『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

作法 1 三帰依

その儀は、かならず祖師を焼香礼拝し、応受菩薩戒を求請(グショウ)するなり。
  すでに聴許せられて、沐浴清浄(ショウジョウ)にして、新浄の衣服(エブク)を著し、あるいは衣服を浣洗して、華を散じ、香をたき、礼拝恭敬(クギョウ)して、その身に著す。
  あまねく形像(ギョウゾウ)を礼拝し、三宝を礼拝し、尊宿を礼拝し、諸障を除去し、身心清浄なることをうべし。その儀、ひさしく仏祖の堂奥に正伝せり。
  そののち、道場にして和尚阿闍梨(アジャリ)、まさに受者ををしへて礼拝し、長跪(チョウキ)せしめて合掌し、この語をなさしむ。

 仏に帰依す、法に帰依す、僧に帰依す。
  仏陀両足尊に帰依す、達磨離欲尊に帰依す、僧伽(ソウギャ) 衆中尊(シュチュウソン)に帰依す。
  仏に帰依し竟(オ)わる、法に帰依し竟わる、僧に帰依し竟わる。
 如来至真(シイシン)無上正等覚(ムジョウショウトウガク)は是れ我が大師なり。我れ今帰依したてまつる。
 今より已後(イゴ)、更に邪魔外道に帰依せじ。慈愍(ジミン)したもうが故に、慈愍したもうが故に。

 (三たび説く。第三には慈愍故(ジミンコ)を三遍畳(カサ)ねる。)
 

【現代語訳】
 その作法は、始めに必ず祖師(受戒の師)に香を焚いて礼拝し、菩薩戒を受けたいとお願いするのです。許されたならば入浴して身体を清潔にし、新しい袈裟 又は洗い清めた袈裟に、花を散らして香を焚き、恭しく礼拝して身につけるのです。
 そして、あらゆる仏像を礼拝し、三宝(仏と法と僧)を礼拝し、長老の僧を礼拝して、様々な障害を除き、身心を清浄にするのです。その作法は、久しく仏祖の堂奥に正しく相伝されて来たものです。
 その後、道場に於いて戒を授ける和尚(受戒の師)は、戒を受ける者を教えて礼拝 長跪(両膝を地に着けて上体を立てる)させ、合掌してこの語を唱えさせます。 

 仏に帰依いたします、法に帰依いたします、僧に帰依いたします。
 人間の中の尊き仏に帰依いたします、欲を離れる尊き法に帰依いたします、人々の中の尊き僧に帰依いたします。
 仏に帰依し終りました、法に帰依し終りました、僧に帰依し終りました。
 まことの無上の悟りを得ている仏は、私の大いなる師です。私は今帰依いたします。
 今後、決して邪魔外道には帰依いたしません。どうか私を慈しみ憐れんで、この誓いをお受けください。
 
(三回となえる。三回目には慈愍故を三遍となえる。)
 

《受戒の作法が説かれます。まずは受戒する人からの意思表明ということのようです。
 文中、「仏陀両足尊」は「仏をいう。仏は両足を有する者のうち尊きこと第一だからである」、また、「達磨」はここでは、「法を意味する」(『全訳注』)のだそうです。》



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2 第二の誤り~2

 優婆毱多(ウバキクタ)の弟子の中に、一比丘有り。信心もて出家し、四禅を獲得して、四果と謂(オモ)へり
 毱多方便して他処に往(ユ)かしむ。路(ミチ)に於て群賊を化作(ケサ)し、復五百の賈客(コカク)を化作す。賊、賈客を劫(オビヤ)かし、殺害狼藉せり。
 比丘見て怖れを生じ、即便ち自ら念(オモ)へらく、「我は羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべし。」
 賈客亡(ニ)げて後、長者の女有り、比丘に語(ツ)げて言はく、「唯願はくは大徳、我と共に去るべし。」
 比丘答へて言はく、「仏は我と女人と行くことを許したまはず。」
 女言はく、「我大徳を望んで而(シカ)も其の後に随はん。」
 比丘憐愍(レンミン)して相ひ望んで行く。
 尊者次に復大河を変作(ヘンサ)せり。
 女人言はく、「大徳、共に我と渡るべし。」
 比丘は下流に在り、女は上流に在り。女 便ち水に堕ち、白(モウ)して言はく、「大徳我を済(スク)ふべし。」
 爾(ソ)の時に比丘、手接して出す。細滑(サイカツ)の想(オモヒ)を生じて愛欲の心を起せり。即便ち自ら阿那含(アナゴン)に非ずと知る。
 此の女人に於て、極めて愛著(アイジャク)を生じ、将(ヒキ)いて屏処(ヘイショ)に向かひて共に交通せんと欲(オモ)ふ。方に是れ師なるを見て、大慚愧を生じ、低頭(テイヅ)して立つ。
 尊者語りて言はく、「汝昔自ら是れ阿羅漢なりと謂へり。云何(イカン)が此くの如きの悪事を為さんと欲(ホッ)するや。」
 将(ヒキ)ゐて僧中に至り、其れをして懺悔せしめ、為に法要を説きて、阿羅漢を得しむ。
 

【現代語訳】
 優婆毱多の弟子の中に、信心で出家し、四禅(四つの禅定)を獲得して四果(四つの聖者の悟り)を得たと思った一人の比丘(出家)がいた。
 そこで師の毱多は、方便してその比丘を他所に行かせて、道に多くの賊を出現させ、又五百人の商人を出現させた。その盗賊たちは商人たちを脅し、殺害狼藉をはたらいた。
 比丘はそれを見て恐れおののき、すぐに自ら思うに、「私は阿羅漢(一切の煩悩を滅ぼした聖者)ではない。おそらく第三果の阿那含(欲望の誘惑を断った聖者)であろう。」と。
 商人が逃げた後、比丘に長者の娘が話しかけてきた。「お坊様、どうかお願いがございます。私と一緒に行ってくださいませんでしょうか。」
 比丘は答えて、「仏は私と女人とが一緒に行くことを許されておりません。」
 娘の言うには、「それでは、私はお坊様を遠くに眺めて、その後ろに付いていきます。」と。
 比丘は娘を哀れに思い、互いに遠くに眺めあって行った。
 毱多尊者は次に大河を出現させた。
 娘は言った、「お坊様、私と一緒に川を渡りましょう。」
 比丘は下流にいて、娘は上流にいた。娘は水に堕ちて言った、「お坊様、私を助けてください。」
 その時に比丘は、手を出して助け上げると、娘の滑らかな肌に引かれて愛欲の心を起こし、すぐに自分は阿那含の聖者ではないと知った。
 そしてこの娘に非常な愛着の心を起こして、物陰につれて行って交わりを迫ると、そこではじめて師であることを知り、大いに慙愧して頭を下げて立ちつくした。
 毱多尊者は言った、「お前は以前、自分は阿羅漢であると思っていた。それなのに、どうしてこのような悪事をしようとするのか。」
 そこで尊者は、比丘を僧団の中につれて行き、懺悔させて法要を説き聞かせ、阿羅漢を得させた。

 

《第二の「無聞の咎」の続きで、第二の例話と思われます。
 「杜子春」物語のような話です。「四禅を獲得して、四果と謂へり」という僧が、自分の誤りに気付いたという話ですが、おもしろいのは、気付いたことによってそこからやり直した、というのではなくて、その気付いたこと自体が功徳であるかのように、そこで「懺悔」してそのまま「阿羅漢を得しむ」となったという点です。
 何か一つのことが、本当に、例えば骨の髄まで分かれば、それは一切が分かったということなのだ、という考え方のようで、分かるということの意味を考えさせられるところがあります。
 最初の「賊、賈客を劫かし、殺害狼藉せり。比丘見て怖れを生じ」が、どうして「即便ち自ら念へらく、我は羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべし。」となるのか、よく分かりません。もし阿羅漢だったら、割って入って賊を諭すとか、商人を助けるとか、しなければならなかった、ということでしょうか。あるいは、恐れを感じることが、煩悩があるということになるのでしょうか。


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1 第二の誤り~1

 第二には、初禅をえて初果とおもひ、二禅をえて第二果とおもひ、三禅をえて第三果とおもひ、四禅をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。
 初二三四禅の相と、初二三四果の相と、比類におよばず、たとふることあらんや。これ無聞(ムモン)のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。
 

【現代語訳】
 第二の誤りは、初禅(最初の禅定)を得て初果(須陀洹の悟り)を得たと思い、二禅(第二の禅定)を得て第二果(斯陀含の悟り)を得たと思い、三禅(第三の禅定)を得て第三果(阿那含の悟り)を得たと思い、四禅(第四の禅定)を得て第四果(阿羅漢の悟り)を得たと思ったことです。これが第二の誤りです。
 初禅、二禅、三禅、四禅の相と、初果、二果、三果、四果の相は比べることが出来ないし、譬えることも出来ません。これを知らないことは、教えを聞かない咎によるものであり、師に仕えず道理に暗いことによる咎なのです。
 

《比丘の第二の罪は「禅」をそのまま「果」と思ってしまったことでした。なぜそういう間違いをおこすかというと、「無聞の咎」によるのだと言いますから、第一の咎と表裏をなすものということになりそうです。
 ところで、この比丘はこういう過ちを犯したのですが、実際のところ、「四禅」と「四果」とはどういう関係なのでしょうか。
 先に挙げたそれぞれの説明(第一章)を見比べると、禅は「心の状態」を言い、果は悟りの位、つまり程度・段階を表しているようです。つまり四禅は主観的認識による心の四つの段階を言うようで、『提唱』もこの部分の講義の質疑の中で「長年坐禅をやっておる自分の経験からして、坐禅には四段階があるというふうに自分なりに解釈しておる」と言いますから、そういう線で語っているように思われます。もっともこの書は、時々、坐禅をしさえすればすべてが分かる(しない人には分からない)というふうな話があって、どんなもんか、という気もするのですが。
 それに対して、四果は客観的基準とでも言いましょうか。
 それがともに四つなので対応しているようにも見えるのですが、そうではないようです。
 『全訳注』が「四果」について、「古来から教相を論ずる人々は、細かくそれぞれの境地を分析して語っているが、いまはその煩にたえないのでこれを記さない」と言っていますから、厄介なところなのでしょう。
 以下、その説明の無いままに第五章まで、この第二の誤りについての話が続きます。》


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天聖広燈録~3

この一段の因縁、天聖(テンショウ)広燈録にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風(ギョウフウ)一扇して、祖道陵替(リョウタイ)せり。
 不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不昧因果は、あきらかにこれ深信(ジンジン)因果なり、これによりてきくもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、うたがふべきにあらず。
 近代参禅学道と称するともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりとしる。いはゆる不落と不昧と、一等にしてことならずとおもへり。これによりて、因果を撥無せりとしるなり。
 

【現代語訳】
 この一節の因縁話は天聖広燈録に記されています。しかしながら、仏道を学ぶ者たちは因果の道理を明らかにせず、徒に因果を無視する誤りを犯しています。悲しいことです、末世の風が吹いて仏祖の道が衰えているのです。
 「因果に落ちない」とは、まさに因果の道理を無視することです。これによって人は悪道に落ちるのです。「因果をくらまさない」とは、明らかに因果の道理を深く信じることです。これを聞き入れる者は悪道を脱け出すのです。これは不思議なことでも疑うべきことでもありません。
 近来、禅に参じ仏道を学んでいると言う者たちの多くが、因果の道理を無視しています。何によって因果を無視していると知るのかといえば、いわゆる「因果に落ちない」と「因果をくらまさない」とは同じことで違いは無いと思っているからです。これによって彼等が因果を無視していると知るのです。
 

《さて、まず「不落因果」と「不昧因果」についてですが、『全訳注』はここの解説を引いて「いとも鮮やかに裁断されている」と言いますが、どういうことなのでしょうか。
 「不落」は、「無視する」という意味のようですから、そこに入らない、含まれないというようなことなのでしょうか。つまり、かの老人は、「大修行底の人」は因縁因果に拘束されず自在である、と言った、ということでしょうか。それはあるいは老人の願望であったかも知れません。しかしそれは、仏法の教えに反するわけですから、その報いを受けても仕方なさそうです。
 「不昧」は、ここでは「因果をくらまさない」と訳していますが、『全訳注』は「因果に昧(くら)からず」と読んでいて、それでいけば、「大修行底の人」は因果についてよく心得ている、というような意味になりそうで、先の「落ちず」とは逆に「あきらかにこれ深信因果」と言えそうです。
 因果を否定することは、先にあった「三時業」を否定することであり、禅師の思想が否定されることになるわけで、禅師にとっては、当然、根本的誤りということになり、声を大にして否定することになります。
 一方で、因果も特に前世からの因縁などとなると、具体的な根拠のある、目に見えるものではありませんから、禅師の当時から「近代参禅学道」者には、しばしば信じがたい話と思われがちで、その傾向は時代が下るとともに強くなり、現代人ともなると、なお一層その傾向が強いでしょう。
 無限に遠い前世から現世を経て無限の来世まで続く一つの生ということを考えるのは、難しいことですが、何かそういうものがありそうな気もします。
 それは科学の問題ではなくて、倫理の問題なのでしょう。
 ところで、「不落と不昧と、一等にしてことならず」がよく分かりません。どうしてこの二つが同じだと言えるのでしょうか。



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2 三宝四種~2

 理体の三宝。
五分法身
(ゴブンホッシン)を名づけて仏の宝と為す。
滅理無為を名づけて法の宝と為す。
無学を学ぶ功徳を名づけて僧の宝と為す。
【現代語訳】
 理体の三宝(真如の法身を体とする三宝)。
仏戒を保つ身、禅定を修する身、仏の智慧を証する身、煩悩を解脱した身、解脱を知見する身の五つを仏陀の宝と呼び、
寂滅の真理による無為(因果を離れた不変の真実)を仏法の宝と呼び、
煩悩を断ちつくして、更に学ぶべきものが無い悟りを学ぶ功徳を僧団の宝と呼ぶ。
 

《三つ目は「理体の三宝」ですが、『全訳注』が「理論的な意味における三宝」と言います。『提唱』が「真実の姿」による三宝と言っていますが、その「真実」もそういうことなのでしょう。
 「五分法身」は、『提唱』に「戒」「定」「慧」「解脱」「解脱知見」という「釈尊の説かれた教えの実体」を言う、とありますが、「実体」の意味が分かりません。この書は口述筆記で、話がの中で軽く使われた、無くてもいい言葉のように思います。
 例えば「化儀」における釈尊が人間釈尊ないし偶像的に把握された全体像としての釈尊であるのに対して、こちらは五つの修行方法をたどることによって理論的に構成された釈尊、哲学的に把握された釈尊とでも考えたらいいのでしょうか。
 「滅理無為」は、『全訳注』が「寂滅して無為なる」と言います。涅槃に入って自適であるというようなことかと思われますが、それが「法」であるというのが、これもよく分かりません。
 「無学」は学が無いのではなくてすでに学ぶものが無い状態(もっとも、原文は漢文で「学無学功徳」と書かれていて『提唱』は「学、無学の功徳」と読んで、「まだ真実を得ていない人(現在学んでいる人、という解釈なのでしょう)とすでに得た人」と解して全く異なります)。
 そこに至った「功徳」(よい報いとして与えられたもの、というような意味でしょうか)を僧と呼ぶ、というのがよく分かりません。無学を学ぶ境地を与えられることを、僧というというようなことでしょうか。》

 一体の三宝。
証理大覚
(ダイガク)を名づけて仏の宝と為す。
清浄
(ショウジョウ)離染を名づけて法の宝と為す。
至理和合、無擁無滞を名づけて僧の宝と為す。」
【現代語訳】
 一体の三宝(三宝の一々の本体が同体である三宝)。
寂滅の真理を証する大いなる悟りを仏陀の宝と呼び、
清浄にして煩悩を離れていることを仏法の宝と呼ぶ。
寂滅の真理に達して和合し、蓄えることなく滞ることなきを僧団の宝と呼ぶ。」
 

《「一体の三宝」というのは、「三宝のそれぞれにそなわる三宝」(『全訳注』)、「一つのもので仏・法・僧のそれぞれについて全部を包み込んでおるという考え方」(『提唱』)である、というのですが、よく分からない言い方で、ここの訳の方が分かりやすく思われます。
 そして挙げられた三つは、当然ながらいずれも同じ状態を言っているように見えて(「本体が同体である」のですから当然とも言えますが)、強いて言えば、「証理大覚」は求めるもの、「清浄離染」はそこに至る方法論、「至理和合、無擁無滞」はその道程において得られる喜び、というようなことでしょうか。


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