『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

二十六億の餓龍

 世尊在世に、二十六億の餓龍(ガリュウ)、ともに仏所に詣し、みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、
「唯願はくは哀愍(アイミン)して、我を救済(グサイ)したまへ。大悲世尊、我等過去世の時を憶念するに、仏法の中に於て、出家することを得と雖も、備(ツブ)さに是の如くの種々の悪業を造れり。悪業を以ての故に、無量の身を経て三悪道に在り。亦余報を以ての故に、生じて龍の中に在りて極大苦(ゴクダイク)を受く。」
 仏諸龍に告げたまはく、
「汝等今当に尽く三帰を受け、一心に善を修(シュ)すべし。此の縁を以ての故に、賢劫(ケンゴウ)の中に於て、最後の仏に値(ア)ひたてまつらん。名づけて楼至(ルシ)と曰ふ。彼の仏の世に於て、罪除滅することを得ん。」
 時に諸龍等、是の話を聞き已りて、皆悉く至心(シイシン)に、其の形寿(ギョウジュ)を尽すまで、各(オノオノ)三帰を受く。」
 ほとけみづから諸龍を救済(グサイ)しましますに、余法なし、余術なし、ただ三帰をさづけまします。過去世に出家せしとき、かつて三帰をうけたりといへども、業報(ゴッポウ)によりて餓龍となれるとき、余法のこれをすくうべきなし。このゆゑに、三帰をさづけまします。
 しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深(シンジン)不可思議なりといふこと、世尊すでに証明しまします。衆生まさに信受すべし。
 十方の諸仏の名号(ミョウゴウ)を称念せしめましまさず、ただ三帰をさづけまします。仏意の甚深なる、たれかこれを測量(シキリョウ)せん。
 いまの衆生、いたづらに各各の一仏の名号を称念せんよりは、すみやかに三帰をうけたてまつるべし。愚暗にして大功徳をむなしくすることなかれ。
 

【現代語訳】
 世尊(釈尊)が世にありし時に、二十六億の飢えた竜が、ともに仏の所にやって来て、皆雨のように涙を降らせて仏に申し上げた。
「どうか哀れみを垂れて、我等をお救いください。大慈悲の世尊よ、我等は過去世を思い起こすと、昔仏法の中に出家することが出来たけれども、皆このように色々な悪業(悪報いを受ける因縁)を作りました。この悪業のために、生まれ変わり死に変わり無量の身を三悪道(地獄、餓鬼、畜生)の中に送りました。また残りの報によって竜の中に生まれ、極大の苦を受けています。」と。
 仏は、竜たちに話した。
「お前たちは、今から皆三帰(仏陀 仏法 僧団への帰依)を受けて、一心に善行を修めなさい。この因縁によって、お前たちは賢劫(千仏の賢者が出現するという現在の世界)の中で、最後の仏に出会うことであろう。その名を楼至といい、その仏の世で、お前たちの罪は消滅するであろう。」と。
 その時に竜たちは、この話を聞き終わると、皆真心でもって、その命の尽きるまで、おのおの三帰を受けた。
 ここで仏は、自ら竜たちを救済されるのに、ほかの方法や術ではなく、ただ三帰を授けられたのです。この者たちは、過去世で出家した時に三帰を受けていたのですが、悪業によって飢えた竜となった時には、ほかの法でこれを救えるものがありませんでした。そのために、仏は三帰を授けられたのです。
 このことから知りなさい。三帰の功徳は最尊 最上であり、甚深 不可思議であることを、世尊が既に証明されているのです。これを世の人々は、まさに信じ受け取りなさい。
 仏は竜たちに、諸仏の名号を称え念じさせようとなさらずに、ただ三帰を授けられたのです。この深い仏の心を、誰が推し量ることが出来ましょうか。
 今日の人々は、徒にそれぞれの一仏の名号を称え念じるよりも、早く三帰を受けるようにしなさい。愚かで三帰の大功徳を無駄にすることはいけません。
 

《ここのエピソードは、「大方等大集経」からの引用だそうで(『全訳注』)、後段は禅師の解説です。
 『全訳注』がこの巻の開題の末尾に、巻の後半四分の三が「諸経・諸論からいくつもの引用によって」帰依三宝の功徳について語られていることを紹介しながら、「ただ、いささか残念に思うことは、それらの諸論・諸論の語る帰依三宝の功徳は、かなり超現実的なものを含んでいるので、わたしには少々随いてゆきがたいものが感じられたことであった」と記しています。》 

 

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龍樹(大智度論)~1

 龍樹祖師の曰く、
「仏果を求むるが如きは、一偈を讃歎し、一南謨(イチナモ)を称し、一捻香を焼き、一華(イッケ)を奉献(ブゴン)せん。是(カク)の如くの小行(ショウギョウ)も、必ず作仏(サブツ)することを得ん。」
 これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、帰命(キミョウ)したてまつるべし。いかにいはんや大師釈迦牟尼仏の説を、龍樹祖師、正伝挙揚(コヨウ)しましますところなり。
 われらいま仏道の宝山にのぼり、仏道の宝海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。
 曠劫(コウゴウ)の供仏(クブツ)のちからなるべし。必得作仏うたがふべからず、決定(ケツジョウ)せるものなり。釈迦牟尼仏の所説、かくのごとし。
「復た次に、小因大果(ダイカ)、小縁大報(ダイホウ)といふこと有り。仏道を求むるが如き、一偈を讃し、一たび南無仏を称し、一捻香を焼く、必ず作仏することを得ん。何(イカ)に況や諸法実相、不生不滅、不不生不不滅を聞知(モンチ)して、而も因縁の業(ゴウ)を行ぜん、亦失せず。」
 世尊の所説かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正伝しましますなり。誠諦(ジョウタイ)の金言(キンゴン)、正伝の相承(ソウジョウ)あり。たとひ龍樹祖師の説なりとも、余師の説に比すべからず。
 世尊の所示(ショジ)を正伝流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教(ショウギョウ)を、みだりに東土の凡師の虚設(コセツ)に比量することなかれ。
 

【現代語訳】
 龍樹祖師の言うことには、
「仏とならんことを求める者は、経文の一偈を賛嘆し、一たび南無仏(仏に帰依し奉る)と唱え、仏に一つまみの香を焚き、一本の花を手向けなさい。このような小さな行いでも、必ずや仏となることが出来るであろう。」と。
 これは龍樹祖師菩薩だけが説いている教えですが、この教えに帰依し奉りなさい。いうまでもなく、ここで大師釈迦牟尼仏の説かれた教えを、龍樹祖師は正しく伝え宣揚しているのです。
 我等は今、仏道の宝の山に登り、仏道の宝の海に入って、幸いにもこの教えの宝を得たことは、本当に喜ぶべきことです。
 これは遠い昔に仏を供養した力のお陰に違いありません。この「必ずや仏となることが出来る」という言葉を疑ってはいけません。必ずそのようになるのです。釈迦牟尼仏の説く教えとは、このようであります。
 また龍樹祖師が言うには、
「また次に、小因大果(小さな直接的原因が大きな結果を生む)、小縁大報(小さな間接的原因によって大きな果報を受ける)ということがある。だから仏道を求める者が、経文の一偈を讃えたり、一たび南無仏と唱えたり、仏に一つまみの香を焚いたりすれば、それによって必ず仏となることが出来るのである。まして諸法実相(すべてのものは、そのまま真実の姿である)や不生不滅(すべてのものは生じることなく滅することもない)、不不生不不滅(すべてのものは生じない訳でも滅しない訳でもない)の道理を聞いて知り、更にこのような成仏の因縁の善業を行えば、成仏を失することはないのである。」と。
 世尊(釈尊)の、このように明らかな教えを、龍樹祖師は親しく伝えられたのです。これは釈尊の真実の言葉であり、正しく伝え相承された教えなのです。ですから、たとえこれが龍樹祖師の所説であっても、他の師の所説と比べることは出来ないのです。
 我々は、世尊(釈尊)の教説が正しく伝わり、流布している時に会うことが出来ました。本当に喜ぶべきことです。ですから、これらの聖者の教えを、妄りに中国の凡庸な師が唱える虚妄な説と比べてはいけません。
  

《龍樹の言葉が二つ(いずれも「大智度論」)引用されて、その解説がありますが、ほぼ同趣旨と思われますので、二つで一セットとし、第七番目とします。
 後段にある「小因大果、小縁大報」という言葉がいい言葉で、これが前段の話の要点にもなっていますし、前章の話も、結局こういうことかと思われます。
 前段の「奉献せん」の「ん(む)」は、ここでは「手向けなさい」と訳されていますが、「勧誘」の意として「…するがよい」の方が分かりやすいでしょう。
 後段の「諸法実相」については、手短に言えばこの訳にあるようなことでしょうが、「現成公案」巻が、まさにこのことを説くための巻であろうと思われます。大事な点は、普段の私たちは現実を「そのまま」に見ていない、本来のあり方において見ることをしないで、何らかの色眼鏡、先入観、概念で見ている、というのが前提で、そうではなく、それを「そのまま」把握する、別の言い方をすれば、そのものの本質と見抜く見方ができるようになることを目指すのが仏道である、ということになりそうです。
 続く「而も因縁の業を行ぜん(原文は漢文で、而行因縁業)」のところは、『提唱』は「因縁の業を行ずるも」と読んで、「業」を、こことは逆に「悪業」と解していますが、『全訳注』もここのように読んでいます。「而も」とありますから、その方が普通だと思います。》

 

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2 出家の果報

世尊言く、「仏法の中に於いて、出家の果報は不可思議なり。仮令(タトイ)人有って七宝の塔を起(タ)て、高さ三十三天に至るも、所得の功徳、出家に如かず。何を以ての故に。七宝の塔は、貪悪(トンアク)の悪人能く破壊(ハエ)するが故なり。
 出家の功徳は、壊毀(エキ)有ること無し。是の故に、若しは男女を教え、若しは奴婢を放ち、若しは人民を聴(ユル)し、若しは自己の身をも出家入道せしめば、功徳無量ならん。」
 世尊あきらかに功徳の量をしろしめして、かくのごとく校量しまします。福増これをききて、一百二十歳の耄及(モウギュウ)なれども、しひて出家受戒し、少年の席末につらなりて修練し、大阿羅漢となれり。
 

【現代語訳】
 釈尊が言われるには、「仏法の中では、出家の果報は不可思議である。仮にある人が、金銀宝石などの七宝で、高さ三十三天に達する仏舎利の供養塔を建てたとしても、その功徳は出家の功徳に及ばないのである。なぜなら、七宝の塔は、欲の深い悪人が容易に破壊するからである。
 しかし、出家の功徳は決して損なわれることが無い。このために男女を教え、または召使いを自由にし、または人民を許し、または自分自身も出家入道すれば、その功徳は無量なのである。」と。
 ここで釈尊は、明らかに出家の功徳の大きさを御存じの上で、このように説いておられるのです。王舎城の長者であった福増は、この教えを聞いて、百二十歳の老人でしたが強いて出家受戒し、少年の末席に連なって修練し、大阿羅漢になりました。
 

《ここの釈尊の言葉は、『賢愚経』にあるものだそうで、それに対する禅師の解説が続きます。
 大筋は解りやすい、さもあろうと思われる話で、「七宝の塔は、貪悪の悪人能く破壊」できるが、「出家」ということには手出しができるものはいない、などという解説は、なかなか気が利いているように思います。
 途中、「若しは男女を教え、若しは奴婢を放ち、若しは人民を聴し、若しは自己の身をも出家入道せしめば」という一節も、面白く思われます。
 まず、「若しは」で四つのことが並列されているように見えることです。
 この四つの中では当然最後の自己の出家が最も大きな功徳があることでしょうが、それは他の三つと同じ価値であるかのようになっているのが不思議です。
 あるいはこれは、出家に至る過程で行うであろうことの価値の順序を言っているのでしょうか。
 次に、「奴婢を放ち」が意外です。召使いを解放せよ、とはずいぶんヒューマニスティックな、現代的感覚に思われますが、そういうことなのでしょうか。『提唱』は「仏道修行をさせるために、下男、下女を解放し」と解釈していますが、それならもう少し言葉がほしいような気がします。
 また「人民を聴し」はよく分かりません。『全訳注』は 「人民の罪を許し」としていますが、それでは何やらキリスト教の原罪思想の言葉のように見えます。『提唱』はこれも「仏道修行の機会を与えるために許し」と言いますが、そのために「人民」の何を許すのか、意味が分かりません。
 あるいは、人々が仏法を解しない、ないしはその価値ほどに大切にしないことを許し、衆生のために懺悔する、というようなことでしょうか。》


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1 南洲に四種の最勝有り

 世尊言(ノタマワ)く、「南洲に四種の最勝有り。一に見仏、二に聞法(モンポウ)、三に出家、四に得道。」
 あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力(シュクゼンゴンリキ)にひかれて、最勝の身をえたり、歓喜随喜して出家受戒すべきものなり。
 最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生生をかさねば、積功(シャック)累徳ならん。
 

【現代語訳】
 釈尊が言われるには、「この須弥山南方の世界には、四つの優れた事がある。一つには、仏にまみえることが出来る。二つには、仏の教えを聞くことが出来る。三つには、仏に従って出家することが出来る。四つには、仏の道を悟ることが出来る。」と。
 明らかに知ることです、この四つの優れた事のある我々の南方世界は、 人の寿命が千年と言われる北方世界よりも、天上の神々の世界よりも優れているのです。今我々は過去世の善根力によって、仏法を学べる最も優れたこの世界に生まれることが出来ました。ですから、歓喜し随喜して出家受戒するべきなのです。
 仏法を学ぶのに最も優れた人身を受けながら、それを無駄にして、朝露のような命を無常の風に任せてはいけません。出家の一生を重ねていけば、その功徳は積み重なっていくことでしょう。
  

《ここでは、私たちは幸いにも須弥山を囲む四大州のうちの南州に生まれたのであって、そのことに「随喜歓喜」すべきである、とされます。なぜなら、そこでは、仏に会うことができて、得道が可能だから。
 須弥山の麓に東西南北、四つの世界があって、その南の世界が我々の住んでいる、この現世であるとされます。後の三つは、やはり人が住んでいるようですが、どういう世界なのか、ネットで探してみるのですが、どうも見つかりません。
 「私は貝になりたい」という映画がありましたが、詩集『消息』(吉野弘)にある詩「I was born」の一節「人間が生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね」というとおり、人間のみならず、世の生き物は、自分が何に生まれるかということを選ぶことはできないままに、そのものとして生を受けます。
 日本語の「生まれる」もやはり受け身形と考えるのが一般のようで、「Weblio辞書」には四段動詞『生む』に受け身の助動詞『れる』の付いたもの」とあります。
 もっとも、私は実は、この「れる」は自発(自然発生)の意味ではないかと思っているのですが、しかしどちらにしても「自分の意思ではない」ことは間違いないわけで、そんな、何に生まれても文句の言えない中で、私たちは(私は)人間として「南州」に「生まれさせられ」ました。そのことをこのように考えてこの上ない幸運とするのは人間の知恵なのですが、禅師にはそれが現実としてまざまざと見えている、ということなのでしょう。
 なお、初めの釈尊の言葉は、「いまだその出処を詳らかにすることをえない」(『全訳注』)そうです。》


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順次生受業~1

「第二に順次生受業(ジュンジショウジュゴウ)とは、謂(イワ)く、若し業(ゴウ)を此の生に造作(ゾウサ)増長して、第二生(ダイニショウ)に於いて異熟果を受くる、是を順次生受業と名づく。」
 いはく、もし人ありて、この生(ショウ)に五無間業(ゴムゲンゴウ)をつくれる、かならず順次生(ジュンジショウ)に地獄におつるなり。順次生とは、この生の次の生なり。
 余のつみは、順次生に地獄におつるもあり。また順後次受のひくべきあれば、順次生には大地獄にはおちず、順後業(ジュンゴゴウ)となることもあり。
 この五無間業は、さだめて順次生受業に地獄におつるなり。順次生、また第二生ともこれをいふなり。
 

【現代語訳】
 「三時業の第二、順次生受業とは、もし善悪の業(行い)を今生に積み重ねて、第二生(次の生)に果報を受ければ、これを順次生受業と名づける。」
 たとえば、もし人が今生に五無間業(無間地獄に堕ちる五つの罪業)をつくれば、必ず順次生には地獄に堕ちるのです。順次生とは、この生の次の生のことです。
 その他の罪については、順次生に地獄に堕ちるものもあり、また順後次受(次の生以後に果報を受ける)に引き継がれるものがあれば、順次生には大地獄に堕ちずに、順後次受の業となることもあります。
 しかしこの五無間業だけは、必ず順次生受業として地獄に堕ちるのです。順次生は、また第二生ともいいます。
 
《ここも、初めの一文は漢文で、『景徳伝燈録』からの引用かと思われ、「いはく、もし人ありて」以下は、禅師の解説です。
 第三章から語られてきた「順現法受業」に続いて、「順次生受業」、前の言葉を使って言えば、
「(この世での善業悪業に)順って、次生で報いを受ける」(第二章2節)「業」(行為)の話です。
 さて、様々な罪の内で、「五無間業」だけは、間違いなく「この生の次の生」においてその報いを受けて地獄に落ちる、と言います。
 その他の罪は、報いを受けるのが「この生の次の生」においての場合もあるし、またさらにその後の生においての場合もある、…。
 さて、どうしてここでは罪だけが問題になって、善業は問題にならないのでしょうか。それほどこの「五無間業」というのは特別な罪だということでしょうか。悪業の現世における報いの苦痛よりも、地獄に落ちての苦痛の方が、当然、より厳しいでしょうから。
 それにしても、やはり、それと対称する善業の報いも、あってしかるべきだと思うのですが、どうなのでしょうか。
 以下、その「五無間業」の話になります。》


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