『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十四 問十 精神の永遠  

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 このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海(ショウカイ)にいる。性海に朝宗(チョウソウ)するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。
 いまはたとひしるといへども、前世の妄業(モウゴウ)になされたる身体なるがゆゑに、諸聖(ショショウ)とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。
 しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。」
 

【現代語訳】
 この道理を知る者は、今までの生死流転が長く絶えて、この身が終わる時には、本性の海に入る。その本性の海に集まる時には、諸仏如来のように優れた功徳がまさに具わるのである。
 今は、たとえこれを知ったとしても、前世の妄業によって変えられた身体なので、聖人たちと同じではない。まだこの道理を知らない者は、長く生死を巡るであろう。
 このようであるから、急いで心の本性の常住である道理を知りなさい。空しく坐禅して一生を過ごして、何の得るところがあろうかと。この言葉の道理は、実に仏や祖師方の道に叶っているであろうか。」

 

《「性海」は「性とは存在の本質である。そのありようを海にたとえて性海という」(『全訳注』)のだそうです。
 また、朝宗は「『朝』は春に、『宗』は夏に天子に謁見する意」(コトバンク)で、そこから「多くの河川がみな海に流れ入ること」の意味になるようで、ここはその意味です。
 先のように考えて生死の惑いを離れれば、死んだときに「本性の海」(『注釈』によれば「仏性の海」、つまり悟りの世界というようなことでしょうか)に入れるという考えかたがあると言います。

 そこまでは一応分かる気がしますが、その後が不思議な考え方で、現世に生きている間に生死の惑いを離れても、身が汚れているのでそういう「仏性の海」に入ることは出来ず、死後を待つしかないが、そのとき、そのことに気がついていなければ、永遠に生死の惑いの中に生きるしかないのだ、というふうに考えるようで、何か、保険を掛けておく、といった趣があります。仏法にはなじまないような気がしますが、具体的にそういう考えをする教えがあるのでしょう。いろいろなことを考える人があるものです。
 そういうわけで、死ぬまでに生死の惑いを離れておかなければ、永遠に、来世においてもその惑いの中に居続けることになるから、「心の本性の常住である道理」に一刻も早く目覚めなければならない、坐禅などして時間を浪費していてはならないのだという人がいるが、それについてはどう考えるのですか。これが第十の問いです。
 『参究』は「この問いも解説するにはおよぶまい。このような見解を『心常相滅の邪見』というのである」と語気強く一蹴します。
 この問答について、『道は』は「本覚思想批判」と呼んでいました(第七章)。が、ともかくも禅師の答えを見てみましょう。》

1 問い

 とうていはく、「あるがいはく、生死(ショウジ)をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性(シンショウ)の常住なることわりをしるなり。
 そのむねたらく、この身体は、すでに生(ショウ)あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼(シシショウヒ)さだまりなし。心はこれ常住なり、去来(コライ)現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。

 

【現代語訳】

問うて言う、「ある人が言うには、生死流転を嘆くことはない。生死流転を離れるのに大層早い方法がある。いわゆる、心の本性は変わることなく常に存在するという道理を知ることだと。
 その道理とは、この身体は、まさしく生まれれば必ず滅して行くものであるが、この心の本性はまったく滅しない。この生滅に動かされない心の本性が、我が身にあることを知れば、これを自分の本来の性とするので、身は仮の姿であり、ここに死して彼の所に生まれるという決まりはない。心は常に存在していて、過去 未来 現在に変わることはない。このように知ることを、生死流転を離れたと言うのである。

 

《第十の問いで、この章全部をかけての長い質問です。

テーマは肉体の有限と精神の永遠ということのようで、根本的というか、基礎的というか、あるいは青臭いというか、ともかくも、いくらかでもものを考えるような若者で、この問題を一度も考えなかったという人はないのじゃないかと思われる問題ではあります。

肉体は有限だが、「心性」(「不変の心体、つまり、心の本質とでもいうべきもの」・『全訳注』)は不滅なのであって、人間の本質はそちらにあると考えれば、どこで滅び、どこに生まれるか分からない肉体は、問題にするに足りない、そのことに気がつくことを、生死を離れ、惑いから離れたというのである、…。

死此生彼さだまりなし」は「この世界に死んで次の世界に生まれる」(『講話』)ことを言うようです。生まれ変わったときに、犬であるか猫であるか、あるいはまた首尾よく(?)人間であるか、それは分からないままだが、「心」は変わらないで、受け継がれる、というようなことを考えているようです。

ところで、「むねたらく」というのはどういう言葉なのでしょうか。

「問ひたらく」などのように動詞に「たらく」が付くことはあります。これはもとは「問ひ・たる・あく」(アクは『所』とか『事』という意味の名詞とみられる・(『辞典』)で、「たるあく」が詰まったものでしょう。

ここの「むね」は名詞「旨」だと思われますが、それに準じたものでしょうか。

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