『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

4 龍樹~5

 しかあればすなはち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。
 いまの凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ、有所得(ウショトク)のみ仏果菩提ならんとおもふ。
 かくのごとくの邪見は、たとひ八万劫(ハチマンゴウ)をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず、いかでか唯仏与仏の究尽(グウジン)しましますところの諸法実相を究尽することあらん。
 ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しましますところ、これ諸法実相なるがゆゑなり。
 

【現代語訳】
 このように、仏の悟りの功徳とは、また諸法実相の道理というのは、今の世間の凡夫が思うこととは異なるのです。
 今の凡夫の思うことは、人は悪をなすのが真実であろうと思い、修行して得られたものだけが仏の悟りであろうと思うのです。
 このような不正な考えでは、たとえ八万劫という無量の時を知ることが出来たとしても、未だ「過去は存在するが、未来は存在しない」という考えを逃れていないのであり、それでどうして、ただ仏と仏だけが究め尽くされた諸法実相を究め尽すことが出来ましょうか。
 何故かと言えば、ただ仏と仏のみが究め尽くしてこられたものが、諸法実相であるからです。
 

《「凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ」とは、興味深いことです。凡夫は、人の生まれながらは悪を作るものだと考えている、と言います。
 考えてみれば、仏道は、「魔に四種あり」と教え、人は「八万四千の諸煩悩」に惑わされると言いました(「発菩提心」巻第十章1節)。
 ありとあらゆる煩悩が人を迷わせるのであって、どちらへ向かっても悪・煩悩へ向かうことになる、そうではない道はたった一本、仏道の道なのだと説きます。救いの道は、九牛の一毛、砂漠における一滴の甘露なのであって、その他の周囲はすべて「造悪」への道しかない、そういうところに人間はいる、…。
 「有所得のみ仏果菩提ならん」のここの訳は分かりにくいですが、『全訳注』は「なにか為にすることだ」と訳していて、つまり幾度も語られてきたように、仏となることを目的として(得る所が有ると考えて)功徳を積み仏果を得ようとする、というような意味でしょうか。》

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3 龍樹~4

 この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく。のちには智度論の文(モン)にむかうてこれを撿校(ケンコウ)す。伝法祖師の示誨(ジケ)、あきらかにして遺落(イラク)せず。この文、智度論第十にあり。諸仏かならず諸法実相を大師としましますこと、あきらけし。釈尊また諸仏の常法を証しまします。
 いはゆる諸法実相を大師とするといふは、仏法僧の三宝を供養恭敬(クギョウ)したてまつるなり。諸仏は、無量阿僧祇劫、そこばくの功徳善根を積集(シャクジュウ)して、さらにその報をもとめず、ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。
 仏果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために袵針(ジンシン)しまします。仏果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁まさしく消息なり。
 

【現代語訳】
 この釈尊と盲目の比丘の因縁について、昔、先師如浄和尚の部屋に於いて夜話を聞きました。後に龍樹の智度論の文を見て、これを調べ確かめました。大法伝受の祖師の示す教えについて、先師は明らかで遺漏するところがありませんでした。この文は、智度論第十にあります。ここに、諸仏は必ず諸法実相を大師(優れた師)とされていることが明らかに説かれています。釈尊はまた、諸仏の日常の作法を明らかにされているのです。
 いわゆる「諸法実相を大師とする」というのは、仏法僧の三宝(三つの宝)を供養し敬い奉ることです。諸仏は、無量無数の長い年月に、多くの功徳善根を積んで、まったくその報いを求めることがありませんでした。それはただ功徳を敬って供養されたからなのです。
 釈尊は、仏の悟りの位に至っても、なお小さな功徳を愛して、盲目の比丘のために針に糸を通してあげました。仏の功徳を明らかにしようと思うなら、この釈尊と盲目の比丘の因縁が、まさにそれであることを学びなさい。
 

《ここからは先の龍樹のエピソードについての禅師の解説ですが、ここによると、意外にも、あの盲目の比丘の話は「諸法実相を大師とする」という話であるようです。
 これは難問で、一体どうしてそういうことになるのか、ちょっと困ってしまいます。
 ともあれ「いはゆる」以下がその説明になるようで、それによると、「諸法実相を大師とする」とは「仏法僧を供養」することであり、諸仏は、その供養に当たっては「そこばくの功徳善根を積集して」しかも「さらにその報をもとめず」という姿勢であるのだ、と言います。
 だから釈尊は究極の悟りに近く至っても、なお「小功徳」をもないがしろにすることなかったのであり、その一つとして「盲比丘のために袵針」したのだ、というつながりになるのでしょうか。
 そしてその行動が「諸法」の一つの例であり、以下の一連の因縁が「諸法実相」の姿である、といったふうにでも考えればいいのでしょうか。
 しかし、「その報をもとめず、ただ功徳を恭敬して供養」する、というのは、どうも落ち着かない気がします。功徳を行おうとして善行をするというのは不純ではないかと思うのです。それが功徳であると思って行うのでは、すでに功徳になっていない、そんなことは微塵も思わず、ただ行ったことが自然と功徳になっている、そういうあり方はできないものか、そう思ってきました。かつて触れたことのある、『大きな石の顔』のアーネストのように、…。


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2 龍樹~3

 仏在時の如き、一(ヒトリ)の盲比丘有りき。眼(マナコ)見る所無く、而も手を以て衣を縫ふ。時に針袵(シンジン)脱せり。
 便ち言はく、誰か福徳を愛して、我が為に袵針(ジンシン)せん。
 是の時に仏、其の所に到て、比丘に語(ツ)げたまはく、我は是れ福徳を愛する人なり、汝が為に袵(ジン)し来たらん。
 是の比丘、仏の声と識(シ)りて、疾(ト)く起きて衣を著け、仏足を礼(ライ)し、仏に白(モウ)して言はく、仏は功徳已(スデ)に満ぜり、云何(イカン)が福徳を愛すと言ひたまふや。
 仏報(ツ)げて言(ノタマ)はく、我れ功徳已に満ずと雖も、我深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知る。今我一切衆生の中に於いて、最第一を得たるは、此の功徳に由(ヨ)れり、是の故に我愛するなり。
 仏此の比丘の為に、功徳を讃し已(オワリ)て、次に為に随意に説法したまふ。是の比丘、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得て、肉眼(ニクゲン)更に明らかなりき。」


【現代語訳】
 仏(釈尊)が世に在りし時に、一人の盲目の比丘がいた。ある時、眼が見えずして手で衣(袈裟)を縫っていると、 針の糸が抜けてしまった。そこでその比丘は言った。誰か、福徳を愛して、私のために針に糸を通して下さいませんか。
 この時に、仏はそこへ行って比丘に話された。私は福徳を愛する者である。お前のために糸を通してあげよう。
 この比丘は、それが仏の声であることを知って、すぐに起きて衣を着け、仏の足を礼拝して仏に申し上げました。仏は福徳の功徳を既に満たしておられます、どうして更に福徳を愛すとおっしゃられるのですか。
 仏は比丘に答えた、私は功徳を既に満たしているけれども、深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知っている。今私がすべての衆生の中で、最も優れたものを得ることが出来たのは、この功徳のお蔭である。だから私は福徳を愛するのである。
 このように、仏はこの比丘のために功徳を讃えて、更に説法をされた。そこでこの比丘は、清らかな法の眼を得て、肉眼が再び明らかになったのである。」
 

《龍樹の話の続きで、話のストーリーは明解です。
「誰か福徳を愛して、我が為に袵針せん」が分かりにくい言い方ですが、『全訳注』が「誰ぞ、福徳を積まんがために、わたしのために針に糸を通してくれるものはないか」と訳していて、これなら分かりやすくなります。もっとも「福徳を積まんがために」は余計な言葉だとも言えますが。
 それで言えば、釈尊の「我は是れ福徳を愛する人なり」も、言わない方がいいようなことばで、ここは黙って、ああ、やってあげようと言った方がいいところで、こんなことをわざわざ言って手助けするというのは、なんともいただけないという気がしますが、それは近代インテリ的衒いでしょう。
 だとしても、目の不自由な人のために針に糸を通すなどということは、「仏」でなくても、また特に「福徳を愛する人」でなくても、誰でもがしそうなことで、「諸仏」も「供養」するのだという例として、なるほどと思わされるような話ではないように思います。
 結局、「今我一切衆生の中に於いて、最第一を得たるは、此の功徳に由れり、是の故に我愛するなり」という、仏が供養する理由を直接説明した言葉があるから取り上げられた、ということでしょうか。
 終わりの「法眼浄を得て、肉眼更に明らかなりき」も、普通なら、供養した側に功徳があるはずのところだと思いますが、逆になっていて、一体、このエピソードの主人公は、盲比丘なのか、釈尊なのか、…と思ってしまいます。
 あまりに小さな「福徳」で、こんなに大袈裟な話にしなくてもよさそうに思いますが、人のためにいいことをするということはなかなか難しいことで、こういうことでも大切にしなければならないとも言えます。
 そういえば、鉄腕アトムが生まれた時に、お茶の水博士から、「さあ、人のために役立つことをしておいで」と言われて空に飛びだしていったアトムが、飛び回りながら地上を見下ろして、「人のためになることを見つけるのは難しいなあ」とつぶやく場面がありました。》

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1 龍樹~2 

 龍樹祖師の曰く、
「復た次に、諸仏は法を恭敬(クギョウ)するが故に、法を供養し、法を以て師と為す。何を以ての故に、三世(サンゼ)の諸仏、皆諸法実相を以て師と為せばなり。
 問ふて曰く、何を以てか自ら身中の法を供養せずして、而も他法を供養するや。
 答へて曰く、世間の法に随へばなり。如し比丘、法宝(ホウボウ)を供養せんと欲せば、自ら身中の法を供養せずして、而も余の持法、知法、解法(ゲホウ)の者を供養すべし。仏も亦是の如し。身中に法有りと雖も、而も余仏の法を供養するなり。
 問ふて曰く、仏の如きは福徳を求めず、何を以ての故に供養するや。
 答へて曰く、仏無量阿僧祇劫中より、諸の功徳を修(シュ)して、常に諸善を行じたまへり。但だ報を求めずして、功徳を敬ふが故に、而も供養を作(ナ)すなり。
 

【現代語訳】
 龍樹祖師の言うことには、
また次に、諸仏は法を敬い尊ぶが故に、法を供養し、法を師としている。何故なら、三世(過去現在未来)の諸仏は皆、 諸法実相(あらゆるものは、そのまま真実の姿である。)を師としているからである。
 尋ねて言う、何故、自己の身中の法を供養せずに、他者の法を供養するのか。
 答えて言う、世間の作法に従うからである。もし比丘(出家)が、法の宝を供養しようと願うなら、自己の身中の法を供養せず、他の法を護持する人、法を知る人、法を理解する人を供養しなさい。仏もまた同様であり、自己の身中に法があっても、他の仏の法を供養するのである。
 尋ねて言う、福徳を円満しているのが仏ならば、福徳を求めることはないはずである。それでは、何故仏は供養をなさるのか。
 答えて言う、仏は無量の計り知れない長い時の中で、多くの功徳を修め、常に様々な善を行じてこられた。これは、ただただ報いを求めずに、功徳を敬って供養をされたのである。
 

《同じく龍樹の言葉で、次の節まで続きます。改めて八番目の引用とします。
 前節では、「仏果を求むるが如き」者(修行者でしょうか)は仏の供養をしなくてはならない、という話でしたが、ここでは「諸仏」もまた供養ということをするのだという話であり、その時供養するのは、仏ではなくて「法」であり、その「法」とは「諸法実相」なのだ、という話です。
 「諸法実相」は概念ないし認識であるわけで、それを「以て師と為」す、というのは、ちょっと戸惑いますが、それが指標となって自らを導いてくれた概念であり、また自ら到達した究極の認識であり、宇宙の真理、世界の摂理であるならば、その概念の前にぬかずくということもありそうな気もします。
 そう言った龍樹に(弟子が、でしょうか)興味ある問をします。なぜ、自分の中の「法」を供養しないで、他者の法を供養するのか、…。「諸仏」はすでにひとかどの「仏」であるでしょうから、当然「身中」に「法」があるだろう、それを「恭敬」すればいいのではないか、というような意味でしょうか。なにやら近代の個人尊重、個性尊重の考え方に似ているように思われます。
 それに対して龍樹の答えは「世間の法に随へばなり」というもので、ずいぶん下世話な感じです。
 あまりに馬鹿げた質問で、軽く受け流した答えのように見えますが、何か特別な意味があるのでしょうか。
 「諸法実相」は「身中の法」とか「他法」とかというべきものではなく、宇宙の真理であるはずで、我々はその中に包まれているのですから、「身中」のものを供養する、ありがたがるというのは、誤りだ、と考えてみるのですが、どうでしょうか。
 その後の問答は、見返りを求めずに、供養するのだという、例の話だと思われます。》


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四大五蘊因縁和合

 しるべし、今生(コンジョウ)の人身は、四大五蘊(シダイゴウン)因縁和合して、かりになせり、八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅(ショウメツ)してさらにとどまらず。
 いはんや一弾指のあいだに、六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があいだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊生滅すといへども、しらざるなり。
 あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること。この刹那生滅の量、ただ仏世尊ならびに舎利弗(シャリホツ)とのみしらせたまふ。余聖おほかれども、ひとりもしるところにあらざるなり。
 この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善悪の業をつくる。また刹那生滅の道理によりて、衆生発心得道す。
 

【現代語訳】
 知ることです。今生の人身は、四大(地水火風の四大元素)や五蘊(色受想行識の物質と精神作用)が因縁和合して、仮に姿を成しているものであり、八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦)が常にあります。ましてこの人身は刹那刹那に生滅して、決して止まることがありません。
 まして指をパチンと弾く間にも、六十五の刹那が生滅しているのですが、自ら自覚しないので、まだ知らないのです。また、およそ一昼夜の間には、六十四億九万九千九百八十の刹那があって、五蘊が生滅しているのですが、我々は知らないのです。
 悲しいことです。自分が生滅していながら、そのことを自ら知らないのですから。この刹那生滅の量は、ただ釈尊と舎利弗だけが知っておられます。ほかにも聖者は多数いますが、一人としてそれを知る者はいません。
 この刹那生滅の道理によって、人々は善悪の業を作り、また刹那生滅の道理によって、人々は発心して仏道を悟るのです。
 

《「刹那生滅の道理」のことは「発菩提心」巻第五章にありました。そこには「前刹那の悪、いまださらざれば、後刹那の善、いま現生すべからず」(1節)とあって、さらにわがこころにあらず、業にひかれて流転生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流転生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ発菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず」とありました(第五章4節)。
 そこから私は、禅師は、人間を、例えば主体性といった一貫したものを持つ一個の存在と考えるのではなく、肉体がものとして存在するのは確かだとしても、人間という生き物は、刹那ごとに変化してやまない、いわば現象なのだと考えているのではないか、ということを書きました。
 本当にそういうものなのかも知れない、と思います。
 今日の我は昨日の我ではない、とうと大変前向きな姿勢に思われますが、そういう意味ではなく、もっと不安定な頼りないあり方をしている、「
四大五蘊」は空の雲が離合集散するように揺れ動いていて、その「和合」の刹那ごとの仕方によって善悪も愛憎も、我人ともに明日どっちに転ぶか分からない、そういう存在なのではないか、という意味です。
 それに気付いたときに人は「発心得道」するのだ、…。



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