『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

辨道話

 おほよそ我朝は、龍海の以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明用明の前後より、秋方の仏法東漸する、これすなはち人のさいはひなり。しかあるを、名相(ミョウソウ)事縁しげくみだれて、修行のところにわづらふ。
 いまは破衣綴盂(ハエテツウ)を生涯として、青巌白石のほとりに茅(ボウ)をむすんで、端坐修練(シュレン)するに、仏向上の事たちまちにあらはれて、一生参学の大事すみやかに究竟(クキョウ)するものなり。これすなはち龍牙(リュウゲ)の誡勅(カイチョク)なり、鶏足の遺風なり。その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集(センジュ)せし普勧坐禅儀に依行(エギョウ)すべし。
 それ仏法を国中に弘通(グツウ)すること、王勅(オウチョク)をまつべしといへども、ふたたび霊山の遺嘱をおもへば、いま百万億刹に現出せる王公相将、みなともにかたじけなく仏勅をうけて、夙生(シュクショウ)に仏法を護持する素懐をわすれず、生来(ショウライ)せるものなり。その化(ケ)をしくさかひ、いづれのところか仏国土にあらざらん。
 このゆゑに、仏祖の道を流通(ルヅウ)せん、かならずしもところをえらび、縁をまつべきにあらず。ただ、けふをはじめとおもはんや。しかあればすなはち、これをあつめて、仏法をねがはん哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄(ヒョウキ)せん参学の真流(シンル)にのこす。」

 ときに、寛喜辛卯(カノト ウ)中秋日 入宋伝法沙門道元記 辨道話

【現代語訳】

およそ我が国は、大海の東方に位置していて、釈尊のおられたインドから遙か遠い国ですが、欽明、用明天皇の前後から、西方の仏法が伝来したことは、人々の幸せでした。しかし、その仏法の教えと実践は多様で入り乱れ、修行に悩むところでした。
 今は、破れ衣と粗末な鉢を生涯の友として、苔むす岩や白石のほとりに草庵を結んで、坐禅修練すれば、仏にもとらわれない悟りがすぐに現れて、一生に学ぶべき仏道の悟りを速やかに究めることが出来るのです。これは龍牙居遁(リュウゲコドン)禅師の教えであり、鶏足山(ケイソクセン)に入られた摩訶迦葉尊者が残された家風なのです。その坐禅の作法は、以前 嘉禄の年に私が編集した普勧坐禅儀に従ってください。
 そもそも仏法を国中に広めるには、まず天皇のお許しを待ってするべきものですが、釈尊が霊鷲山で後世に大法を託されたことを思い返せば、今日無数の国々に現れ出た国王、宰相、将軍などは、皆ありがたいことに、釈尊のお言葉を受けて、前世に於いて仏法を護持すると願ったことを忘れずに、この世に生まれてきた人々なのです。その人々が治める地域は、どこであろうとも仏の国なのです。
 このために、仏祖の道を広めることは、必ずしも場所を選び、縁を待つべきではありません。ただ今日を始めの日と思うのです。ですから、これらのことを集めて、仏法を求める優れた人や、仏道を尋ねて雲や浮草のように漂う真の修行者のために、これを書き残すのです。」
 

この時、寛喜三年(西暦1231年) 辛卯 八月十五日 中秋の日 入宋伝法沙門 道元記す。 辨道話。
 

《文明の隔遠の地でありながら私たちの前に古くから仏法がもたらされていたのは幸いと言うべきですが、「名相事縁」、様々な教え(第二十一章)が入り乱れて混乱していました。
 その中で、自分は今、龍牙禅師、迦葉尊者の教えに従って「雲遊萍寄」(第二章)して修行することによって、「仏向上の事たちまちにあらはれて、一生参学の大事すみやかに究竟」しているが、そのことは「普勧坐禅儀」に著したつもりです。…。
 ちなみに、この「普勧坐禅儀」は、「帰朝されたその年(一三三一年)に書かれ、そののち観音導利院で浄書された直筆の美しい『普勧坐禅儀』がいまも残って」(『「普勧坐禅儀」を読む』・内山興正著)いるそうです。
 禅師は、帰朝するに当たって如浄禅師から「国に帰り、化を布き広く人天を利せよ。」と言い贈られたとされます(『道は』)。ここの「仏法を国中に弘通すること王勅をまつべし…」は、そのことを意識したものなのでしょう。
 「霊山の遺嘱」は、「お釈迦さまが霊山におられて、亡くなるときに、これからの仏法は王さまや大臣の助けを得なければならないと言われた」(『講話』)ことを指すとされます。これは、普通に考えると仏法が権力に従属するということになりそうですが、どうも禅師の考え方話は逆に、釈尊がそう言ったことによって、「王公相将」が存在することになったというふうに考えるようで、したがって国王のいる所、仏国土でないところはない、ということになるようです。
 「ふたたび」は、改めて、というような気持ちでしょうか。今改めてその言葉を思い返せば、あえて勅許を求め、場所を選ぶことは、必要がないだろう。自分は「今日をはじめだとばかりおもうてはならない。釈尊当時からの仏法流通のつづきをやるのである」(『参究』)と宣言している口調、ということのようです。
 以上で辨道話を終わります。恐る恐る始めましたが、何とか初めの一巻の終わりにたどりつきました。もう少し続けてみようと思うのですが、次からが『正法眼蔵』の正巻、それもきなり「現成公案」巻です。

 さきの問答往来し、賓主(ヒンジュ)相交することみだりがはし、いくばくか、はななきそらにはなをなさしむる。しかあれども、このくに、坐禅辨道におきて、いまだその宗旨つたはれず。しらんとこころざさんもの、かなしむべし。
 このゆゑに、いささか異域の見聞(ケンモン)をあつめ、明師の真訣(シンケツ)をしるしとどめて、参学のねがはんにきこえんとす。
 このほか、叢林の規範および寺院の格式、いましめすにいとまあらず、又草々にすべからず。

【現代語訳】
 これまでの問答は、自ら問うて又答えてと乱雑なことでした。どれほど花のない空に花を見させたことでしょう。しかしながらこの国は、坐禅修行に於いてまだその教えが伝わっていません。それを知ろうと志す者は悲しむことでしょう。
 このために、少しばかり外国の見聞を集め、正法に明るい宗師の秘訣を記して、仏道を学びたい人に伝えるのです。
 この他の、禅道場の規範や寺院の規則については、今教える余裕はありませんし、又それらは、簡略に済ませるべきものではありません。
 

《結びの章です。「みだりがはし」は謙遜の言葉でもあるでしょうが、半ばは本音で、こんな当たり前のことは言わなくてもいいようであればいいのに、という気持ちもあるのではないでしょうか。
 これはあくまで初心者講習で、本当は、もう一歩進んだところの話をしたいのだが、しかし、今はまずその初心者を育てなくてはならない、ということでしょう。
 「はななきそらに…」は、今はまだ正法の受け入れられているとは言えないわが国で、こればかりのことを話してみても、それが大きく変わるというものではないだろうが、僧でもしなければまじめな後進たちの拠り所がないであろうから、せめて自分が学んできたことを書き著せば、いささかなりともその手助けにはなるだろう、という気持ちと思われます。
 そうでもしなければ、さしあたって仏法に志している者の道しるべとなるものがない、本当ならこの他に「叢林の規範および寺院の格式」についても、もっときちんと話すべきだが、それをするには、今はまだ準備ができておらず、軽々に語ることはできないから、それはまた改めてのことにしなければならない、…。
 「寺院の格式」を語らねばならないというのは、急に現世的な話で変ですが、『全訳注』は「儀式」と訳していますから、日常の行動の作法など、後に「洗浄」や「洗面」巻に語られるような内容を言うのでしょうか。

問答結び

 また釈教の三千界にひろまること、わづかに二千余年の前後なり。刹土のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず、人またかならずしも利智聡明のみあらんや。
 しかあれども、如来の正法、もとより不思議の大功徳力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。
 わが朝は、仁智のくににあらず、人に知解(チゲ)おろかなりとして、仏法を会(エ)すべからずとおもふことなかれ。いはんや人みな般若の正種(ショウシュ)ゆたかなり。ただ承当することまれに、受用することいまだしきならし。
 

【現代語訳】
 また釈尊の教えが全世界に広まったのは、わずかに二千余年前後の間です。その国土はさまざまで、必ずしも情けや智慧のある国ばかりではなく、人も又必ずしも理智聡明の者ばかりではありません。
 しかしながら、如来の正法は、もともと不思議な大功徳力を備えていて、時至ればその国土に広まるのです。また人は、まさに正しい信心を起こして修行すれば、賢い人も愚かな人も区別なく、等しく悟りを得るのです。
 我が国は、情けや智慧のある国ではありませんが、人の理解力が劣っていて仏法を理解できないと思ってはいけません。まして人は皆、悟りの智慧の種子を豊かに持っているのです。ただそれを会得することが稀なので、それを使用することがまだ出来ないだけなのです。
 

《「わづかに二千年」とは驚きですが、インドの思考はそのようにすべからく悠久なのです。三千世界に仏法が広まるのにはそのくらいのスパンで考えなければならない、そのくらい世界は広いと考えるのでしょう。そういう広い世界では、これまで仏法が出会った国も人も様々なのであって、そうそう優れた国、人ばかりではなかった。それでも仏法は立派に広まってきて、そこでは人びとはインド中国の人々と同じように、ちゃんと「得道」してきたのです、…。
 初めの「また」は、先に仏法の理解が必ずしも「仁智」には関わらないといことを説明してきた(前章)のに対して、ここでは土地柄がさまざまなのだから、広く浸透するのには時間がかかることを承知して、急ぐ必要はなく、希望を持って当たればよいということを説こうとしているのでしょう。
 以上のようなわけだから、我が国にこの正法を広めることについて心配することはない、「まして人は、悟りの智慧の種子を豊かに持っている」のだから、だれでも悟りに至らないということはないのだというのですが、さらりと言われた「般若の正種豊かなり」は大きなことで、元来人は皆仏法に向かおうとする種を持っているのだというのは、いわば性善説であって、仏法の基本的立場であるようです。
 仏教は、除夜の鐘の百八の煩悩の話など、どちらかと言えば人の持つ業(ごう)について語ることが多く、人間性の否定的な把握が基本かのように思われますが、「本来本法性」ともあるように、元来性善説で、そういう意味では楽観的であるようです。
 ただそれをきちんと「承当」(「引き受けて学ぶ」・『注釈』)しないから、なかなか自分のものとすることが少ないに過ぎないのだ、と、禅師の強調するひたすらに修し証することの大切さを改めて語って、すべての問答の結びとします。》

3

 しかはあれども、仏法に証入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。
 仏在世にも、てまりによりて四果を証し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし、正信(ショウシン)のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。
 また、癡老の比丘黙坐せしをみて、設斎の信女(シンニョ)さとりをひらきし、これ智によらず、文(モン)によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
 

【現代語訳】
 しかしながら仏法を悟ることは、必ずしも人の世間的智慧をもって解脱の舟とするわけではありません。
 釈尊が世に在りし時にも、手まりで頭を打たれて四果の悟りを得た人や、戯れに袈裟を着けた縁で大道を明らかにした人がいましたが、皆、暗愚な者、狂痴な者でした。しかしながら正しい信心に助けられて、迷いを離れる道を得たのです。
 又、説法を請われた愚かな老僧が黙って坐っているのを見て、供養を設けた女性が悟りを開きました。これは智慧によるものでも、経文によるものでも、言葉を聞いたからでも、話を聞いたからでもありませんでした。ただ正しい信心に助けられたのです。
 

《なるほど我が国は文化の遅れた国ではあるけれど、そもそも仏法というものは、「人間界や天上界の才智を要するものではない」(『参究』)。
 「てまり」の話は『雑宝蔵経』にある話だそうです(同)。『参究』によって紹介しますと、ある熱心な求道者が、凡僧を大阿羅漢尊者だと誤解して、「私にも四果阿羅漢果(小乗仏教で、修行によって得られる悟りの位を四段階に分けたもの・コトバンク)を悟らせて下さい」と頼んだら、凡僧はその人を面壁させて背中に手まりをぶつけ、これが初果だと言った、是非第二果を、というので、またぶつけた、それを四回やったところ、その求道者が悟りを開いたと言い出した、で、釈迦のところに行って本当だろうかと尋ねると、「ただ自らの信ずる力であるぞ」と答えられた、という話です。
 「袈裟」の話は、「正法眼蔵・袈裟功徳巻」にある話ですので、そちらに譲ります。
 「癡老の比丘」の話は「正法眼蔵啓迪(けいてき)」という書物にあると『参究』が紹介しています。それによると、信心深い老婆が老凡僧を招いたのだったが、その僧はごちそうになっただけで、蒙昧のために説法の時になって何も言えず、赤くなって黙り込んでしまった、すると老婆は、「是法不可示、言辞相寂滅、言語同断心行所滅」こそ真の正法なのだと、悟りを得た、という話だそうです。
 このように、才智はいらないのだから、日本人でも大丈夫なのだ、ただ「正しい信心」さえあれば、…。》

2 答え

 しめしていはく、「いふがごとし。わがくにの人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となるぬべし。名利にはおもむきやすく、惑執とらけがたし。

【現代語訳】
 教えて言う、「あなたの言うとおりです。我が国の人は、まだ情けや智慧が行き渡らず、人の心はねじけています。たとえ正しい法を教えても、甘露はかえって毒となることでしょう。名利には向かいやすく、迷執からは離れ難いのです。
 

《こんなに簡単にそのとおりだと言ってしまわれても困るという気がしますが、しかたがありません。
 それにしても、「仁智あまねからず」はまだいいとして、「人また迂曲なり」というのは、平安文化のどこにそれがあるのか、と思います。
 『講話』は、「北条執権が暴威をふるい、皇室の御稜威も甚だ微弱な状態になっていた」ことを嘆いての言葉だとしていますし、あるいは延暦寺、建仁寺の僧たちの堕落を言っているとも考えられますが、ここの言い方からは、そういう社会の一部の問題とするよりも、全体的な文化や生活の水準の低さを嘆いていると理解する方がいいように思われます。
 あの華麗な平安文化も、禅師の目には、せいぜい大陸文化の亜流くらいにしか見えていなかったのでしょうか。
 あるいは、それはそれで一つの文化であるとしても、それはまったく、わずか千人ほどで構成された貴族社会内部だけのものであって、禅師の目は、より多く、それとはまったく関わりのないところで日々を生きていた、たとえば光源氏と夕顔の逢瀬の早朝の場面に隣室でぼそぼそと対話する人々のような、庶民の方に向いており、いたということでしょうか。
 禅師のように純一な生き方をした人から見れば、あるいは普通の人々の生き方はここに語られるように見えるのかも知れません。
 以前、将棋の田中寅彦九段が、素人のおじさんたちが集まってわいわいガヤガヤ将棋を指して遊んでいるのを見て、将棋にはこんな楽しみ方もあるのかと驚いた、という話をしていました。そこで指される一手々々は彼から見ればあり得ない手であり、また振る舞いもしばしばあり得ないマナーであったことでしょうし、さらに、そういう意味不明の手を指しながら、それに一喜一憂している姿は、幼時から真剣に一筋にその道に打ち込んできた彼には、到底理解不能なものだったことでしょう。
 もちろん宋国でも庶民はそういう人たちだったのですが、禅師がかの国で接したのは、選りすぐりのエリートたちだけだったでしょうから、そこが高貴な国に見えるのも無理ありません。》

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