『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

八 第三問 坐禅の功徳

 おろかに千万誦(センマンジュ)の口業(クゴウ)をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越(エツ)にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔(エンク)に方木(ホウボク)をいれんとせんにおなじ。

(モン)をみながら修(シュ)するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声(クショウ)をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。

いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし。それ利貪(リトン)のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし。

 ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心(ミョウシン)の宗匠(シュウショウ)に、契心証会(カイシン ショウエ)の学人あひしたがうて正伝すれば、的旨(テキシ)あらはれて稟持(ボンジ)せらるるなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。

しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師(ショウシ)のをしへにより、坐禅辨道して諸仏自受用三昧を証得すべし。」

 

【現代語訳】

愚かにも千遍万遍とむやみに口に称えて、仏道に行き着こうとするのは、まさに牛車のながえを北に向けて、南の越の国へ行こうとするようなものであり、また円い穴に四角い木を入れようとするのと同じです。

経文を読んでいながら修行する方法を知らないことは、医者が薬の調合を忘れたようなもので、何の利益がありましょうか。絶え間なく口に唱えることは、春の田の蛙が昼夜に鳴いているようなもので、結局利益は無いのです。

まして深く名利に惑わされている者たちは、これらのことを捨てられません。それは名利を貪る心が甚だ深いからです。このような人は昔すでにいましたから、今の世にもいることでしょう。本当に哀れなことです。

ただ正にこのように知りなさい。過去の七仏の妙法は、道を得て心を明らめた宗匠の下に、本心に適い悟りを開いた修行者が付き随って正しく伝えるので、確かな宗旨が現れて伝授されるのです。これは経文の文字を学ぶ法師の知り及ぶところではありません。

ですから、坐禅に対するこのような疑いを止めて、正しい師の教えにより、坐禅修行して、諸仏の自受用三昧を悟りなさい。」

 

《ここの比喩は面白いのですが、内容に関わる比喩ではなくて、所感を強調しているだけですが、その分、禅師のいらだちさえ感じられる気がします。

 禅師が建仁寺を去った理由として古来第一に挙げられているのは、「建仁寺腐敗堕落説」のようですが、それについて『道は』によれば、「おそらく、道元は(建仁寺で)歯に衣着せずこの(「(禅は)上智下愚を論ぜず利人鈍者の差別もないすべての人びとに開かれた教え」だとする)純粋禅を標榜したと思われる。ところが、…そこではまだ道元一流の純粋禅が受け入れられる状況にはなかった」と言います。

 まだようやく二十代の終わり、「『入宋伝法沙門』としての自負の念の強かった道元」(同書)には、あるいはそういうことに対する苛立ちがあって、それがこういうところに出ているのかもしれません。

「いはんや」以下について、「これらのこと」は「読経念仏等」を指すのでしょうが、「名利に惑わされている者たち」は、どうしてそれを捨てられないのか、ということがよく分かりません。

『参究』が、読経念仏の姿を「殊勝らしく世間ていをつくろって、名声と利益とをはかっている」のだと言っているのは、彼らの読経念仏の姿は世間体にすぎないと解しているのでしょう。

真面目に読経念仏することでさえも間違った方向であるのに、名利を得んがために読経念仏によって世間体を取り繕おうとするなどとは許しがたい、という、禅師の憤り、苛立ちということでしょうか。

「七仏」は「釈尊から七代まえ」(『参究』)の仏祖のこと、そこで形作られた仏法は得道の師から、「その心に通じ仏法を会得した」(『注釈』)弟子へと正伝されるからこそ、その趣旨は明らかになって受け継がれているのであって、本を読んで分かるというようなものではないのだ、…。

 したがってあとはその正しい師の教えに従って、坐禅し、自受用三昧を悟るがよい、と答えを結びます。》

 又、読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。

、経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。

 

【現代語訳】

また読経や念仏などの勤めによって得られる功徳を、あなたは知っていますか。ただ舌を動かし声をあげることを仏事や功徳と思うのは、甚だはかないことです。これを仏法と考えるなら、仏法からますます遠ざかってしまいます。

また経典を学ぶことは、釈尊が様々な修行の規則について教えておられることを、明らかに知るためであり、その教えのように修行すれば、必ず悟りが得られるということです。いたずらに思量を費やして、悟りを得る功徳にしようというのではありません。

 

《何もしないで坐禅するよりも、読経念仏する方がいいのではないかという問いに対する答えが、この章の終わりまで続きます。

読経念仏を「ただ舌を動かし声をあげること」と言ったのは、「何もしないで坐禅する」と言われたのに対抗したわけで、議論としては、虚を突いたうまい切り返しで、ちょっと笑ってしまいます。

坐禅が何もしないでぼんやり坐っているのではないように、読経念仏も、ただ口を動かしているだけというわけではないことは、禅師も承知の上での話でしょう。そういう知的作業の方が得道に近いと考えるのが、誤りだと言います。

頓漸」は、「頓教と漸教である。頓教とは、速やかに証果を得る法門であり、漸教とは、修行をかさねて漸次に証果にいたる法門で…いずれにも、なすべき修行のさだめがある」(『全訳注』)のだそうで、ここで言う経書はそのさだめが書かれてあるもののことのようです。

ということは、つまり修行の具体的な作法が書かれているということで、そういうハウツーものは、ただ読んで知っておけばいいのであって、それを一生懸命に読んだり、そこに余計な思量を働かせたりする必要はない、ということでしょうか。

そういう言葉による理解ではない理解、悟りこそが大切なのだと言っているのでしょう。後に南嶽懐譲を「一知半解なくとも、無為の絶学」と讃えた(行持上第二十八章)のは、こういう考え方によると思われます。

2 

2 おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信(ショウシン)の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。

霊山になお退亦佳矣(タイヤクケイ)のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。

 

【現代語訳】

およそ諸仏の世界は不思議です。人の意識の及ぶ所ではありません。まして不信の者や智慧の劣る者は知ることが出来ないのです。仏法は、ただ正直な信心の大器のみ、入ることが出来るのです。不信の人は、たとえ教えても受け取ることは難しいでしょう。

釈尊が法華経を説かれた霊鷲山(リョウジュセン)の法会でさえ、不信の者は立ち去りました。およそ心に正直な信心が起きれば、修行して学びなさい。そうでなければ、暫く止めておきなさい。そして昔から法の潤いがなかったことを恨みなさい。

 

《「不信劣智のしることをえんや」と言われてしまっては、まことにもっともな話で、恐れ入るしかありません。

 何はともあれと坐禅をしているうちに信じる気持ちになってくる、というような甘いことを考えていてはだめで、まず信じること、そうして坐ること、であるようです。

 形から入る、というあり方もあるのではないかという気もしますが、それにしても、まずその形には何らかの意味があるのだろうと信じることが先なのでしょう。

 「退亦佳矣」は「退くもまた佳なり」です。信じないものは来なくてよい、信じて後、初めて修行せよ、信じられないのは、「法のうるほひ」を受けたことがないからなのであって、そのことを恨むしかないだろう、…。

思うのですが、人の苦悩は信じることができないことから起こるということもあって、何かを信じることができたら、すでにその苦悩の大方は片付いているような気もします。「鰯の頭も信心から」で、その鰯が仮に名利・恩愛であっても、それを信じている間は、彼はそれによって救われている、とも言えそうです。

しかしもちろんここではそういう考え方は否定されます。そういうものを信じても、いずれその救い(に見えたもの)は幻だったことに気づかざるを得ない、真正なものを信じよ、それが仏道であり、坐禅だ、その先に「心識のおよぶべきにあら」ぬ世界が広がっているのだ、と禅師は言っているようです。

納得のいくことでなければ信じない、というのが人間の知性・理性というものですから、やっかいなものです。しかしまた、逆に、納得がいったのなら、信じるも何もない、とも言えるわけで、どこかでそういう妙な循環を断ち切らねばならない、ということでしょうか。

ここにあるような説明を、『参究』にしても『講話』にしても、いかにもありがたそうに縷々語りますが、実は、この点こそが、もっとも詳細に語ってほしい点なのです、…。

 とふていはく、「あるいは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、読経念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。」

 しめしていはく、「なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗ずる人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし。

でにかたじけなく、諸仏 自受用三昧に安座せり。これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。

 

【現代語訳】

問う、「坐禅が正門であることは、如来(釈尊)が坐禅という妙術を正しく伝えたこと、又は祖師の坐禅された足跡を尋ねたことによるとしても、それは実に凡慮の及ぶところではない。しかし、読経や念仏は、自ずから悟りの因縁となるであろう。ただ何もしないで空しく坐していることが、なぜ悟りを得るよりどころとなるのか。」

答え、「あなたは今、諸仏の三昧、無上の大法である坐禅を、何もしないで空しく坐していると思っているようだが、これを大乗をそしる人と言うのです。惑いの甚だ深いこと、大海の中にいながら水が無いと言うようなものです。

坐禅は、かたじけないことに、既に諸仏の自受用三昧に安座している姿なのです。これは広大な功徳ではないでしょうか。哀れなことです、あなたの法の眼はまだ開けず、心がまだ惑いに酔っているのです。

 

《第三の質問ですが、これは第一の問いの背後にあったはずの疑問と言えるでしょう。

 第二の答えは一応納得するしかないことですから、それは分かったということにして、横に置いて、といった趣です。

 坐禅を通して得道した人が多いというのは、それはそれとして、他に「読経念仏」という道もあるのではないか、むしろ諸祖の教えに直接触れることになるのだから、それこそが本道なのではないか、…。ただ坐るだけで悟りを得られるというようなことがあるのだろうか。至極当然の疑問のように見えます。

それに対しては、坐禅は「何もしないで空しく坐している」のではないのだ、と言います。

坐って大変大きなことをしているのであって、それを何もしていないと見るのは、海の中にいて水がないと言うのと同じくらいに、何も見ていないことなのだ。では何をしているかというと、「自受用三昧に安座している」のであって、これは大変な坐禅の功徳ではないか、…。

 しかし、これはあまり分かりやすい説明ではないように思います。少なくとも親切な答えではありません。坐れば誰でもすぐに「自受用三昧」の境に入ることが出来るなら、問題ないのですが、それが出来ないからこういう質問が生じるわけです。それを「惑いに酔っている」のだと言われては、立つ瀬がないような気がします。

 もっとも「一人一時の坐禅」(第六章1節)でも、自受用三昧は成り立つということで、しかも当人には分からず、目を備えた師がそれを判別する(第五章2節)、というのですから、こういう質問は意味がないわけで、そうすると、ただ信じて黙って坐るしかないということになります。

 ただ、理屈を言えば、師が判別する必要があるということは、やはり坐っても三昧に入っていないこともある(いや、多分普通はその方が圧倒的に多い)ということになるわけで、その辺はどうか、と、私などはまた「惑いの中に酔」うことになります。

 そのことについては次の節のごとしです。》

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