『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十八 第十一、十二,十三問

3 問十三 男女

 とうていはく、「この行は、在俗の男女(ナンニョ)もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。」
 しめしていはく、「祖師のいはく、仏法を会(エ)すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。」

 
【現代語訳】
 問うて言う、「この坐禅の行は、在家の男女も励むことが出来ますか、それとも出家の人だけが修行するものですか。」
 教えて言う、「祖師は、仏法を会得することに、男女や貴賤を選んではならないと説いています。」
 

《第十三の問答です。現代では考えられないような問いですが、実際、かつては(いや、実は現代でも)、女性差別はおそらくどの民族の中にもあった(ある)ことで、考えてみると不思議なことです。しかも、古代においては、女性が優位であったことも珍しいことではないにもかかわらず、です。
 夫婦という家庭内の関係においては、二人しかいないのですから、事によって誰かが主導的に決定していかなくてはならないこともあり、それはどちらかと言えば男性が担当することになることが多い、というのはありそうなことですが、一般社会では、男性的女性、女性的男性を含めて人は多いのですから、そこに男女差が生まれるというのは考えにくい気がします。
 ちなみにサイト「永井俊哉ドットコム・男社会はいかにして成立したのか」は、人間が自然を統治できるようになったときから、男性優位社会に移っていったと言っています。
 しかし、男性優位になったからといって、役割分担ができるのは当然としても、それが身分差別にまでなり、女性が男性より下位と見なされ、様々な権利が失われ、男性以上に束縛を受けることになるというのは、やはりどこかで、おかしな、しかし大きなステップを越えたのだっただろうと思います。
 ここのような問答がしかつめらしくなされている光景を想像ずると、何か大変滑稽な気がします。》

 

2 第十二問 兼修

 とうていはく、「この坐禅をつとめん人、さらに真言止観の行をかね修せん、さまたげあるべからずや。」
 しめしていはく、「在唐のとき、宗師(シュウシ)に真訣をききしちなみに、西天東地の古今に、仏印を正伝せし諸祖、いづれもいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。まことに、一事をこととせざれば一智に達することなし。」
 

【現代語訳】
 問うて言う、「この坐禅に励む人が、さらに真言宗の行や天台宗の止観を兼ねて修行しても、妨げはないでしょうか。」
 教えて言う、「私が中国にいた時に、宗門の師に修行の秘訣を尋ねたところ、古今のインドや中国に於いて、仏の悟りを正しく伝えた祖師たちが、そのような行を兼ねて修行したという話は聞いていないと教えられました。実に一事に専念しなければ、一つの智慧には達しないのです。」
 

《第十二の問答です。
 実は、これを読むに当たって脇に置いている『講話』の中には、天台真言の話はもとより、キリスト教、ギリシャ哲学から実存哲学までの西洋哲学に至る蘊蓄が、至る所で語られていて、その造詣の深さ広さに圧倒され、この講話を聞いている人たちは、それに付いて行けている人たちなのだろうと思って、まったく我が身を恥じ入っています。
 「哲学」を学ぶには、そういう素養が必要なのでしょう。
 しかし、ここは禅を宗教としてというか、道と考えて、我が身を修めようと門をたたく人のための話ですから、そのためには一筋の道を歩めという教えになるのでしょう。
 『徒然草』百八十八段に、法師を志した若者が将来名をなしたときに必要となるだろうと乗馬を習い、また座興の一つもできなくてはなるまいと芸事を習っているうちに、そちらに力が入って「説経ならふべきひまなくて、年よりにけり」という話があります。

「真言止観」は、坐禅の道から見て、このエピソードの話ほどに外れてはいないのでしょうが、やはり道は一筋に求めていかなくてはならないのでしょう。信じて従う対象は、妙に他に保険を掛けておいたりせずに、一本道でなくてはならない、ということでしょうか。》

1 第十一問 破戒者と坐禅 

 とうていはく、「この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄(ゴンジョウ)すべしや。」
 しめしていはく、「持戒梵行(ボンギョウ)は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。」
 

【現代語訳】
 問うて言う、「この坐禅を専一に修行する人は、必ず戒律を厳守するべきでしょうか。」
 教えて言う、「戒を保つ清浄行は禅門の規律であり、仏、祖師の家風です。しかし、まだ戒を受けていない者や戒を破った者は修行することが出来ない、という訳ではありません。」
  

《第十一の問いです。「必ず戒律を厳守するべき」か、とは、一見あまりにも当然なことで、どうしてこういう問いを考えたのだろうかと思うような問いですが、答えはそうではありませんでした。
 教えの主眼は、後段の「いまだ戒を受けず」以下にあるでしょう。『参究』が「これは戒をかろく見るのではなくて、坐禅をおもく見るのである。…坐禅を精出して実行すると、品行も自然におさまってくる。悪心も自然にうすらいでくる」と言います。
 そううまくいくかどうかは分かりませんが、坐禅が特別な人にだけ意義があると考えるのは、確かにちょっと変ですし、逆に「戒律を厳守する」ことが本当にできる人なら、坐禅を組まなくてもよさそうな気もします。
 至らない人こそが坐禅をする意味があるのであって、だから、一日参禅会などということがあって、一般の人が軽い思いつきででも参加することができるわけです。
 それにしても、「戒をやぶれるもの、その分なきにあらず」とは、「先尼外道」に対してはあれほど激しく、ほとんど罵りとも言えるような厳しい言葉で否定する禅師にしては、大変な寛容さだという気がします。
 誤った道を正しい道と思い誤って進む者にはあくまでも厳しく、何も知らないままに道の外にいる者には寛容、というのは、いかにもプロの指導者という感じです。》

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