『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

帰依と三宝

 いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏(エブク)なり。このゆゑに帰依といふ。帰投の相は、たとへば子の父に帰するがごとし、依伏は、たとへば民の王に依(エ)するがごとし。いはゆる救済(グサイ)の言(ゴン)なり。
 仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。
 問ふ、「何が故にか偏(ヒトヘ)に此の三に帰するや。」
 答ふ、「此の三種は、畢竟帰処なるを以て、能く衆生をして生死(ショウジ)を出離し、大菩提を証せしむるが故に帰す。此(コノ)三、畢竟不可思議功徳なり。」
 仏は西天には仏陀耶と称す、震旦(シンタン)には覚と翻す。無上正等覚なり。
 法は西天には達磨と称す、また曇無(ドンム)と称す。梵音(ボンノン)の不同なり。震旦には法と翻す。一切の善悪無記の法、ともに法と称すといへども、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則の法なり。
 僧は西天には僧伽(ソウギャ)と称す、震旦には和合衆(ワゴウシュ)と翻す。かくのごとく称讃しきたれり。
 

【現代語訳】
 いわゆる帰依とは、帰は帰投(身心を投げ出してつき従うこと)であり、依は依伏(たよって従うこと)です。このために帰依というのです。帰投の姿は、例えば子が父につき従うようであり、依伏は民衆が国王に従うようなものです。これはいわゆる救済の言葉なのです。
 仏は大いなる師であるから帰依するのです、仏の法は煩悩を癒やす良薬であるから帰依するのです、仏の僧団は優れた友であるから帰依するのです。
 問う、「なぜひたすらに、この三種に帰依するのですか。」
 答え、「この三種は、要するに人々の帰着する所であり、よく人々の生死輪廻を解き放ち、大いなる悟りを得させるから帰依するのです。この三種には、つまり不可思議な功徳があるのです。」
 仏のことをインドではブッダヤと呼び、中国では覚(覚者)と翻訳しています。覚は無上正等覚であり、この上ない正しい悟りの意です。
 法のことをインドではダルマと呼び、またドンムと呼んでいます。これは梵語(インドの言語)の音の不同によります。これを中国では法と翻訳しています。すべての善、悪、無記(善でも悪でもない)の法を、共に法と呼んでいますが、今三宝(仏、法、僧団)の中の帰依するところの法とは規則の法です。
 僧団は、インドではソウギャと呼び、中国では和合衆と翻訳しています。インドや中国では、このように三宝を称賛してきたのです。
 

《続いて、「帰依」と「三宝」という二つの言葉の禅師による解説です。
 まず、「帰依」は、「帰投」と「依伏」であり、子が父に「帰する」ようにすることであり、民が王に「依する」ようにする、つまり、信じて従い、権威を認めて従うことであって、それをミックスしたのが、「帰依」するということだ、ということでしょうか。
 次に「三宝」の解説です。
 「仏はこれ大師」とは、私たちに目指すべき行く手、目標を示してくれるもの、「法は良薬」とは、そこへ赴く行き方を示す、道中において修正を助けてくれるもの、「僧は勝友」とは、その道中を同行して励ましてくれるもの、というような意味と考えるといいでしょうか。
 というわけで、「此の三種は畢竟帰処」、人の行き着くべき処であって、「不可思議功徳なり」、つまりは無限の功徳をもたらすものである、…。
 ちなみに、この問答は原文が漢文で、引用のようですが、「此三、畢竟不可思議功徳なり」は和文で、『全訳注』は、ここを引用に含めず、禅師の言葉として扱っています。》


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2 仏本行集経~2

 このほか、そこばくの諸仏を供養しまします。転輪聖王身としては、かならず四天下(シテンゲ)を統領すべし。供養諸仏の具、まことに豊饒なるべし。
   もし大転輪王ならば、三千界に王なるべし。そのときの供仏(クブツ)、いまの凡慮はかるべからず。ほとけときましますとも、解了(ゲリョウ)することえがたからん。
 

【現代語訳】
 釈尊は昔、この他にも多くの諸仏を供養されました。時に転輪聖王(偉大な統治者)であれば、きっと全世界を統治していて、諸仏を供養する供物は実に豊かであったことでしょう。
 もし大転輪王であれば宇宙の王であり、その時の仏の供養は、今の凡人の思慮では計り知ることが出来ません。たとえ仏が説いても理解し難いことでしょう。
 

《これはどういうことでしょうか。

前節のエピソードから、私たちの関心は当然「時に彼の諸仏、我に記を与へず」ということの理由に向かうのですが、そのことには触れられず、ただ「(釈尊の)供養諸仏の具、まことに豊饒」であったことが語られただけで終わり、次の章は別の話になってしまいます。
 釈尊はこのように諸仏に対して大変な布施をして供養したのだった、と禅師は大きく評価していることになりそうですが、先の「行持下」巻第三十六章には、如浄が王子からの大枚の布施を厳しく断ったことを「浙東浙西の道俗、おほく讃歎す」と語られています。あの王子は仏道への造詣が未熟だったようで、だから如浄は断ったのだということになっていて、それはそれで理解するとしても、ここの釈尊はそういうことはないわけですから、諸仏はその布施を受け取ってもいいのだ(何も書かれていないところを見ると、受け取ったのでしょう)ということになりそうですが、そうなのでしょうか。
 そうだとして、ではなぜ「時に彼の諸仏、我に記を与へず」、諸仏は釈尊に仏をなることを許さなかったのでしょうか。
 どうもよく分かりません。まだ、草稿、メモの範囲である所以でしょうか。》

  都合により、明日は休載します。


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1 仏本行集経~我に記を与へず~1

 仏本行集経(ブツホンギョウジッキョウ)に云く、
「仏、目犍連(モッケンレン)に告げたまはく、
『我れ往昔(オウジャク)を念(オモ)ふに、無量無辺なる諸(モロモロ)の世尊の所(ミモト)に於て、諸の善根を植え、乃至(ナイシ)阿耨多羅三藐三菩提を求む。
 目犍連、我往昔を念ふに、転輪聖王(テンリンショウオウ)の身と作(ナ)りて、三十億の仏に値(ア)ふ。皆同じく一号にして釈迦と号す。
 如来及び声聞衆(ショウモンジュ)まで、尊重(ソンジュウ)し承事し、恭敬(ケギョウ)し供養して、四事具足す。所謂衣服(エブク)、飲食(オンジキ)、臥具、湯薬(トウヤク)なり。
 時に彼の諸仏、我に記を与へず、汝当に阿耨多羅三藐三菩提、及び世間解(セケンゲ)、天人師、仏世尊を得て、未来世に於て正覚(ショウガク)を成ずることを得べしと。
 目犍連、我往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、八億の諸仏に値ふ。皆同じく一号にして、燃燈と号す。
 如来及び声聞衆まで、尊重し恭敬して、四事供養す。所謂衣服、飲食、臥具、幡蓋(バンガイ)、華香(クコウ)なり。
 時に彼の諸仏、我に記を与へず、汝当に阿耨多羅三藐三菩提、及び世間解、天人師、仏世尊を得べしと。
 目犍連、我往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、三億の諸仏に値ふ。皆同じく一号にして、弗沙(フシャ)と号す。
 如来及び声聞衆まで、四事の供養、皆悉く具足す。時に彼の諸仏、我に記を与へず、汝当に作仏(サブツ)すべしと。』」
 

【現代語訳】
 仏本行集経(釈尊の伝記)に言うことには、
「仏(釈尊)は目犍連(目連)に言われた、
『私は昔を思うに、無量の諸仏の所で多くの善根(善報を受ける行い)を植え、仏の無上の悟りを求めた。
 目犍連よ、私は昔を思うに、転輪聖王(偉大な統治者)となって三十億の仏に会った。これらの仏たちは皆同じ名前で釈迦と呼ばれた。
 私は、これらの仏や声聞(仏の説法を聞いて悟る者)の弟子に至るまで、皆尊重して仕え敬って衣服や飲食、臥具(敷物)、湯薬(湯茶薬)などを供養した。
 だがその時に仏たちは、お前は未来に仏の悟りを得て、世間を知る者、人間や天衆を導く者、世に尊き仏と呼ばれる者になるだろうと私に予言されなかった。
 目犍連よ、私は昔を思うに、転輪聖王となって八億の諸仏に会った。これらの仏たちは皆同じ名前で燃燈と呼ばれた。
 私は、これらの仏や声聞の弟子に至るまで、皆尊重し敬って衣服、飲食、幡蓋(貴人を上から高く覆うもの)、華香(花と香)などを供養した。
 だがその時に仏たちは、お前は未来に仏の悟りを得て、世間を知る者、人間や天衆を導く者、世に尊き仏と呼ばれる者になるだろうと私に予言されなかった。
 目犍連よ、私は昔を思うに、転輪聖王となって三億の諸仏に会った。これらの仏たちは皆同じ名前で弗沙と呼ばれた。
 私は、これらの仏や声聞の弟子に至るまで、皆すべて供養した。だがその時に仏たちは、お前は未来に仏となるであろうと私に予言されなかった。』」
 

《第二の引用文で、次の第2節が禅師の解説になります。
 目犍連という人は「釈迦の十大弟子の一人。マガダ国のバラモンの出身。はじめ懐疑論者サンジャヤの弟子であったが、仏弟子となり神通第一と称される。彼が餓鬼道におちた母を救うために供養した行法が盂蘭盆会(うらぼんえ)の起源といわれる」(コトバンク)のだそうです。
 さて、その人に釈尊が語りました。自分は、昔、様々な功徳を積み、転輪聖王となった後にも各階層の「三十億の仏」(それらは全て「釈迦」と呼ばれたのだそうです)を「尊重」「承事」「恭敬」「供養」してきたのだが、その仏達は私に将来仏の悟りを得て、立派な仏と成るだろうという予言を与えてくださらなかったのだった。…。
 また、その後に、でしょうか、同様に「八億の仏」(これは、全て「燃燈」と呼ばれたのだそうです)にも、また「三億」の仏(これは、全て「弗沙」と呼ばれたのだそうです)にも、「尊重」「承事」「恭敬」「供養」してきたのだが、やはり同じように「汝当に作仏すべし」という保証を与えては下さらなかった。…。
 それについて、以下に禅師の解説がなされるのですが、…。
 「釈迦」、「燃燈」、「弗沙」は、ここではそれぞれ、一群の仏の呼称とされていますが、例えば「燃灯仏」は「修行中の釈迦に、未来に仏となることを予言した過去の世の仏。釈迦は、この仏のために蓮の花を捧げ、また、歩きやすいように自分の髪の毛を泥道の上に敷いたという」(「weblio辞書」)という、特定の一人でもあるようで、不思議な使われ方です。》


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四種の馬

 雑阿含経(ゾウアゴンキョウ)に曰く、
「仏、比丘に告げたまはく、四種の馬有り、
 一つには鞭影を見て、即便(スナワ)ち驚悚(キョウショウ)して、御者の意に随ふ。
 二つには毛に触るれば、便ち驚悚して、御者の意に随ふ。
 三つには肉に触れて、然(シカ)して後、乃ち驚く。
 四つには骨に徹して、然して後方(ハジ)めて覚(オドロ)く。
 初めの馬は、他の聚落(ジュラク)の無常を聞いて、即ち能く厭(エン)を生ずるが如し。
 次の馬は、己(オノ)が聚落の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
 三の馬は、己が親の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
 四の馬は、猶(ナオ)己が身の病苦によりて、方めて能く厭を生ずるが如し。」
 これ阿含の四馬(シメ)なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり。しらざるは人天(ニンデン)の善知識にあらず。
 学者もし厚殖(コウジキ)善根の衆生にして、仏道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。仏道とほきものは、きかず、しらず。しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。
 いま生厭(ショウエン)といふは、「仏、一音(イットン)を以て法を演説するに、衆生類に随って各(オノオノ)(ゲ)することを得。或は恐怖(クフ)する有り、或は歓喜し、或は厭離(エンリ)を生じ、或は疑(ギ)を断ず。」なり。
 

【現代語訳】
 雑阿含経には次のように説かれています。
「仏(釈尊)は、比丘(出家)たちに告げられた。馬には四種類がある。
 一は、鞭の影を見て、驚いて御者の意に随う馬。
 二は、鞭が毛に触れて、驚いて御者の意に随う馬。
 三は、鞭が肉に触れて驚く馬。
 四は、鞭が骨に達してやっと驚く馬である。
 初めの馬は、よその村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 次の馬は、自分の村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 第三の馬は、自分の親の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
 第四の馬は、自分自身の病苦によって、漸く世の無常を厭う心を起こすようなものである。」と。
 これが阿含経の四馬(四種類の馬)の譬えです。仏法を学ぶ時には、誰もが必ず学ぶべきものです。真の正法の師として人間界や天上界に出現し、仏の使いとして祖師となった者であれば、必ずこの四馬を学んでいて、仏道を学ぶ者のために伝授するのです。ですから、これを知らない者は人間界 天上界の師ではありません。
 仏道を学ぶ者が、もし過去に厚く善根を植えた人々で、仏道に親しければ、必ずこの四馬を聞くことが出来るのです。仏道に疎遠な者は、四馬を聞かず、知ることもないのです。ですから、師匠は急いで説こうと思いなさい。弟子は急いで聞こうと願いなさい。
 先ほどの『世の無常を厭う心を起こす』というのは、『仏は、すべての人々に対して同じように法を説かれるが、人々はそれぞれの因縁に随って、おのおのが理解する。ある者は恐れの心を抱き、ある者は歓喜し、ある者は無常の世を厭い離れる心を起こし、ある者は疑いを断つのである』ということです。
 

《こういうふうに並べられると、ははあ、そういうことを言いたいのかと、不遜ながら、大筋が分かるような気がします。
 そこで私が思うのは、誰しもが第一の馬でありたいと思うに違いないのだけれども、ではどうやったら第四から第三に、また第二になれるのか、ということですが、そういうことに答えてもらえるのでしょうか。それとも、それもまた、「聖黙」によって応じられるのではないかと、心配になります。
 かの唐木先生は講義の中で、禅僧は「絶言詮」などと言っているが、実は禅僧ほど多く語っている僧も少ないと、やや冗談めかして言われましたが、さて、以下、四馬の比喩の意味が語られています。
 しかし、その比喩は分かりますが、その上で、「四馬」を「参学」するとは、一体何を学べというのでしょうか。
 四つの馬、四つの段階があるということ自体は、学ぶも何も、そういう分類をすれば、そういうことであるのは論を待たないことでしょう。
 すると、何を学べと? そういう四種類はそのまま四段階であるようですから、おのおの修行して第一の馬のようであれ、ということでしょうか。そうだとすれば、冒頭に『全訳注』が「内容も簡明である」と言っていることを紹介しましたが、確かにそう言えそうです。
 終わり近くの「いま生厭といふは」以下は、原文は漢文で、補足説明のような形になっているところで、前節後半に繰り返された「即ち能く厭を生ずる」を説明して、教えは同じでも、教えを受ける人によってその「厭」が、「恐怖」、「歓喜」、「厭離」、「疑」になるという相違がある、ということのようです。
 しかしこれもよく分かりません。「厭」の中に、「歓喜」があるというのも変ですし、第一、この話は、これだけで終わって、次は「調馬」の話になります。何のための説明かと思いますが、ふと気になっての全くの「補足説明」ということでしょうか。


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2 三時の業報

 いはゆる善悪之報(ゼンアクシホウ)有三時焉(ユウサンジエン)といふは、三時一者(イチニハ)順現法受、二者(ニニハ)順次生受(ショウジュ)、三者(サンニハ)順後次受これを三時といふ。仏祖の道を修習(シュジュウ)するには、その最初より、この三時の業報(ゴッポウ)の理をならいあきらむるなり。
 しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に堕するなり。ただ邪見に堕するのみにあらず、悪道におちて、長時の苦をうく。
 続善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道(ドウ)ひさしくさはりあり、をしからざらめや。この三時の業、善悪にわたるなり。

【現代語訳】
 いわゆる善悪の報いには三時があるというのは、第一は順現法受(今生に果報を受ける)、第二は順次生受(次の生に果報を受ける)、第三は順後次受(次の生以後に果報を受ける)であり、これを三時と言うのです。仏祖の道を学ぶには、最初からこの三時の業報の道理を学び、明らかにするのです。
 そうしなければ、大方は誤って悪しき考えに落ちるのです。ただ悪しき考えに落ちるだけでなく、地獄、餓鬼、畜生などの悪道に落ちて、長い間苦しみを受けるのです。
 そのようにして善根を積まない間は多くの功徳を失い、悟りの道の長い障害となるのです。惜しいことではありませんか。この三時の業報は、善悪の全てにわたるのです。
 

《「順現法受」以下三つの言葉の読み下し方を知りたいのですが、見当たりません。
 一字ずつ見ていきますと、「順」については、サイト「正木山西光寺」の「法話--平成1911」が、「『順』は『したがう』という意味です。善業は善業にしたがって、悪業は悪業にしたがって、…果報があるというので、『順』という字が使われている」と言います。
 「現」は、後の「次生」、「後生」に対応していると考えると、「現生」という意味でしょうか。
 「法」は、『全訳注』は「報」を使っていて、その用例の方が多そうです。
 「受」は、善悪の報いを受けるということでしょう。
 『全訳注』が、訳文でそれぞれを「現報によりて(次生によりて、後生によりて)受くるもの」としていますが、「現報」と「次生」、「後生」とは言葉の組み立てが異なるように思われて、ちょっとよく分かりません。あとの方を「次生報」「後生報」の意とでも考えるのでしょうか。
 ともあれ、全体では、「(この世での善業悪業に)順って、現生で(次生で、後生で)報いを受ける」というような意味になりそうです
 もっとも、「報受」を「報いを受ける」意とするのは、文字の組み立てからは、ちょっと変で、普通なら「受報」となりそうです。
 また「報」が「法」だったら、どういう意味になるのか、…。
 さて、こういうふうに「三時」にわたって、一つ一つに名前までつけられるということになると、「善悪の報に三時あり」という教えは、「現実を受け入れて(直視して)生きるしかないのだという覚悟」を持て(前章)というような大雑把なことではなくて、 本当に「三時の報」ということを信じよ、ということのように思われます。
 いや、しかし、現実には「次生」「後次」というようなものはない(あっても、自分には分からない)のですから(こんなことを言うと、禅師に叱られるのでしょうか)、この現実の生の生き方は、同じことになるような、…。》

 

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