『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

いま大宋国に寡聞愚鈍のともがらおほし

 古徳云はく、「大師の在世、尚僻計生見(ショウケン)の人有り。況や滅度の後、師無く禅を得せざる者をや。」
  いま大師とは、仏世尊なり。まことに世尊在世、出家受具せる、なほ無聞(ムモン)によりては僻計生見のあやまりのがれがたし。いはんや如来滅後、後五百歳、辺地下賤(グセン)の時処、あやまりなからんや。
 四禅を発(ホッ)せるもの、なほかくのごとし、いはんや四禅を発するにおよばず、いたづらに貪名(トンミョウ)愛利にしづめらんもの、官途世路(セロ)をむさぼるともがら、不足言(フソクゴン)なるべし。
 いま大宋国に寡聞(カモン)愚鈍のともがらおほし。かれらがいはく、「仏法と孔子老子の法と、一致にして異轍(イテツ)にあらず。」
 

【現代語訳】
 古聖の言うことには、「大師の居られた当時でさえ、僻見や我見を抱く人がいた。まして大師滅後の、師も無く禅定も得ていない者であれば、なおさらのことである。」と。
 この大師とは、仏世尊つまり釈尊のことです。実に釈尊の居られた当時に出家した者でさえ、教えを聞かなければ、僻見や我見の誤りにおちいったのです。まして釈尊滅後の、五百年後の辺地に住む下賤の者であれば、なおさら誤りは避けられないことでしょう。
 四禅を得た者でさえこの通りなのですから、まして四禅を得ることが出来ずに、徒に名利を貪り愛する者、官吏の道や処世の道を貪る出家は、言うまでもありません。
 今の大宋国には、教えを聞かない愚かな出家が大勢いて、彼らは、「仏の教えと孔子老子の教えは同じであって異なるものではない。」と言っています。
 

《ちょっと短い一章になりましたが、話の区切りが、この方がよさそうですので、変えさせてもらいました。
 「四禅」を獲得したような者でさえ先のような誤りを犯すのだが、ましてそうでないものはとんでもない間違ったことを考えるものだということで、以下、当時宋国で行われていたらしい三教一致説に対する批判が始まります。》


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豁達の空は因果を撥う

永嘉真覚(ヨウカシンガク)大師玄覚和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習学せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃経を披閲(ヒエツ)せるところに、金光(コンコウ)その室にみつ。ふかく無生(ムショウ)のさとりをえたり。すすみて曹谿に詣し、証をもて六祖にまうす。六祖つひに印可す。
 のちに証道歌をつくるにいはく、
「豁達の空は因果を撥(ハラ)う、莾莾(モウモウ)蕩蕩として殃過(オウカ)を招く。」
 あきらかにしるべし、撥無因果は、招殃過(ショウオウカ)なるべし。
 往(オウダイ)は、古徳ともに因果をあきらめたり。近代には、晩進みな因果にまよへり。
 いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、仏法のために仏法を習学せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。
 

【現代語訳】
 永嘉真覚大師玄覚和尚は、曹谿(大鑑慧能)の高弟で、もとは天台の法華宗を学び、左谿玄朗大師(天台の第八祖)と同門の人です。あるとき涅槃経を読んでいると、金色の光がその部屋に満ちて、深く無生の悟りを得ました。そこで自ら曹谿に詣でてその悟りを六祖(慧能)に申し上げると、六祖は遂に印可(認証)しました。
 後に証道歌を作って言うことには、
「何事にもこだわらない空の心は、因果の法を払いのけてしまう。それは限りなく多くの災いを招く。」 と。
 明らかに知ることです、因果を無視すれば、災いを招くことになるのです。
 昔は、仏や祖師となられた方々は皆 因果の道理を明らかにしました。しかし近頃では、後進の者が皆 因果の道理に迷っています。今日の世であっても、菩提心(道心)を清らかにして、仏法のために真実に仏法を学ぼうと志す仲間ならば、いにしえの仏祖のように因果の道理を明らかにすることが出来るのです。原因も無く結果も無いというのは外道です。
 

《「涅槃経を披閲せるところに、金光その室にみつ」という奇蹟はどこかで読んだような気もしますし、興味深いエピソードですが、禅師にとっては、立派な人であることを証明する単なるエピソードにすぎないらしく、それには触れないままに、その人の作った証道歌の一節に話が進みます。
 「莾莾」は、『漢語林』を見ますが、「莽」はあるものの、「莾」はありません。意味は、コトバンク(やはり「莽」ですが)に「 草深いさま。草や毛髪などが生え乱れているさま。② 広々として大きいさま。また、奥深いさま」として②の方にこの部分が例文として載っています(一部相違があります)。「蕩蕩」もほぼ同様の意味のようです。
 「殃過」は二字とも「災い」の意です。
 しかし問題は前半の「豁達の空は因果を撥う」で、この詩句は、どういう意味かというと、…?
 「空」の読み方は「クウ」で、直訳すれば、ここの訳でいいのでしょうが、普通、「豁達」はいい意味でつかわれることの多い言葉ですが、それがどうして「因果を撥う」という好ましくないことになるのか、…。
 因果というのは物事に原因と結果の関係を求めることを言うのでしょうが、「豁達の空」というのは、そういう関係性にこだわらず、起こることをそのままに受け入れて過ごす、あっけらかんとした心のありようを言うのでしょうか。
 そうだとすれば、「仏法を修習せざれども、自然に覚海に帰す」のでさえ「断見」である(前章)のですから、「修」のないままの「空」は本当の空っぽなのであって、幼児の絵(第五章)と同じ、と言っても変ではありません。
 途中、「無生」は「涅槃は生滅を離れたものであることをいう」(『全訳注』)のだそうです。また、「生じることがないこと。生滅変化しないこと。また、生じたり変化したりする迷いを超えた絶対の真理、 または悟り」(goo国語辞書)ともあります。



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二十六億の餓龍

 世尊在世に、二十六億の餓龍(ガリュウ)、ともに仏所に詣し、みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、
「唯願はくは哀愍(アイミン)して、我を救済(グサイ)したまへ。大悲世尊、我等過去世の時を憶念するに、仏法の中に於て、出家することを得と雖も、備(ツブ)さに是の如くの種々の悪業を造れり。悪業を以ての故に、無量の身を経て三悪道に在り。亦余報を以ての故に、生じて龍の中に在りて極大苦(ゴクダイク)を受く。」
 仏諸龍に告げたまはく、
「汝等今当に尽く三帰を受け、一心に善を修(シュ)すべし。此の縁を以ての故に、賢劫(ケンゴウ)の中に於て、最後の仏に値(ア)ひたてまつらん。名づけて楼至(ルシ)と曰ふ。彼の仏の世に於て、罪除滅することを得ん。」
 時に諸龍等、是の話を聞き已りて、皆悉く至心(シイシン)に、其の形寿(ギョウジュ)を尽すまで、各(オノオノ)三帰を受く。」
 ほとけみづから諸龍を救済(グサイ)しましますに、余法なし、余術なし、ただ三帰をさづけまします。過去世に出家せしとき、かつて三帰をうけたりといへども、業報(ゴッポウ)によりて餓龍となれるとき、余法のこれをすくうべきなし。このゆゑに、三帰をさづけまします。
 しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深(シンジン)不可思議なりといふこと、世尊すでに証明しまします。衆生まさに信受すべし。
 十方の諸仏の名号(ミョウゴウ)を称念せしめましまさず、ただ三帰をさづけまします。仏意の甚深なる、たれかこれを測量(シキリョウ)せん。
 いまの衆生、いたづらに各各の一仏の名号を称念せんよりは、すみやかに三帰をうけたてまつるべし。愚暗にして大功徳をむなしくすることなかれ。
 

【現代語訳】
 世尊(釈尊)が世にありし時に、二十六億の飢えた竜が、ともに仏の所にやって来て、皆雨のように涙を降らせて仏に申し上げた。
「どうか哀れみを垂れて、我等をお救いください。大慈悲の世尊よ、我等は過去世を思い起こすと、昔仏法の中に出家することが出来たけれども、皆このように色々な悪業(悪報いを受ける因縁)を作りました。この悪業のために、生まれ変わり死に変わり無量の身を三悪道(地獄、餓鬼、畜生)の中に送りました。また残りの報によって竜の中に生まれ、極大の苦を受けています。」と。
 仏は、竜たちに話した。
「お前たちは、今から皆三帰(仏陀 仏法 僧団への帰依)を受けて、一心に善行を修めなさい。この因縁によって、お前たちは賢劫(千仏の賢者が出現するという現在の世界)の中で、最後の仏に出会うことであろう。その名を楼至といい、その仏の世で、お前たちの罪は消滅するであろう。」と。
 その時に竜たちは、この話を聞き終わると、皆真心でもって、その命の尽きるまで、おのおの三帰を受けた。
 ここで仏は、自ら竜たちを救済されるのに、ほかの方法や術ではなく、ただ三帰を授けられたのです。この者たちは、過去世で出家した時に三帰を受けていたのですが、悪業によって飢えた竜となった時には、ほかの法でこれを救えるものがありませんでした。そのために、仏は三帰を授けられたのです。
 このことから知りなさい。三帰の功徳は最尊 最上であり、甚深 不可思議であることを、世尊が既に証明されているのです。これを世の人々は、まさに信じ受け取りなさい。
 仏は竜たちに、諸仏の名号を称え念じさせようとなさらずに、ただ三帰を授けられたのです。この深い仏の心を、誰が推し量ることが出来ましょうか。
 今日の人々は、徒にそれぞれの一仏の名号を称え念じるよりも、早く三帰を受けるようにしなさい。愚かで三帰の大功徳を無駄にすることはいけません。
 

《ここのエピソードは、「大方等大集経」からの引用だそうで(『全訳注』)、後段は禅師の解説です。
 『全訳注』がこの巻の開題の末尾に、巻の後半四分の三が「諸経・諸論からいくつもの引用によって」帰依三宝の功徳について語られていることを紹介しながら、「ただ、いささか残念に思うことは、それらの諸論・諸論の語る帰依三宝の功徳は、かなり超現実的なものを含んでいるので、わたしには少々随いてゆきがたいものが感じられたことであった」と記しています。》 

 

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龍樹(大智度論)~1

 龍樹祖師の曰く、
「仏果を求むるが如きは、一偈を讃歎し、一南謨(イチナモ)を称し、一捻香を焼き、一華(イッケ)を奉献(ブゴン)せん。是(カク)の如くの小行(ショウギョウ)も、必ず作仏(サブツ)することを得ん。」
 これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、帰命(キミョウ)したてまつるべし。いかにいはんや大師釈迦牟尼仏の説を、龍樹祖師、正伝挙揚(コヨウ)しましますところなり。
 われらいま仏道の宝山にのぼり、仏道の宝海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。
 曠劫(コウゴウ)の供仏(クブツ)のちからなるべし。必得作仏うたがふべからず、決定(ケツジョウ)せるものなり。釈迦牟尼仏の所説、かくのごとし。
「復た次に、小因大果(ダイカ)、小縁大報(ダイホウ)といふこと有り。仏道を求むるが如き、一偈を讃し、一たび南無仏を称し、一捻香を焼く、必ず作仏することを得ん。何(イカ)に況や諸法実相、不生不滅、不不生不不滅を聞知(モンチ)して、而も因縁の業(ゴウ)を行ぜん、亦失せず。」
 世尊の所説かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正伝しましますなり。誠諦(ジョウタイ)の金言(キンゴン)、正伝の相承(ソウジョウ)あり。たとひ龍樹祖師の説なりとも、余師の説に比すべからず。
 世尊の所示(ショジ)を正伝流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教(ショウギョウ)を、みだりに東土の凡師の虚設(コセツ)に比量することなかれ。
 

【現代語訳】
 龍樹祖師の言うことには、
「仏とならんことを求める者は、経文の一偈を賛嘆し、一たび南無仏(仏に帰依し奉る)と唱え、仏に一つまみの香を焚き、一本の花を手向けなさい。このような小さな行いでも、必ずや仏となることが出来るであろう。」と。
 これは龍樹祖師菩薩だけが説いている教えですが、この教えに帰依し奉りなさい。いうまでもなく、ここで大師釈迦牟尼仏の説かれた教えを、龍樹祖師は正しく伝え宣揚しているのです。
 我等は今、仏道の宝の山に登り、仏道の宝の海に入って、幸いにもこの教えの宝を得たことは、本当に喜ぶべきことです。
 これは遠い昔に仏を供養した力のお陰に違いありません。この「必ずや仏となることが出来る」という言葉を疑ってはいけません。必ずそのようになるのです。釈迦牟尼仏の説く教えとは、このようであります。
 また龍樹祖師が言うには、
「また次に、小因大果(小さな直接的原因が大きな結果を生む)、小縁大報(小さな間接的原因によって大きな果報を受ける)ということがある。だから仏道を求める者が、経文の一偈を讃えたり、一たび南無仏と唱えたり、仏に一つまみの香を焚いたりすれば、それによって必ず仏となることが出来るのである。まして諸法実相(すべてのものは、そのまま真実の姿である)や不生不滅(すべてのものは生じることなく滅することもない)、不不生不不滅(すべてのものは生じない訳でも滅しない訳でもない)の道理を聞いて知り、更にこのような成仏の因縁の善業を行えば、成仏を失することはないのである。」と。
 世尊(釈尊)の、このように明らかな教えを、龍樹祖師は親しく伝えられたのです。これは釈尊の真実の言葉であり、正しく伝え相承された教えなのです。ですから、たとえこれが龍樹祖師の所説であっても、他の師の所説と比べることは出来ないのです。
 我々は、世尊(釈尊)の教説が正しく伝わり、流布している時に会うことが出来ました。本当に喜ぶべきことです。ですから、これらの聖者の教えを、妄りに中国の凡庸な師が唱える虚妄な説と比べてはいけません。
  

《龍樹の言葉が二つ(いずれも「大智度論」)引用されて、その解説がありますが、ほぼ同趣旨と思われますので、二つで一セットとし、第七番目とします。
 後段にある「小因大果、小縁大報」という言葉がいい言葉で、これが前段の話の要点にもなっていますし、前章の話も、結局こういうことかと思われます。
 前段の「奉献せん」の「ん(む)」は、ここでは「手向けなさい」と訳されていますが、「勧誘」の意として「…するがよい」の方が分かりやすいでしょう。
 後段の「諸法実相」については、手短に言えばこの訳にあるようなことでしょうが、「現成公案」巻が、まさにこのことを説くための巻であろうと思われます。大事な点は、普段の私たちは現実を「そのまま」に見ていない、本来のあり方において見ることをしないで、何らかの色眼鏡、先入観、概念で見ている、というのが前提で、そうではなく、それを「そのまま」把握する、別の言い方をすれば、そのものの本質と見抜く見方ができるようになることを目指すのが仏道である、ということになりそうです。
 続く「而も因縁の業を行ぜん(原文は漢文で、而行因縁業)」のところは、『提唱』は「因縁の業を行ずるも」と読んで、「業」を、こことは逆に「悪業」と解していますが、『全訳注』もここのように読んでいます。「而も」とありますから、その方が普通だと思います。》

 

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2 出家の果報

世尊言く、「仏法の中に於いて、出家の果報は不可思議なり。仮令(タトイ)人有って七宝の塔を起(タ)て、高さ三十三天に至るも、所得の功徳、出家に如かず。何を以ての故に。七宝の塔は、貪悪(トンアク)の悪人能く破壊(ハエ)するが故なり。
 出家の功徳は、壊毀(エキ)有ること無し。是の故に、若しは男女を教え、若しは奴婢を放ち、若しは人民を聴(ユル)し、若しは自己の身をも出家入道せしめば、功徳無量ならん。」
 世尊あきらかに功徳の量をしろしめして、かくのごとく校量しまします。福増これをききて、一百二十歳の耄及(モウギュウ)なれども、しひて出家受戒し、少年の席末につらなりて修練し、大阿羅漢となれり。
 

【現代語訳】
 釈尊が言われるには、「仏法の中では、出家の果報は不可思議である。仮にある人が、金銀宝石などの七宝で、高さ三十三天に達する仏舎利の供養塔を建てたとしても、その功徳は出家の功徳に及ばないのである。なぜなら、七宝の塔は、欲の深い悪人が容易に破壊するからである。
 しかし、出家の功徳は決して損なわれることが無い。このために男女を教え、または召使いを自由にし、または人民を許し、または自分自身も出家入道すれば、その功徳は無量なのである。」と。
 ここで釈尊は、明らかに出家の功徳の大きさを御存じの上で、このように説いておられるのです。王舎城の長者であった福増は、この教えを聞いて、百二十歳の老人でしたが強いて出家受戒し、少年の末席に連なって修練し、大阿羅漢になりました。
 

《ここの釈尊の言葉は、『賢愚経』にあるものだそうで、それに対する禅師の解説が続きます。
 大筋は解りやすい、さもあろうと思われる話で、「七宝の塔は、貪悪の悪人能く破壊」できるが、「出家」ということには手出しができるものはいない、などという解説は、なかなか気が利いているように思います。
 途中、「若しは男女を教え、若しは奴婢を放ち、若しは人民を聴し、若しは自己の身をも出家入道せしめば」という一節も、面白く思われます。
 まず、「若しは」で四つのことが並列されているように見えることです。
 この四つの中では当然最後の自己の出家が最も大きな功徳があることでしょうが、それは他の三つと同じ価値であるかのようになっているのが不思議です。
 あるいはこれは、出家に至る過程で行うであろうことの価値の順序を言っているのでしょうか。
 次に、「奴婢を放ち」が意外です。召使いを解放せよ、とはずいぶんヒューマニスティックな、現代的感覚に思われますが、そういうことなのでしょうか。『提唱』は「仏道修行をさせるために、下男、下女を解放し」と解釈していますが、それならもう少し言葉がほしいような気がします。
 また「人民を聴し」はよく分かりません。『全訳注』は 「人民の罪を許し」としていますが、それでは何やらキリスト教の原罪思想の言葉のように見えます。『提唱』はこれも「仏道修行の機会を与えるために許し」と言いますが、そのために「人民」の何を許すのか、意味が分かりません。
 あるいは、人々が仏法を解しない、ないしはその価値ほどに大切にしないことを許し、衆生のために懺悔する、というようなことでしょうか。》


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