『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

2 第三の誤り ~2

 たとひ四果の聖者(ショウジャ)なりとも、いかでか如来におよばん。舎利弗はひさしくこれ四果の聖者なり。三千大千世界所有の智慧をあつめて、如来をのぞきたてまつりて、ほかを一分とし、舎利弗の智慧を十六分にせる一分と、三千大千世界所有の智慧とを格量するに、舎利弗の十六分の一分におよばざるなり。
 しかあれども、如来未曽説の法をときましますをききて、前後の仏説ことにして、われを欺誑しましますとおもはず、波旬無此事(ハジュンムシジ)とほめたてまつる。
 如来は福増をわたし、舎利弗は福増をわたさず。四果と仏果と、はるかにことなることかくのごとし。たとひ舎利弗およびもろもろの弟子のごとくならん、十方界にみちみてらん、ともに仏智を測量(シキリョウ)せんことうべからず。
 孔老にかくのごとくの功徳いまだなし。仏法を習学せんもの、たれか孔老を測度(シキタク)せざらん。孔老を習学するもの、仏法を測量することいまだなし。いま大宋国のともがら、おほく孔老と仏道と一致の道理をたつ、僻見もともふかきものなり。しもにまさに広説すべし。
 四禅比丘、みづからが僻見をまこととして、如来の欺誑(ゴオウ)しましますとおもふ、ながく仏道を違背したてまつるなり。愚癡(グチ)のはなはだしき、六師等にひとしかるべし。
 

【現代語訳】
 たとえこの比丘が四果(阿羅漢)の聖者であったとしても、どうして仏と肩を並べられましょう。舎利弗は久しく四果の聖者であり、その智慧は、全宇宙の智慧を集めても、仏を除いて、舎利弗の智慧の十六分の一にも及ばない勝れたものでした。
 その舎利弗でも、仏がこれまでに説かれなかった教えを説かれるのを聞いて、「前の教えと後の教えが違っていて、仏は私を欺かれた。」とは思わずに、「天魔には、このようなことは無い。」と言って仏を褒め称えたのです。
 そして釈尊は百二十歳の福増を出家させて救済しましたが、舎利弗は高齢の福増を救済しませんでした。四果の舎利弗と仏果の釈尊とでは、このように力量が遥かに異なるのです。たとえ舎利弗や多くの仏弟子のような勝れた人たちが全世界に満ちて、共に仏の智慧を推し量ろうとしても不可能なのです。
 中国の聖人と言われる孔子や老子に、このような功徳はまだありません。仏法を学んでいる者であれば、誰であれ孔子老子のことを推し量ることが出来るでしょうが、孔子老子を学ぶ者で、仏法を推し量ることが出来た人はまだいないのです。それなのに、今の大宋国の出家者は、その多くが孔子老子の道と仏道とは同じであると言っています。これは大きな僻見と言うべきものです。以下にその理由を詳しく説明しましょう。
 この四禅比丘(無聞比丘)は、自分の僻見を真実と考えて、釈尊が欺いたと思ったということは、それまでの長い間、仏道に背いてきたということです。愚癡の甚だしいことは、当時の六師外道等にも等しいものです。
 

《ここまで、仏がいかに人を欺かないか、いかに万能であるかということを語り、過ちは人間の側にあるのだから、ひたすら仏の慈悲を信じてついて行きなさい、という話だったのですが、そこから、仏がいかに万能であるかという話へ、ちょっと意外な展開をします。
 まず、「三千大千世界所有の智慧」と舎利弗とを比較し、次に舎利弗と比較して仏の万能を語るのですが、それぞれのレベルを数字に変えての話なので、失礼ながら何か子供じみた議論のように思えます。
 そこから老子、孔子との比較になります。
 いわゆる「三教一致」という考え方があって、「三教とは中国では儒教・仏教・道教、日本では儒教・仏教・神道をいう。これら三教が絶対的に矛盾対立せず,併存可能であることの主張」(コトバンク)がされていたようです。ずいぶん無理な考え方のように思われますが、「隋の文仲は三教の一致により政治的紛争を調停しようとし、さらに唐の李翺以後は、三教の理論的折衷が行なわれた」(同)ということで、政治的な意図をもって行われたことのようです。
 もともとそういう意図があって行われたにすぎない話なら、禅師がわざわざそれを取り上げて論ずるまでもないような気がしますが、それによって仏法が捻じ曲げられているという思いがあったのでしょうか。
 最後に、ここまで述べてきた四禅比丘の誤りを改めて確認しておいて、次から三教一致説に対する批判をします。》

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1 第三の誤り ~1

 第三には、命終の時、おほきなるあやまりあり。そのとがふかくして、つひに阿鼻地獄におちぬるなり。たとひなんぢ一生のあひだ、四禅を四果とおもひきたれりとも、臨命終のとき、四禅の中陰みゆることあらば、一生のあやまりを懺悔して、四果にはあらざりきとおもふべし。
 いかでか仏われを欺誑(ゴオウ)して、涅槃なきに涅槃ありと施説(セセツ)せさせたまふとおもふべき。これ無聞のとがなり、このつみすでに謗仏なり。これによりて、阿鼻の中陰現じて、命終して阿鼻地獄におちぬ。
 

【現代語訳】
 第三に、無聞比丘(教えを聞かない比丘)は、命の終る時に仏を謗るという大きな誤りを犯しました。その咎が深いので、遂に阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちたのです。この比丘に私は言おう、「たとえお前が一生の間、四禅(第四の禅定)を得たことで四果(第四の聖果)の阿羅漢(一切の煩、悩を滅ぼした聖者)を得たと思っていたとしても、臨終の時に、涅槃に入らずに四禅天に生まれる中陰(死んでから新たに生まれるまでの期間)が見えたならば、その一生の誤りを懺悔して、自分は四果の阿羅漢ではなかったと思わなければいけない。」と。
 このことに気付けば、どうして「仏は私を欺いて、涅槃は無いのに涅槃があると説かれた。」などと思うことが出来ましょうか。これは教えを聞かないことによる咎であり、この罪はまさしく仏を謗る罪なのです。これによって阿鼻地獄の中陰が現れて、命が終わると阿鼻地獄に堕ちたのです。

《この比丘の第三の罪は「命終の時」にあったと言いますから、「謗仏」のことを言うのでしょう。これは当然の分かりやすい罪だと思いますが、以下、ずいぶん丁寧な説明がなされます。
 その一は、まず、ではどうすべきだったか、という話です。
 彼は死に臨んで、自分は「四禅」を得ているのだから、すぐに涅槃に入ることができると考えていたのですが、「中陰」が見えたので(聖者は中陰を通らないで涅槃にはいるもののようです)、仏がこれまで自分を欺いていたのだと、仏を謗ったのでした。
 禅師は、そうではなくて、まっすぐに涅槃に入れないのは自分に落ち度があったからなのだと考えて、「一生の誤りを懺悔」しなさい、と言います。
 何が悪かったのか分からないままに自分の過ちや不徳を懺悔しなければならないということは、まったく理不尽なことのように思えますが、そうでもするしかないような不幸や悲しみが人生の中で訪れるということは事実と言わざるをえません。
 小説『邪宗門』(高橋和巳著)は一人の女性の惨憺たる人生からそのような考え方から一つの新興宗教が誕生したことを描いています。余談ですが、それは小説『狐憑き』(中島敦著)に描かれた物語(作家)誕生の姿と大変よく似ていて、いずれもなるほどと思わされます。》


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因果を破せば、則今世後世無けん

 龍樹祖師云く、「外道人(ゲドウニン)の如く世間の因果を破(ハ)せば、則(スナハチ)今世後世(コンセゴセ)無けん。出世の因果を破せば、則三宝四諦(シタイ)四沙門果無けん。」
 あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは、外道なるべし。今世なしといふは、「かたちはこのところにあれども、性(ショウ)はひさしくさとりに帰せり。性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。」
 かくのごとく解(ゲ)する、すなはち外道なり。
 あるいはいはく、「ひと死するとき、かならず性海(ショウカイ)に帰す、仏法を修習せざれども、自然(ジネン)に覚海に帰すれば、さらに生死の輪転なし、このゆゑに後世なし。」といふ。これ断見の外道なり。
 かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪見あらんともがら、さらに仏弟子にあらず、まさしくこれ外道なり。
 おほよそ因果を撥無(ハツム)するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、真の知識に参学せざるによりてなり。真の知識に久参するがごときは、撥無因果等の邪解(ジャゲ)あるべからず。龍樹祖師の慈誨(ジカイ)、ふかく信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。
 

【現代語訳】
 龍樹祖師が言うことには、「外道の人のように世間の因果を否定すれば、今の世も後の世も無いことであろう。また出世間(出家)の因果を否定すれば、三宝(仏 僧)も、四諦(苦集滅道の真理)も、四沙門果(四種の聖者の悟り)も無いことであろう。」と。
 明らかに知ることです、世間や出世間の因果を否定する者は外道なのです。今の世は無いと考える者は、「身体はこの世にあるが、その本性は久しく悟りの世界に帰属している。本性とは心のことであり、心は身体と同じものではない。」と言います。このように考える者は外道です。
 またある者は、「人は死ぬと、必ず性海(本性の海)に帰る。仏法を修行し学ばなくても、自然に悟りの性海に帰るので、決して生死輪廻(苦界に生まれ変わり死に変わりし続けること。)することは無い。このために後の世は無い。」と言う。
 これは断見(全ては死後に断滅するという見解)の外道の考えです。
 姿はたとえ出家に似ていても、このような誤った考えを持つ仲間は、全く仏弟子ではありません。まさしくこれは外道です。
 およそ因果の道理を無視するから、今の世も後の世も無いと誤るのです。因果を無視することは、まことの師に学ばないことが原因なのです。まことの師に久しく学ぶ者であれば、因果を無視する等の誤った見解はありえません。ですから、龍樹祖師のこの慈悲の教えを深く信じ、頂戴申し上げなさい。
 

如来の正法」を否定する考え方を禅師が批判します。
 「たとひ一千生、一万生をしるとも」、また「すでに八万劫をしる」(前節)とも、それが感慨にすぎないような我流の理解である限りは、ただの感慨にすぎない、そういう理解を、それでも一つの理解だと思うような人は、結局現世の範囲で物事をとらえているのであって、そういう理解の中からは、何の救いも悟りも生まれてはこない、…。
 そういう人が「八万劫」を考えようとすると、「心は身とひとしからざる」もので、「身」は現世だけのものだが、「心」は「八万劫」に渡るものだ、などという考えを持ち出すのだが、それこそは「外道」というものである、…。
 また別の論があったようです。
 「性海」というのは「真如の世界。仏の悟りのすべてである真如の深く広いことを海にたとえたもの」(コトバンク)だそうで、人は死ぬと自然にそこに帰っていく、という教えが、当時それなりに力のある教えとしてあったのでしょう。
 そういう世界があるなら、別に「次世、次次世」や「因果」などを考える必要はないわけですが、禅師は、もちろんその考えを断固否定します。
 しかし、今、私を含めて、この二十一世紀に「次世」や「因果」を真面目に信じる人はまれなのではないでしょうか。では、逆に、禅師は何故それを信じなければならなかったのか、と考えてみます。
 もし人に現世しかないのだとしたら、死後の評価ということを除けば、一人の人にとって、その生は死によって一切が終わることになります。それなら、苦悩も悲哀も現世だけのものだと思えば、まあいいか、ということにできないことはなさそうです。
 しかし、まあいいか、と振り切ってしまえない苦悩や悲哀を抱えた人は、次の生における解決を求めざるを得ないのではないでしょうか。
 つまり、「次世」や「因果」を信じる度合いは、苦悩や悲哀の深さに比例する、…。》


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2 増一阿含経

 増一阿含経に云く、
「忉利天子(トウリテン)有り、五衰の相現じ、当に猪の中に生ぜんとす。愁憂(シュウウ)の声、天帝に聞こゆ。
天帝之を聞きて、喚び来たりて告げて曰く、汝 三宝に帰依すべし。
即時に教えの如くす。便ち猪に生ずることを免れたり。
仏偈を説いて言(ノタマ)はく、
諸有(ショウ)仏に帰依すれば、三悪道に墜ちず、
(ロ)尽きて人天(ニンデン)に処し、便ち当に涅槃に至るべし。
三帰を受け已りなば、長者の家に生じ、
(マ)た出家することを得て、無学を成ぜん。」
おほよそ帰依三宝の功徳、はかりはかるべきにあらず無量無辺なり。
 

【現代語訳】
 また増一阿含経は次のように説いています。
「ある忉利天子の身体に五つの衰弱の相が現れて、猪の中に生まれそうになり、その憂いの声が天帝(帝釈天)に聞こえた。
 天帝はこの声を聞いて天子を呼び、おまえは三宝に帰依しなさいと教えて言った。
 天子はすぐに教えに従い、猪に生まれることを免れることが出来た。
 そこで仏(釈尊)は次の詩句を説かれた。
 人々が仏に帰依すれば、三悪道(地獄 餓鬼 畜生)に落ちることなく、
 煩悩が尽きて人間界や天上界に生まれ、遂には涅槃(煩悩の滅)に達することであろう。三帰戒を受ければ長者の家に生まれ、
 また出家することを得て、更に学ぶべきことのない阿羅漢の悟りを成就することであろう。」と。
 このように、三宝に帰依する功徳は計り知れず、無量無辺なのです。
 

《古い経典でこのような説話が語られるのは理解できます。しかし何度も言うように、こういう話を禅師の時代に僧たちはどのように聞いたのだろうか、という不思議があります。また、禅師はどのように語ろうとしたのでしょうか。
 ここでは、むしろ「天人五衰」という言葉の意味するところに関心が向きます。三島由紀夫著『豊饒の海』第四部がこのタイトルを持つ巻で、意味を知らないままに読んでいました。意味は「六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆しのこと」(サイト「NAVER」)だそうです。
 あの物語の終わりは私にとって衝撃的で、そのことは先のブログ「源氏物語おもしろ読み」に書いておきました。関心の向きは覗いてみてください。》

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1 希有経に曰く、

 希有経(ケウキョウ)に曰く、
「四天下(シテンゲ)及び六欲天を教化(キョウケ)して、皆四果を得せしむとも、一人の三帰を受くる功徳には如かず。」
 四天下とは、東西南北洲なり。そのなかに、北洲は三乗の化(ケ)いたらざるところ、かしこの一切衆生を教化して、阿羅漢となさん、まことにはなはだ希有なりとすべし。
 たとひその益ありとも、一人ををしへて三帰をうけしめん功徳にはおよぶべからず。
 また六天は、得道の衆生まれなりとするところなり。かれをして四果をえしむとも、一人の受三帰の功徳のおほくふかきにおよぶべからず。
 

【現代語訳】
 希有経には次のように説かれています。
「たとえ四天下(須弥山を中心とする東西南北の全地上世界)と六欲天(天上の欲楽世界に住む六種の天人)を教化して、皆に四果(一切の煩悩を断じた阿羅漢)を得させたとしても、それは一人の人が三帰戒(仏陀仏法僧団に帰依する戒)を受けた功徳には及ばない。」と。
 四天下とは、須弥山の四方に位置する世界で、東西南北の洲のことです。その中でも北洲は、仏の三乗(悟りに至る三つの乗り物。声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のこと。)の教えの達しない所であり、そのすべての人々を教化して阿羅漢(一切の煩悩を断じた聖者)にすることは、実に甚だ希有なことと言えます。
 しかし、たとえそのような利益があっても、一人を教えて三帰戒を受けさせた功徳には及ばないというのです。
 また六欲天は、仏道を悟る人々が希な所であり、その人に四果(阿羅漢)を得させたとしても、一人の三帰戒を受けた功徳の多さ深さには及ばないのです。
 

《仏の順位でいうと如来(仏)が最上位で、次の第二位が阿羅漢で、「四果を得せしむ」というのは、その阿羅漢にするということのようで、多くの人をそのように導くのは、「まことにはなはだ希有」ことだけれども、しかし、それよりも、一人の人を仏法僧に帰依させる方が、よりいっそう尊いことだと言います。
 以前、国会で「一番でなきゃだめなんですか。二番じゃだめなんですか」という話が話題になりましたが、ここは、多くの人を二番にするよりも、一番に「帰依」する(一番になるのではないのです)ことの方が尊い、という、ちょっと画期的な考え方です。
 言い換えれば、鶏口牛後の故事の逆の教えです。銀のレプリカをもらうよりも、金の本物を見せてもらう(所有する、のではありません)方がいい、というと、言い過ぎでしょうか。
 「三宝」の尊さは、そのように絶対的なものなのだ、ということです。》


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