『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十六 続き 身心一如

2 生死はすなはち涅槃

2 しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
 いはんや心は身をはなれて常住なりと領解(リョウゲ)するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計(モウケ)すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。
 嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄(コモウ)になりぬべし。又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや。
 

【現代語訳】
 それだけでなく、生死流転はつまり涅槃(煩悩の滅)であると悟ることです。いまだ生死流転の他に涅槃(煩悩の滅)を説くことはないのです。
 まして、心は身を離れて常住であると理解することが、生死流転を離れた仏の智慧であると妄りに考えても、この理解し知覚する心は、依然として生滅して全く常住ではありません。これでは頼りにならないではありませんか。
 よく観察しなさい、身と心は一如である、という主旨は、仏法が常に説いていることです。それなのに、なぜこの身が生滅する時に、心だけが身を離れて生滅しないのでしょうか。もし一如の時があり、一如でない時もあれば、仏の説は自ずから虚妄になるでしょう。又、生死流転は除くべき法だと思うならば、仏法を厭う罪になります。慎まなければいけません。
  

《「身滅心常」などと身と心を区別してはならないというだけではなく、そもそも「生死」自体が涅槃なのだ、と強調します。ここの生死は、人生というような意味でしょう。死も含めて生きているその人の人生そのものが涅槃なのだ、という考え方は、身と心は一つなのだという考え方から自然に出てくる考え方だと言えます。
  涅槃の世界は、生きている私たちのすぐ横にあって、私たちがその入り口のノブに気がつきさえすれば、そこはドラえもんの「どこでもドア」のように、直ちにその場で開いてくれて私たちは涅槃の世界にいることになる、そういうイメージでしょうか。幸せの「青い鳥」は、実はさすらいの果てに帰ってきたチルチルとミチルの家の中にいたのです。
 それなのに、現実の身を離れたところに心だけの幸せの世界を求めたりしても、その心自体がまた「生滅」するのだから、それはなんとも「頼りにならない」話ではないですか、…。
 次の「嘗観すべし」を、『全訳注』は前段の終わりに付けています。確かに、この前後のどちらが「嘗観」にふさわしいかと読み直すと、前の方がいいような気がします。
さて そこで、そもそも体と心が一如であるというのは、どういうことなのかと考えてみます。普通には、体調によって心持ちのありようが違ってくる、気持ちの持ちようで、体調も変わってくる、気分がよければ食事も進むし、体に心配なところがなければ考えることも前向きになってくる、そういうことはあるでしょうが、それではあまりに現世的で、せいぜい医学の範囲の話であるように思われます。
 『講話』が次のところから考えるのがよいと言いますから、先に進みます。》

 ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはん。しるべし、仏法には、もとより身心(シンジン)一如にして、性相不二(ショウソウフニ)なりと談ずる、西天東地(サイテントウチ)おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。
 いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理(ショウリ)にそむかざらんや。
 

【現代語訳】
 黙ってはいられないので、今、 更に哀れみを垂れて、あなたの悪しき考えを救いましょう。知ることです、仏法では、元来 身と心は一つのもので、本性と身相とは二つではないと説くことは、インドや中国でも同様に知られていることであり、あえて疑うことではありません。
 まして常住を説く教えでは、すべてのものが皆常住であり、身と心とを分けることはありません。また寂滅を説く教えでは、あらゆるものが皆寂滅であり、本性と身相とを分けることはありません。それなのにどうして、身は滅するが心は常住である、と言うのですか。正しい法理に背いていないでしょうか。
 

《「いまなほあはれみをたれてなんぢが邪見をすくはん」とは、ずいぶん高飛車で身構えた、ちょっと嫌みな言い方です。
 禅師を論難しようとしてふっかけられたバトルなら、またあるいは、ことさら異を唱える生意気な言い方でもあったのなら、こういう言い方も理解できますが、ここは、禅師自身が自説を述べるための想定問答なのですから、架空の相手に対してあまりにも勢い込んだ感じで、いささか違和感があります。
 禅師がいかに使命感に燃えていたか、ということと同時に、三十二歳(『道は』の年譜による)という若さと気負いがある、ということなのでしょうか。
 さて、それはともあれ、「心常相滅」の考えが「瓦礫」(前節)である所以がここで説かれます。

 仏法では、元来、「身心一如」「性相不二」と教えるのだ、というのが、その理由です。
 なんだ、それをここで語ろうというための問いの設定だったのか、と思いますが、それにしても、二つの要素を挙げてどちらが大切か、という議論に対して、いや、その二つは同じものなのだというのは大変柔軟な捉え方で、この時代にそういうふうにものごとが考えられたというのは、私としてはちょっと驚きで、当時としては斬新な考え方だったのではなかろうかという気がします。
 『全訳注』が、「常住を談ずる門」は「『三世実有、法体恆有』と説く有部の教説を指しているのであろう」と言い、「寂滅(「普通の場合、、梵語の涅槃の訳語として用いられるが、ここではただ『生滅』という言葉のかわりに用いられている」・『参究』)を談ずる門」は「たとえば、『般若経』のごとく空無を説く諸門を指しているのであろうか」と言っていて、仏教にはそういう二つの教説があるようです。
 しかし、だからといって、「身」と「心」を別々にして、一方は「常住」で、一方は「寂滅」だなどと考えてはならない、常住ならどちらも常住であり、寂滅ならどちらも寂滅なのだ、と言います。ダブルスタンダードは論理的でないというわけです。
 途中、「いはんや」という語が、うまく前からつながらない気がします。この語の使い方は、しばしば、現代語の感覚とはどこか大きく違っているのではないかという気がします。ここでは、『参究』が「さらに一段と深いところからの仏法の精神をお示しになる」と言います。内容的に見れば、「それに」というような言葉が適当ではないかと思うのですが、…。》

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