは、三人が同じ人だと言っているに等しいことになるでしょう。
 せいぜい、この三つの言葉が示すそれぞれ一部分ずつが似通っているという程度にすぎないに違いありません。それも「似通っている」のが限界で、この三つに限らず、決して同じなどということはないのではないでしょうか。言葉が違えば、意味も違うのが当然ですから。


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