『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十七 続き 総相

3 総体としての世界

 しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。」
 
【現代語訳】

 それなのに、この一つの法に於いて、身と心とを区別し、生死流転と煩悩の滅とを分けることがありましょうか。
 我々は、すでに仏弟子なのですから、外道の見解を語る狂人の話を聞いてはいけません。」
 

《初めの「この一法に」は、以上述べてきたような身心一如という教えがあるのに、ということでしょうか。
 たとえば一匹の犬は身と心を分けることはできず、その個体全体で一個の存在として他との関わりの中に生きているのであって、それは人間も同じである、となれば、生きているこの目の前の現実(「生死」)が全てであって、魂が風に乗ってそこらあたりを飛び回っているなどという、別の世界などあろう筈もないだろう、…。
 『講話』が六祖(慧能)風幡というエピソードを挙げています。「(僧たちが)風にはためいている旗について議論をしている。あれはいったい風が動いているのか、旗が動いているのか、…旗は目に見える具体的事物、風はそういう事物を支配している目に見えない力ということですね、…六祖が『風が動くのでもない、旗が動くのでもない、あなた方の心が動くのではないか』と言ったのでみんなはショックを受けた」。
 何によって旗が動いているのか、それはただの「説明」に過ぎない、そこには、風が吹いており、旗がはためいているという事実があるだけだ、私たちには、現にいま生きているという事実があるだけだ、ということのようです。
 サイト「禅的哲学」がそのことを大変分かりやすく語ってくれています。
 いわく、天動説にしろ地動説にしろ、慧能大師に言わせれば、頭の中で天や地を動かしているだけであるということなのである。実際はどうかと言うと「見た通り」なのだ。朝は東の山の端から昇る朝日に手を合わせ、そして西の海に沈む夕日に感じ入る。それこそが世界の実相であり、平常底に生きるということなのだ。天動説や地動説をバカにしているわけではない。もちろん科学者はそういうことに徹底的にこだわるべきなのだが、世界の実相というものはそこにはないということを、わきまえねばならないということなのである、…。
 身と心を分けて考えるのも、一つの考え方ではあるが、それは「考え方」に過ぎず、実実相は、総体としての一個の世界があるだけなのだ、ということのようです。》

2 平等一心

 菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法 万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり、あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。

【現代語訳】
 仏の悟り、煩悩の滅に至るまで、心の本性でないものはありません。すべてのものごと、あらゆるものは、皆ただこの一心であって、その中に含まれないもの、兼ねないものはないのです。このすべての教えが、「皆、平等の一心であって、少しも異なることはない」と説いているのは、仏家が心の本性を理解している様子なのです。
 

《ここは、前節の「全世界を含めて、本性と形相とを分けることなく」ということについて言っているようです。
 『参究』が、ここの「一心」は、「一心と書いてあるけれども、一が大切だ。…一心とは『宇宙は一つなり』ということだ。…全宇宙は、…ただこれ因縁因果の法則という大自然の姿に外ならない、…(全宇宙のそれぞれのものが)みなことごとく心性でないものはない…、」と言い、『講話』がその続きを言うように、「身心一如というときの身や心は、一切諸法・森羅万象の中に含まれている。…その辺の松も家も風も雨も一心だということです」と言います。
 そこに「家」という人間が造ったものが含まれているのが意外で、普通は、生きとし生けるもの、いくら広くても少なくとも初めから自然の中にあるものを考えるところだと思います。家も、いったんでき上がってしまえば、生き物と同じく、それ自体として存在たり得るということなのでしょう。
 そういう全ての存在(一人の人間を初めとして、犬も猫も、木も草も、それこそ「その辺の松も家も風も雨も」)が、それぞれ一つずつで平等に自立して存在しており、そのことを「一心なり」と言っているようです。
 『参究』の言う「因縁因果」というのは、そのように存在するものたちが、相互に関わりを持つことによって、この世界が一つのものとして構成され存在している、ということではないかと考えてみます。
 そういうふうに考えることを指して、仏家では、「心性をしれる」と言うのである、…。

1 二つは一つ

 しるべし、仏法に心性(シンショウ)大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相(ショウソウ)をわかず、生滅をいふことなし。

【現代語訳】

知ることです、仏法にある心性大総相(心の本性は、あらゆるものを包み込んだ平等の一心である)の教えというのは、全世界を含めて、本性と形相とを分けることなく、生滅をいうこともないということです。
 

《ちょっと意味の分からない文章ですので、逐語的に見ていきます。
 「総相」は「一切のことに通じる相の意」(『全訳注』)だそうで、つまり総合的な相(姿)というようなことでしょうか。それに「大」がついて、より広く、「全体的な相」の意のようです。『大乗起信論』という書の中に「心・真如はすなわちこれ一法界の大総相の法門の体」(原文は漢文)とあることを受けていて、それは「心とか真如とかいうことは、…この存在の世界の全てに通ずるものを説いているのだとする」と『全訳注』が言っています。
 そこで、私流に言い換えてみますと、仏法でも「心」という言葉を使うけれども、その場合は、この世界の一切の存在の本性のことをまとめて言っているのであって、決して目に見える姿形(相)とは別の、そのものの内面にある本質というようなことを言っているのではないし、したがってそのどちらかが滅びどちらかが生き残るというようなことがあるものではない、…というようなことになると思うのですが、どうなのでしょうか。
 二つのもの・ことが一つである、というそのあり方はさまざまです。
 たとえば権利と義務は一つのことの裏表だと言えるでしょう。それは人間のあり方の二面性を別々に現しています。
 また、水素と酸素という二つの場合は、結合すると、水というまったく別の一つのものになりますが、しかし、それはまたもとの水素と酸素に返すこともできます。
 ところがまた、絵の具の黄色と青を混ぜ合わせるとまったく別の緑になりますが、通常それはもとの黄色と青に返すことはできません。
 ここでは、精神と肉体は、その絵の具のように新たな「人」という一つのものを作り出していて、それを心と呼ぶ、それをまた二つに仕分けしてはならない、というようなことではないかと思われます。
 ここは一応そういうことにして、さらに先に進んでみます。》

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