『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

作法 2 三聚清浄戒

善男子(ゼンナンシ)、既に邪を捨て正(ショウ)に帰す、戒已に周円せり。応に三聚清浄戒(サンジュショウジョウカイ)を受くべし。
 

第一 摂律儀戒(ショウリツギカイ)。汝今身(コンジン)より仏身に至るまで、此の戒能く持(タモ)つや否や。
 答て云く、能く持(たも)つ。(三問三答)
第二 摂善法戒(ショウゼンボウカイ)。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第三 饒益衆生戒(ニョウヤクシュジョウカイ)。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
上来(ジョウライ)三聚清浄戒、一一犯すことを得ざれ。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
是の事(ジ)是の如く持(タモ)つべし。
 (受者礼三拝して長跪(チョウキ)合掌す)
 

【現代語訳】
 今、入信の善男子は既に邪を捨て正道に帰依して戒を円満しました。次には三か条の清浄な戒を受けなさい。 

第一に摂律儀戒、一切の悪を行わないという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)

第二に摂善法戒、一切の善に努めるという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第三に饒益衆生戒、一切の人々を利益するという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
この三か条の清浄な戒は、どれも犯してはいけません。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
これらの事を答えたように保ちなさい。
(戒を受ける者は三拝して長跪し、合掌する)
 

《続いて、師の方から根本となる三つの戒が授けられ、受戒者の誓いがあります。》

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第二の誤り ~3

この比丘、はじめ生見(ショウケン)のあやまりあれど、殺害(セツガイ)の狼藉をみるにおそりを生ず。ときにわれ羅漢にあらずとおもふ。なほ第三果なるべしとおもふあやまりあり。のちに細滑(サイカツ)の想によりて、愛欲心を生ずるに、阿那含(アナゴン)にあらずとしる。
 さらに謗仏(ボウブツ)のおもひを生ぜず、謗法のおもひなし、聖教(ショウギョウ)にそむくおもひあらず。四禅比丘にはひとしからず。この比丘は、聖教を習学せるちからあるによりて、みづから阿羅漢にあらず、阿那含にあらずとしるなり。
 いまの無聞(ムモン)のともがらは、阿羅漢はいかなりともしらず、仏はいかなりともしらざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、仏にあらずともしらず、みだりにわれは仏なりとのみおもひいふは、おほきなるあやまりなり、ふかきとがあるべし。
 学者まづすべからく、仏はいかなるべしとならふべきなり。
 古徳云(イ)はく、「聖教を習ふ者は、薄(ホボ)次位を知る。縦ひ逾濫(ユラン)を生ずとも、亦開解(カイゲ)し易し。」
 まことなるかな、古徳の言。たとひ生見のあやまりありとも、すこしきも仏法を習学せらんともがらは、みづからに欺誑(ゴホウ)せられじ、他人にも欺誑せられじ。
 

【現代語訳】
 この比丘(出家)は、初め四禅を得て四果を得たと思う我見の誤りがありましたが、賊が殺害狼藉する様子を見て恐怖の心を起こし、その時に自分は一切の煩悩を滅ぼした阿羅漢ではないと思いました。しかし依然として、自分はきっと欲望の誘惑を断った第三果の阿那含であろうと思う誤りがありました。後に娘の滑らかな肌に引かれて愛欲の心を起こし、自分は阿那含ではないことを知りました。
 このように、決して仏を謗る思いを起こさず、法を謗る思いもなく、聖者の教えに背く思いも無かったことは、前の四禅比丘と同じではありませんでした。この比丘は、聖者の教えを学ぶ力があったので、自ら阿羅漢ではないと知り、阿那含ではないと知ることができたのです。
 教えを聞いたことのない今の出家は、阿羅漢とはどういうものかとも、仏とはどういうものかとも知らないために、自分は阿羅漢でも仏でもないことを知らずに、みだりに自分は仏であるとだけ思って人に言うことは、大きな誤りであり深い咎です。
 仏道を学ぶ者は、先ず須らく仏とはどういうものであるかを学ぶべきなのです。
 古人の言葉に、「聖者の教えを学んだ者であれば、大体の修行の位を知っている。だから、たとえ誤った考えを起こしても、そのことに目覚め易いのである。」とあります。
 この古人の言葉は真実なのです。たとえ我見の誤りがあっても、少しでも仏法を学んだ人であれば、自分に欺かれることはなく、他人にも欺かれることはないのです。
  

前節の例話を踏まえて、禅師の解説です。
 「無聞」は「独処」から生じます。
 全くの独りよがりの学問をしているのですから、仏でないものを仏と思い、自らを仏と思い誤ったりすることも起こるわけです。
 ただ、それは罪ではあるのですが、この比丘は、「四禅比丘」のように、特に意識して仏を謗ったり「聖教にそむく」などということにはなりません。そのことに気付いて改めれば、救いの道は示されます。師だったという優婆毱多は「付法蔵(釈尊から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱し、布教していった正法時代の正統な継承者とされる人たち)の四代目」(『全訳注』)という人ですから、最も根本となるところはきちんと教えられていた、ということでしょうか。
 そういう間違いを起こさないために、「学者まづすべからく、仏はいかなるべしとならふべきなり」、つまり師に付かなければならない、と話は第一の咎のところに返った趣です。
 やはりこの二つは表裏の関係であるようです。》


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鳩摩羅多尊者曰く

第十九祖鳩摩羅多(クモラタ)尊者曰く、「且(シバラ)く善悪の報に三時あり。凡そ人但(タダ)仁は夭(ヨウ)に、暴は寿に、逆は吉に、義は凶とのみ見て、便ち因果亡じ、罪福虚しと謂(オモ)へり。
 殊に影響相随ひ、毫釐(ゴウリ)も忒(タガ)ふ靡(ナ)きことを知らず。縦ひ百千万劫を経るとも亦磨滅せず。」
 あきらかにしりぬ、曩祖(ノウソ)いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨(ジカイ)をあきらめざるは、稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにして、みだりに人天の善知識と自称するは、人天の大賊なり、学者の怨家(オンケ)なり。
 「なんぢ前後のともがら、亡因果(モウインガ)のおもむきをもて、後学晩進のためにかたることなかれ。これは邪説なり、さらに仏祖の法にあらず。なんだちが疎学によりて、この邪見に堕せり。」
 いま震旦国の衲僧(ノウソウ)等、ままにいはく、
「われらが人身をうけて仏法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報(ゴッポウ)の墜堕にあらじ。金鎖玄関留むれども住せず、異類に行じて且(シバラ)く輪廻す、なるべし。」
 大善知識とあるともがらの見解(ケンゲ)、かくのごとし。この見解は、仏祖の屋裡(オクリ)におきがたきなり。
 

【現代語訳】
 第十九祖鳩摩羅多尊者が言うことには、
「ひとまず善悪の報いを受ける時期には、現世、来世、更に後の世の三つの時がある。そもそも人間は、情け深い人が若死にして乱暴な者が長生きし、法に背く者が恵まれて正直者が災いに遭うということだけを見て、因果の道理など無く、悪行による罪や善行による幸福などは無いと思っている。
  そして、少しも善悪の報いは影や響きのようにその人に付き従って、毛筋ほどもくい違わないことを知らない。この因果の法は、たとえ百千万劫という長い時を経ても無くなることはないのである。」と。
 この教えで明らかに知られることは、祖師はこれまで因果の法を無視したことはないということです。今、仏道を学ぶ後進で、この鳩摩羅多尊者の慈悲深き教えを、まだ明らかにしていない者は、仏道の稽古が疎かなのです。仏道の稽古を疎かにして、みだりに人間界 天上界の導師と自称する者は、人間界 天上界の大賊であり、修行者のかたきです。
 そのような者に私は言おう。「お前たちの仲間よ、因果が無いような話を、後進の為に語ってはいけない。これは正しくない説である。全く仏祖の法ではない。お前たちは仏道を学ぶことを疎かにしているから、このような誤った考えに落ちるのである。」と。
 今の中国の禅僧などが時折言っていることは、
「我々は人間に生まれて仏法に遇うことが出来たが、今生や来世のことさえ依然として分からない。しかし、前の百丈山の和尚は野狐になっても、よく五百生という長い時を知っていた。これを推し量るに、悪業の報いで野狐に落ちたのではない。悟りの中に安住することなく、畜生になって暫く輪廻しただけである。」と。
 大導師となっている者たちの見解はこのようです。しかしこの見解は、仏祖の教えの中に置くことは出来ないものです。
 

《鳩摩羅多尊者の話した話は、先に「三時業」巻の冒頭でくわしく説かれていました。
 続く禅師の教えは、そのとおりとして、後の「震旦国の衲僧」の言ったことは、どういう意味なのでしょうか。
 『全訳注』の訳とここの訳を合わせ読むと、どうやら次のようになりそうです。
 我々は仏法に出会うことはできたのだが、未だに今生や来世のことさえよく分からないままである。それなのにかの野狐となった老人は「五百生」のことを承知していた。してみると、あの老人は十分に道を究めていたはずで、そういう人が野狐に身を落とすような悪業を犯したとは考えにくい。彼が野狐になったのは、悪業のせいではなくて、単に一つの輪廻として一時期野狐になっていたにすぎないのでないか、…。
 このことについて、さらに禅師の解説が次章に語られます。》


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2 諸山園苑帰依

 世尊 (ノタマ)はく、
「衆人所逼(ショヒツ)を怖れて、多く諸山園苑(オンエン) 及び叢林孤樹制多(セイタ)等に帰依す。此の帰依は勝(ショウ)に非ず、此の帰依は尊に非ず。此の帰依に因りては、能く衆苦を解脱せず。
 諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依すること有るは、四聖諦(シショウタイ)の中に於いて、恆(ツネ)に慧を以て観察し、苦を知り、苦の集を知り、永く衆苦(シュク)を超えんことを知り、八支(ハッシ)の聖道(ショウドウ)、安穏の涅槃に趣くと知る。
 此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり。必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱せん。」
 世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼(ショヒツ)をおそれて、山神(サンジン)鬼神(キジン)等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦(シュク)を解脱することなし。
 

【現代語訳】
 世尊(釈尊)は次のように言われました。
「人々は窮迫することを怖れて、多くの人が山々や庭園、林、一樹、廟などの神に帰依している。だがこの帰依は勝れたものでも尊いものでもない。この帰依によっては、多くの苦を解脱することはできない。
 しかし諸人が仏に帰依し、仏の法や僧団に帰依するならば、その四聖諦(苦、集、滅、道の四つの真理)の教えの中で、常に智慧によって世間を観察して、その苦を知り、苦の原因を知り、永く諸々の苦を離れることを知り、そして八つの聖道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)によって、安穏の涅槃(仏の悟り)に赴くことを知るであろう。
 この帰依は最も勝れ、最も尊いものである。必ずこの帰依によって、多くの苦を解脱することが出来るのである。」と。
 このように 世尊(釈尊)は、すべての人々のために教え示されました。ですから 世の人々は、徒に窮迫することを怖れて山神や鬼神等に帰依したり、外道(仏教以外の教え)を祭る廟などに帰依してはいけません。彼は、その帰依によって諸苦を解脱することはないのです。
 

《ここは、たとえば自然信仰を越えるものとしての帰依三宝を説いているようです。「諸山園苑及び叢林孤樹制多」のうち、「制多」を除くすべては自然のものです。
 山や野原、林、木々といった自然のものに神が宿るというの、何やら日本風の考え方のようですが、古代の人間世界ではどこにでもあった ものなのでしょう。
 そして、このように改めて強調されると、この仏法は、そういう従来の古代信仰を越えた、新しい教えなのだと言っているようにも見えます。
 平安末期に一般的であったらしい、浄土信仰、念仏思想という「弥陀の本願」にひとえにすがる考え方ではなく、坐禅し供養し日常生活を行ずることが涅槃の世界なのだとする考え方は、当時の日本にあっては目新しい新興宗教であって、禅師には、その先達としての強い自負があったらしいことは、『辨道話』においても感じられたことでした。》


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1 法華経

 かくのごとくの三宝に帰依したてまつるなり。もし薄福少徳の衆生は、三宝の名字(ミョウジ)なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや帰依したてまつることをえんや。
 法華経に曰く、
「是の諸の罪の衆生は、悪業(アクゴウ)の因縁を以て、阿僧祇劫(アソウギコウ)を過ぐれども、三宝の名(ミナ)を聞かず。」
 法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民(シンミン)なり、眷属なり。
 法華経の所説、これまことなり。余経中の所説、みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。余経中の説をきたして、法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。
 法華の功徳力(クドクリキ)をかうぶらざれば、余経あるべからず。余経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかに、いまの説まします。しるべし、三宝の功徳、まさに最尊なり、最上なりといふこと。
 

【現代語訳】
 このような三宝に帰依し奉るのです。もし福うすく徳の少ない人間であれば、この三宝の名称すら聞き奉ることがないのです。まして帰依し奉ることなど出来ましょうか。
 法華経には次のように説かれています。
「この罪多き人々は、悪しき行いのために、無量の時を経ても、三宝(仏陀、仏法、僧団)の名を聞くことがない。」と。
 法華経は、諸仏如来が世に出現した大切な因縁を説いた経典です。大師釈尊の説いた諸経の中では、法華経は大王であり大師なのです。その他の経典その他の教えは、皆法華経に従う臣下であり家族なのです。
 法華経に説かれている教えは真実です。他経の中に説かれている教えは、皆方便を帯びていて、釈尊の本意ではありません。ですから、他経の中の教説によって、法華経を比較して論ずることは本来逆なのです。
 法華経の功徳力を受けなければ、他の経は存在しなかったのです。他の経は、皆法華経に従うことを待ち望んでいるのです。この法華経の中に、先ほどの教えが説かれています。これによって、三宝の功徳は、まさに最尊であり最上であることを知りなさい。
 

《禅師の解説です。
 「法華経は、諸仏如来 一大事の因縁」であって、こうした三宝に帰依すべしということは、その法華経に書かれているのだから、「三宝の功徳、まさに最尊…、最上」であること間違いなし、…。
 昔、東京で道を歩いていたら、呼び止められて某仏教系新興宗教に誘われた事がありました。ついて行って話を聞いたのですが、私が曹洞宗の寺の生まれだと話すと、その人が、釈迦が最後に説いた教えは法華経で、したがってそれが釈迦の到達点であり、曹洞宗の言う坐禅はそこに至る過程に過ぎなかったのだ、だから坐禅を言う曹洞宗よりも自分たちの教えの方が正しいのだ、というような話をしたことを思い出します。
 そのことはそれだけで私は帰ったのですが、そういえば、今でも、法華経と坐禅ということは、どう関わるのだろうか、という関心が残っています。
 法華経はいわば到達点で、そこに至る方法論が坐禅だというふうに、一応は言えるのでしょうが、その方法論・過程こそが実はそのまま到達点だというのが、いわゆる禅の教えの発見したことだ、と言っていいのではないでしょうか。法華経を読まないままでの話で、何とも、…。


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