『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

九 第四問 大乗諸宗との優劣について

 あるいは十二輪転、二十五有(ウ)の境界とおもひ、三乗五乗、有仏(ウブツ)無仏の見(ケン)、つくることなし。この知見をならうて、仏道修行の正道(ショウドウ)とおもふべからず。

しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下(ホウゲ)し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖(ボンショウ)のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(センテイ)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。」

 

【現代語訳】

ある人は十二因縁や二十五有を輪廻する世界と思い、また三乗や五乗の修行、仏あり、仏なし等の考えは尽きることがありません。このような見解を学ぶことが、仏道修行の正道と思ってはいけません。

しかし今は、まさに仏の悟りの法に従って万事を投げ捨て、ひたすらに坐禅する時には、迷いや悟り、思量分別の所を越えて、凡夫や聖人の道にたよらずに、速やかに出世間に逍遥して、大いなる悟りを使用するのです。これは経典の文字の方便にたよる者の、肩を並べるところではありません。」

 

《「十二輪転、二十五有の境界…、三乗五乗、有仏無仏」は、それぞれ仏教の教えの中の言葉ですが、ここでは「空華」の例です。十二輪転」は輪廻の姿、「二十五有」は人間が生きていく様々な世界、「三乗五乗」は人と仏の各段階、「有仏無仏」は仏についての考え方の段階と言うようですが、いずれにしても、こういういろいろな教えがあるが、そういう考え方を学ぶことが仏道の本道と考えてはならないのだ、と言っているわけです。

 「しかあるを」は、ここでは逆説のように訳されていますが、そのようである一方で、というように、並行する形で説かれていると考える方が解りやすそうです。

 そういうふうに「知見」を求めてはならない、その一方で、坐禅をすれば、「すみやかに格外に逍遙し」、つまりそういう「知見」の「規矩」(『全訳注』)の外に逃れ出てゆったりとできて、「大いなる悟り」を身に受けそこに遊ぶことができるのだと説きます。

 「筌罤」は、筌は魚をとるやなであり、罤はウサギをとるわなである。転じて、たんなる手段とか方便にすぎないものをいう」(同)のだそうで、文字の罠にかかっている者ということなのでしょう。

 ここまでが第四問へのこたえで、次の問に移ります。》

 

 又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過(シャカ)す。この知見によりて、空華(クウゲ)まちまちなり。

【現代語訳】

又知ることです、我々は元来、無上の悟りに欠けているわけではありません。永久にそれを使用しているのですが、会得することが出来ないために、気ままに考えを起こすことを習慣として、これをまことのものと追いかけることにより、大道を無駄に見過ごしてしまうのです。この考えによって、眼病の者が見る幻の花のように、人の見解は様々です。

 

《天台、真言の経典を学ぶことも坐禅同様に意味があるのではないかという問い(第九章1節)に対する答えの三点目です。

 ここは、私たちは生まれながらにして「無上菩提」(『参究』は「悉有は仏性だ」と言い、『全訳注』は「最高の智慧」と言います)を持っているのだから、何も経典に学ぶ必要はない、という立場からの話のようです。

 つまりそういう「無上の悟り」を本来持っているのだけれども、それに気づかないから、つまらぬ我流の考えを起こすという傾向が人間にはあって、その考えを実態だとして追い求めることによって、本筋を見失うのです。その結果、人びとはそれぞれにその「知見」の度合いによって、実態のない妄想を抱くのです、…。

 「物とおふ」は「物とおもふ」とする本もありますが、趣旨は同じでしょう。

 「空華」は「眼病患者が空中にちらちらと、なにか華のようなものが見えることをさす」(『参究』)もので、同書はここで「ありもしない自我という夢をどこからか拾ってきて、勝手に自他対立の世界をでっち上げ、そのでっち上げた世界のうえにおこす知識、見識だから、凡夫の知見はみな虚妄だ」と言います。

 「自我という夢」という言葉が、大変刺激的です。西欧において起こった近代は、「自我」の確立をこそ土台にして、その発展を見て来たのでしたが、ここにはそれに真っ向から対立する思考スタイルがあるようです。

 私はこの頃、日本人は、結局、西欧民主主義とか個人主義とかというものを理解できないで終わったのではないかという気がしています。そしてそれは、それが個人の自我の確率を基礎とするものであるのに対して、日本人の血の中に、自我とは「空華」だ、取るに足らないものだという感覚があって、根本的に異質なものであるからではないか、と考えています。

民主主義は、あたかも人類普遍の価値であるかのごとく思われています(特に日本人には)が、実は所詮、西欧という特定の風土のものに過ぎない、という感じがあります。

政治と思想は分けて考えなければならないにしても、東南アジアや中近東など世界で起こった民主主義政治を求めた戦いが、いったんは成功したように見えながら、多く、すぐに新たな強権的政治に収斂してしまうのも、それぞれの国で似たような事情があるのではないでしょうか。》

 しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。
 いま直証(ジキショウ)菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人(ドウニン)とならしめんとなり。
 また、仏法を伝授することは、かならず証契(ショウカイ)の人をその宗師(シュウシ)とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲(シュモウ)をひかんがごとし。
 いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地(シンチ)を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。」

 

【現代語訳】
 ですから、即心即仏(心こそ仏にほかならない)という言葉は水面に映る月のようなものです。即坐成仏(坐ることそのものが成仏である)という教えは、更に鏡の中の姿なのです。言葉の上手に寄りかかってはいけません。
 今、直ちに悟りを証する修行を勧めるに当たって、仏や祖師方が相伝した坐禅の妙道を示して、真実の道人となっていただこうと思うのです。
 又、仏法の伝授には、必ず悟りを証された人をその師としなさい。経の文字を数える学者は、その導師とするに足りません。それは一人の盲人が多くの盲人を引き連れるようなものだからです。
 今、仏祖の正しい伝統の門下では、皆、悟りを得て悟りを証された優れた師を敬って、仏法を護持しています。そのために、冥界や陽界の鬼神もやって来て帰依し、悟れる羅漢も来て法を尋ねるのに対して、各々の心を明らかにする手だてを授けることが出来るのです。このことは、ほかの宗門では聞かれないことです。もっぱら、仏弟子は仏法を学びなさい。」
 

《だから、法の教えは何によらず水中の月、鏡の中の姿のようなもので、実物ではなく、いわば「一種の観念」(『講話』)なのであって、そういう言葉の美しさに関わってはならないのだと教えます。
 教え自体を頼ってはならないとなれば、あとは「ふとした時」の「一瞬ひらめき」(前節)をいかに捕らえるか、そういう機会をいかに多く持つか、ということが課題となるわけで、修行とはその機会に他ならないと考えることができます。
 そこでその「修行の真偽」(前節)が問題であって、「直証菩提の修行」、「直接に自己本来の面目を覚るところの修行」(『参究』)として、「仏祖単伝の妙道」すなわち坐禅ということを進めるのだ、ということのようです。
 「また」というのは、「言葉」に頼ってはならないし、また、ということでしょう。当然ながら、師とするのも、「学者」ではなくて、「悟りを証された人」でなければならない、と言います。
 これまでの「仏祖正伝統の門下」の人びとは、皆そうしてきたのだし、そこには「冥界や陽界の鬼神もやって来て帰依し、悟れる羅漢も来て法を尋ねる」のだと言います。これについては『参究』が、伝えられているらしい例を挙げています。》

2 答え

 しめしていはく、「しるべし、仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて仏道に流入(ルニュウ)することありき、土石沙礫(ドシャク シャリャク)をにぎりて仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪又 一塵にをさまれり。

【現代語訳】

教えて言う、「知ることです。仏家では、教えの優劣を議論せず、法の深浅を選ぶことはありませんが、但し修行の真偽を知りなさい。過去には草花や山水に引かれて仏道に入った人があり、土石砂礫を握って仏の悟りを受け継いだ人もあります。まして経典の広大な文字は、森羅万象の中に有り余って更に豊かであり、仏の大説法は、また塵一つの中にも収まっているのです。

 

《冒頭の答えは新鮮で、かつ明解です。「教えの優劣」や「法の深浅」は問わず、「修行の真偽」を問うのだ、というのが、「答えの要点」だ、と『参究』が言います。

 真言でも天台でも禅でも構わない、そういう法の教えではなくて、「草華山水」、「土石沙礫」に導かれて仏道に入った人さえあるのだから。

言葉で説く教えに意味があるのではなく、要はそこでどういう修行をするか、当人がその修行から何かをつかむことができるか、何をつかむか、が大切なのだ、ということのようです。

 「いはんや広大の文字は…」は、大自然の中に仏法を語る豊かな言葉があり、そこでは一粒の塵にも大説法が蔵されている、ということでしょう。

なるほど、そう言われれば、仏道に限らず、人が何かを覚るのは、直接そのことを言葉で教えられて覚ることよりも、ふとした時に一瞬ひらめきを感じるということが多いような気もします。

 例えば、言葉で無常を説かれるよりも、川の流れを見ていて急に無常を感じることがあるように、また、諄々と諭されるよりも、一発殴られたときに相手の優しさを感じることがあるように、です。

 考えてみれば、真言や天台の教えも、もともとはそのようにして覚られたものを後に体系づけたものなのでしょう。

もちろん言葉による教えも決して無駄なものではなく、それはいわば旅する上での地図、あるいは観光パンフレットのようなもので、それは誘いともなり、道案内、行った先のイメージ映像ではありうるのですが、しかし、結局のところは実際にそこに行ってみなければ、分かりません。もちろん行ってみても、見るべきものを見たという実感はなかなか得られませんが、たまたま日の光の差し具合や風の音に触発されて、ふと胸にしみるものを感じるときがあります。

 そのように、万象の中にその教えの根本はあるのであり、万象はありあまる文字(言葉)を蔵しているわけで、「塵一つ」が大説法を説くこともあるわけです。》

 

1 問

 とふていはく、「いまわが朝(チョウ)につたはれるところの法華宗、華厳教、ともに大乗の究竟(クキョウ)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来(ビルシャナニョライ)したしく金剛薩埵(コンゴウサッタ)につたえへて、師資みだりならず。
 その談ずるむね、即心是仏、是心作仏(サブツ)といふて、多劫(タゴウ)の修行をふることなく、一座に五仏の正覚(ショウガク)をとなふ、仏法の極妙(ゴクミョウ)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」

 

【現代語訳】

問うて言う、「今、我が国に伝わる法華宗や華厳宗は、共に大乗の教えの究極です。まして真言宗の教えは、毘盧遮那仏が親しく金剛菩薩に伝えたもので、師も弟子も正当なものです。

その説いている教えは、即心是仏(この心がそのまま仏である)、是心作仏(この心こそがそのまま仏である)と言って、多年の修行を経ることなく、即座に五仏(大日、阿閦、宝生、弥陀、不空成就)の悟りを得るといいます。これは仏法の中で最も優れたものと言うべきです。それなのに、今言うところの坐禅の修行は、何の優れたことがあって、それらを差し置いて、ひたすら勧めるのですか。」

 

《第四の問いです。

 前節の答えでは一部の堕落した僧たちを従来の仏徒の代表として取り上げて批判しているような言い方だったのですが、それだけではフェアではありませんから、ここで最も優れているとされる教えを挙げて坐禅の教えと対決させようという試みです。

 法華宗は天台宗のことですが、それと華厳教を並べておいて、「いはんや真言宗のごときは」といっているのは、当時、高野山真言宗が比叡山天台宗よりも一段上と考えられていたことを示すのでしょうか。逆の感じでちょっと意外な気がします。

 ともあれ、その真言宗の教えは「即座に五仏の悟りを得る」というもののようです。

『参究』が真言宗の「三密相応、即身成仏」について、「身に大日如来の印を結び、口に大日如来の真言を唱え、心に大日如来を念ずれば、即座にそれが大日如来である」ということと言います。

同書が言うように、この「辨道話」にも「もし人が、ひと時であっても三業(身と口と心の行い)に仏心印を示して、三昧に坐禅する時には、全世界が皆仏心印となり、あらゆる世界は悉く悟りとなる」とあった(四の3)わけで、これは大変よく似ています。

どう違うのでしょうか、というまことにもっともな問いです。》

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ