『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

2 能著所著

 古徳 云はく、
「老子荘子(ソウジ)は、尚自ら未だ小乗の能著所著(ノウジャクショジャク)、能破所破を識(シ)らず。
 況んや大乗中の若著若破(ニャクジャクニャクハ)をや。是の故に仏法と少しも同じからず。
 然れば世の愚者は名相(ミョウソウ)に迷ひ、濫禅の者は正理(ショウリ)に惑ひ、道徳、逍遥の名を将(モッ)て仏法解脱の説に斉(ヒト)しめんと欲(オモ)ふ。豈に得べけんや。」
 むかしより、名相にまどふもの、正理をしらざるともがら、仏法をもて荘子、老子にひとしむるなり。
 いささかも仏法の稽古あるともがら、むかしより荘子、老子をおもくする一人なし。
 

【現代語訳】
 古聖の言うことには、
「老子や荘子は、まだ小乗の教えである執著を取り除くことさえ知らない。
 ましてや大乗の教えの中の、執著に捕らわれないことなど知らないのである。このために、老子や荘子は仏法と少しも同じではない。
 このように、世の愚者は仏法の教学的名目と法相に迷い、誤った禅定の者は正しい道理に惑って、老子の道徳経や荘子の逍遥遊の文字を、仏法の解脱の説と同様なものとしたがるのである。どうしてそんなことがあり得ようか。」と。
 昔から、教学的名目と法相に惑う者や、正しい道理を知らない者たちは、仏法を荘子や老子と同様なものと考えるのです。
 ほんの少しでも仏法を学んだ者であれば、昔から荘子や老子を重んじるような人は、誰一人いないのです。
 

《「能著所著」は、『全訳注』が「能と所は、主体と客体を意味し、著は執着を意味する」と言います。訓読では「能く著し、著せ所(ら)る」とでも読むことになるのでしょうか。「自分が何かに執着する、自分が執着の対象になる」というような意味になりそうです。
 執着するとは、自分があることに拘ることですが、それは見方を変えればそのものに引き込まれることでもあるわけで、能動であると同時に受け身でもある、そういうことを言っているのではないか、…。
 「能破所破」は、「破は否定を意味する」と言いますから、自分が執着を捨て去る、他から自分への執着を断ち切られる」、次の「若著若破」は、執着するがごとく、せざるがごとく、というようなことでしょうか。
 「名相」は名前と実体、世の一般的な愚かな者たちは誤ったものの考え方をし、仏法を生噛りのものはその教えを誤って理解することで、老子の道徳、荘子の「逍遥」と仏法を同じものと考えようしているが、そんなことはできるはずがない、…。》

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1 誠意と虚心と見性

 大宋嘉泰(カタイ)中に、僧正受(ショウジュ)といふもの有り、普燈録三十巻を撰進するに云はく、
「臣、孤山智円の言(ゴン)を聞くに曰く、『吾が道は鼎の如し。三教は足の如し。足一つも虧(カ)くれば鼎覆(クツガエ)る。』
 臣、嘗て其の人を慕い、其の説を稽(カンガ)ふ。乃ち知りぬ、儒の教(キョウ)たる、其の要は誠意に在り。道の教たる、其の要は虚心に在り。釈の教たる、其の要は見性(ケンショウ)に在り。
 誠意と虚心と見性と、名を異にして体同じ。厥(ソ)の帰する攸(トコロ)を究むるに、適(ユク)として此の道と会(エ)せざるは無し、云々。」。
 かくのごとく、僻計生見(ショウケン)のともがらのみおほし、ただ智円、正受(ショウジュ)のみにはあらず。このともがらは、四禅をえて四果とおもはんよりも、そのあやまりふかし。謗仏、謗法、謗僧なるべし。
 すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり、莾莾蕩蕩招殃禍(モウモウトウトウショウオウカ)うたがひなし。三宝(サンボウ)、四諦(シタイ)、四沙門なしとおもひしともがらにひとし。
 仏法いまだその要見性にあらず。七仏、西天二十八祖、いづれのところにか仏法ただ見性のみなりとある。
 六祖壇経(ダンキョウ)に見性の言(ゴン)あり、かの書これ偽書なり。附法蔵の書にあらず、曹谿の言句(ゴンク)にあらず、仏祖の児孫、またく依用(エヨウ)せざる書なり。正受、智円、いまだ仏法の一隅をしらざるによりて、一鼎三足(イッテイサンソク)の邪計をなす。
 

【現代語訳】
 大宋の嘉泰年中に、僧の正受という者が普燈録三十巻を著し、天子に奉って申し上げるには、
「臣が、孤山智円の言葉を聞くところによると、彼は、『私の道は鼎に似ている。仏教、儒教、道教の三つは、その三本の足のようなものである。その一つでも欠ければ鼎はひっくりかえるのである』と言われました。
 臣は、以前にその人を慕ってその説を考察し、そして知りました。それは、儒教の教えの要旨は誠意にあり、道教の教えの要旨は虚心にあり、釈尊の教えの要旨は見性にあるということであり、又その誠意と虚心と見性とは、名称は異なっても本体は同じであり、その帰着する所を究めれば、行き着くところはこの道と合致するのである、云々。」と。
 大宋国には、このような僻見や我見の出家者ばかり大勢いて、ただ智円や正受だけのことではないのです。この者たちは、四禅(第四の禅定)を得て四果(阿羅漢)を得たと思う者よりも、その誤りは深く、仏陀を謗り、仏法を謗り、僧団を謗ることと同じなのです。
 このような考えは、もはや解脱を否定し、過去 現在 未来の三世を否定し、因果の道理を否定しているのであって、限りなく多くの災いを招くに違いありません。これは仏法僧の三宝や苦集滅道の四諦(四つの真理)、聖者の四沙門(四種の出家)などは無いと思う者たちと同じなのです。
 また仏法は今まで、その要旨が見性(自己の本性を見ること)であったことはありません。釈尊までの過去七仏や、その法を伝えたインドの二十八人の祖師の中で、いったい誰が、仏法とはただ見性だけである、と説いたでしょうか。
 六祖壇経に見性という言葉がありますが、この書は偽書です。正法を伝える書ではないし、曹谿(六祖慧能)の言葉でもありません。仏祖の児孫の全く使用しない書です。正受や智円は、まだ仏法の一隅さえ知らないので、仏教と儒教と道教を鼎の三本の足に例えるという誤った考えをするのです。
 

《前節の「いま大宋国に寡聞愚鈍のともがらおほし」からの展開、というか連想というか、その一つの典型が、いわゆる三教一致説だということで、四禅比丘の話を離れて、そちらへ話が移っていきます。
 最初に、正受という僧が孤山智円という僧の言葉を取り上げて語った話についてです。
 その人は「儒の教たる、其の要は誠意に在り。道の教たる、其の要は虚心に在り。釈の教たる、其の要は見性に在り」と理解し、その三つは同じことを言っているのだと考えました。
 もちろん私にその正確な当否を言う資格はありませんが、普通に考えてそんなことはありえないだろうという気がします。
 禅師は、仏法はただ「見性」(「修行によって表面的な心のあり方を克服し、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること」・Weblio辞書)だけが大切なのではない、というふうに批判します。
 そういうふうに言われると、ではほかに何が「要」でしょうかと聞きたくなりますが、多分、「要」はそんなふうに単発的にあるのではなくて、いくつもの小さな「要」が有機的に関わり合ってできあがった世界観のようなものとしてあるのではないでしょうか。
 すると、一人の人の世界観を一語で言い表すことからして無謀なことだと思いますし、それは、老子、孔子についても同じであるでしょうから、それを三つ並べて同じだなどと言うのは、三人が同じ人だと言っているに等しいことになるでしょう。
 せいぜい、この三つの言葉が示すそれぞれ一部分ずつが似通っているという程度にすぎないに違いありません。それも「似通っている」のが限界で、この三つに限らず、決して同じなどということはないのではないでしょうか。言葉が違えば、意味も違うのが当然ですから。


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宏智古仏、かみの因縁を頌古するに云く

宏智(ワンシ)古仏、かみの因縁を頌古(ジュコ)するに云く、
「一尺の水、一丈の波、五百生前を奈何(イカン)ともせず。
 不落不昧を商量するや、依然として葛藤窠(カットウカ)に撞入(トウニュウ)す。
 阿呵呵(アカカ)、会(エ)す也。
 若し是れ儞(ナンジ)洒洒落落たらば、我が哆哆(タタ)和和を妨げず、
 神歌社舞自(オノ)ずから曲を成し、手を其の間に拍して哩囉(リラ)を唱う。」
 いま不落不昧商量也(ヤ)、依然撞入葛藤窠の句、すなわち不落と不昧とおなじかるべしといふなり。
 おほよそこの因果、その理いまだつくさず。
 そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および余趣に生ずといはず。人のうたがふところなり。
 脱野狐身のすなはち善趣にうまるべくは、天上人間にうまるべし。悪趣にうまるべくは、四悪趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生処(ショウショ)なかるべからず。
 もし衆生死して性海(ショウカイ)に帰し、大我に帰すといふは、ともにこれ外道の見なり。
 

【現代語訳】
 宏智(正覚)古仏(尊称)が、最初の百丈禅師の因縁話を称揚して言うには、
「一尺の水が一丈の波となるように、五百生以前の因果によって野狐となったことは如何んともしがたい。
 それを因果に落ちないのか、因果を昧まさないのかと論議しても、依然として文字や言葉に捕らわれるばかりである。
 あっはっは、笑止なことだ。これが分かったか。
 もしお前たちが、全てのこだわりをきれいさっぱりと落してしまえば、私の赤子の泣き声を邪魔にせず、
 豊作を祝う祭りが自然に歌い舞われて、共に手をうち囃して歌うことであろう。」と。
 この中の「因果に落ちないのか、因果を昧まさないのかと論議しても、依然として文字や言葉に捕らわれるばかりである。」という言葉は、因果に落ちないと言っても昧まさないと言っても、同じようなものであると言うのです。
 ただこの因果の話は、まだその道理を尽くしているとは言えません。
 何故ならば、野狐の身を脱け出ることは、今出来たけれども、野狐の身を脱け出て後に、人間に生まれたとも言わないし、天上に生まれたとも言わないし、さらに他の所に生まれたとも言わないのは、人の疑問とするところです。
 野狐の身を脱け出て、よい世界に生まれるべき者は、天上や人間に生まれることでしょう。悪い世界に生まれるべき者は、地獄、餓鬼、畜生、修羅などに生まれるのです。野狐の身を脱け出て後に、どこにも生まれる所が無いということはありません。
 もし衆生は死んで本性の海に帰り、大我に帰ると言うのなら、それは外道の考えです。
 

《ここは三つの話が並んでいて、始めの宏智の見解は、禅師の考えとは全く違っていて、あえて言えば、前章の「豁達の空」の例話とさえ言えそうな話です。
 もちろん宏智の話ですから「『修』のないままの『空』」というようなことはないわけですが、禅師の目から見ると、そう見えるのではないか、…。しかし、それに対する禅師の批評・評価は語られていないように見えます。
 後段は、あの野狐の話は、十分には検討されていない、未完成の話だという話です。
 野狐は、あの話の後、人間になったのか、天上に生まれたのか、あるいは「悪趣」に生まれたのか、話は終わりまで語っていない、と言います。そう言われれば確かにそうですが、しかし、「大悟し」たとあったのですから、理屈としてはそうであっても、普通には、天上ではないまでも、人間には生まれ変わった、と考えてよさそうなもので、ここであらためて問題にする必要はない話のように思われますし、仮に問題だとしたら、だからどうだという禅師の見解が語られていません(不落不昧の問題は、この狐の話では解けないのだ、と言っているとも考えられるかもしれませんが)。
 また、最後の一文は、前の二つの話とはほぼ関係が無く、先の第六章の話の結びとでもすべきもので、つまり、ここの三つの話はバラバラでつながりを持たないようにみえます。
 思うに、禅師はここに、自分の見解とは異なる、しかし有力な先達の見解と、もう一つ全く別の問題点を、後日の課題にメモとして残した、ということなのではないでしょうか。》


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盲龍女~1

 「爾(ソ)の時に、衆中(シュチュウ)に盲龍女有り。口中膖爛(フラン)して、諸の雑蟲(ゾウチュウ)満てり。
 状(カタチ)屎尿(シニョウ)の如く、乃至(ナイシ)穢悪(ワイアク)なること、猶婦人の根中(コンチュウ)の不浄の若し。臊臭(ソウシュウ)看難(ミガタ)、種々に噬食(ゼイジキ)せられて、膿血(ノウケツ)流出(ルシュツ)す。一切の身分(シンブン)に、常に蚊虻(ブンモウ)諸の悪しき毒蠅(ドクヨウ)に唼食(ソウジキ)せらるる有りて、身体の臭処(シュウショ)、見聞(ケンモン)す可きこと難し。
 爾の時に世尊、大悲心を以て、彼の龍婦(リョウフ)の眼盲(メシ)ひ困苦すること是の如くなるを見たまひて、問うて言(ノタマ)はく、
「妹何の縁の故にか此の悪身を得たる。過去世に於て、曾(カツ)て何の業(ゴウ)をか為せし。」
 龍婦答へて言はく、
「世尊、我今此の身、衆苦(シュク)逼迫して、暫時も停(トド)まること無し。設(モ)し復言はんと欲(オモ)ふも、而も説くこと能はず。
 我過去三十六億を念(オモ)ふに、百千年に於て、悪龍の中に是の如くの苦を受け、乃至日夜刹那も停(ヤ)まざりき。
 我往昔(オウジャク)九十一劫(コウ)を為(オモ)へば、毗婆尸仏(ビバシブツ)の法の中に於て、比丘尼と作(ナ)る。欲事を思念すること、酔人よりも過ぎたり。
 復出家すと雖も、如法(ニョホウ)なること能はず、伽藍の内に於て、牀褥(ジョウジョク)を敷施(フセ)して、数々(シバシバ)非梵行(ヒボンギョウ)の事を犯し、以て欲心を快くし、大楽受を生ず。或は他(ヒト)の物を貪求(トング)し、多く信施(シンセ)を受く。
 是の如くなるを以ての故に、九十一劫に於て、常に天人の身を受くることを得ず。恆(ツネ)に三悪道にして、諸の焼煮(ショウシャ)を受く。
 

【現代語訳】
 「その時に、人々の中に盲目の竜女がいて、口の中は腫れ爛れて多くの虫で満ち溢れていた。
 その有り様は屎尿のようであり、また醜悪なこと婦人の局所の中の不浄のようであった。その生臭さは人の目を背けさせるものであり、そこには様々な虫が食らいつき、膿や血が流れ出ていた。全身を常に蚊や虻や多くの悪しき毒蠅がすすっていて、身体の臭さは経験し難いものであった。
 その時に世尊は、大慈大悲の心で、この竜女の眼が見えず困苦している姿をご覧になり、竜女に尋ねた。「妹よ、何が原因でこのような悪い身体になってしまったのか。一体過去の世で何をしてきたのか。」
 竜女は答えた。
「世尊よ、私の身体は今、多くの苦に迫られて一時も休まることがありません。ですから、話そうと思ってもよく話すことが出来ません。
 私の過去三十六億年を思うと、百千年のあいだ悪竜の中に生まれて、このような苦を受け続け日夜瞬時も休むことがありませんでした。
 又、私の九十一劫の昔を思えば、毘婆尸仏の法の中で比丘尼(尼僧)となりました。しかし、いつも欲事(情欲)を思って、酒を好む酔人に過ぎるものがありました。
 そして出家したけれども、出家の法を守ることが出来ず、僧院の中に敷物を敷いてしばしば非梵行(情交)を行い、欲心を満たして大いに楽しんでいました。また他人の物を貪り求めては、多くの信者の施物を受けていたのです。
 このような訳で、九十一劫の間、常に天上界や人間界に生まれることが出来ず、常に三悪道(地獄道 餓鬼道 畜生道)に生まれて、身を焼かれたり煮られたりという多くの苦を受けてきました。
 

《「大方等大集経」からの二つ目の引用で、次の章まで続きます。
 「龍女」というのは、一般には「龍宮にいる龍王の娘。特に、沙伽羅(しゃがら)龍王の娘。八歳で悟りを開き、釈迦の前で男子に変成して成仏したという」(コトバンク)という人がいるようですが、ここはその人でなくて、単に「龍の女子」(『提唱』)であるようです。
 後に「天人の身を受くることを得ず」、「悪龍の中に是の如くの苦を受け」と言っていますから、「龍の身分に落ち込んだ女」(『提唱』)、女性が龍に変化しているということでしょうか。
 その女の醜悪な様が、まさに「看難し」といった様に描かれます。仏典には時折こういう情け容赦のない描写があるようで、他のところでも見たような気がしますが、それは、この教えが決して清浄な思索だけの中から生まれたものではなく、絶望的な現実を凝視した結果というか、一度はその汚辱にまみれた経験さえある中から生まれ出たものではなかろうか、というような憶測さえ抱かされます。そういえば、小説『邪宗門』(高橋和巳著)が、逃れようのない不運な環境にあって、相次ぐ苦難の底に沈んだ女性から、やむにやまれぬ形で宗教が生まれ出るさまを、熱い口調で語っていたことを思い出します。》


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4 龍樹~5

 しかあればすなはち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。
 いまの凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ、有所得(ウショトク)のみ仏果菩提ならんとおもふ。
 かくのごとくの邪見は、たとひ八万劫(ハチマンゴウ)をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず、いかでか唯仏与仏の究尽(グウジン)しましますところの諸法実相を究尽することあらん。
 ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しましますところ、これ諸法実相なるがゆゑなり。
 

【現代語訳】
 このように、仏の悟りの功徳とは、また諸法実相の道理というのは、今の世間の凡夫が思うこととは異なるのです。
 今の凡夫の思うことは、人は悪をなすのが真実であろうと思い、修行して得られたものだけが仏の悟りであろうと思うのです。
 このような不正な考えでは、たとえ八万劫という無量の時を知ることが出来たとしても、未だ「過去は存在するが、未来は存在しない」という考えを逃れていないのであり、それでどうして、ただ仏と仏だけが究め尽くされた諸法実相を究め尽すことが出来ましょうか。
 何故かと言えば、ただ仏と仏のみが究め尽くしてこられたものが、諸法実相であるからです。
 

《「凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ」とは、興味深いことです。凡夫は、人の生まれながらは悪を作るものだと考えている、と言います。
 考えてみれば、仏道は、「魔に四種あり」と教え、人は「八万四千の諸煩悩」に惑わされると言いました(「発菩提心」巻第十章1節)。
 ありとあらゆる煩悩が人を迷わせるのであって、どちらへ向かっても悪・煩悩へ向かうことになる、そうではない道はたった一本、仏道の道なのだと説きます。救いの道は、九牛の一毛、砂漠における一滴の甘露なのであって、その他の周囲はすべて「造悪」への道しかない、そういうところに人間はいる、…。
 「有所得のみ仏果菩提ならん」のここの訳は分かりにくいですが、『全訳注』は「なにか為にすることだ」と訳していて、つまり幾度も語られてきたように、仏となることを目的として(得る所が有ると考えて)功徳を積み仏果を得ようとする、というような意味でしょうか。》

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