こころざすもの、かならず心地(シンチ)を開明することおほし。これ世務の仏法をさまたげざる、おのづからしられたり。
国家に真実の仏法弘通(グツウ)すれば、諸仏諸天ひまなく衛護するがゆゑに、王化太平なり。聖化太平なれば、仏法そのちからをうるものなり。
又、釈尊の在世には、逆人邪見みちをえき。祖師の会下(エカ)には、獦者(リョウシャ)、樵翁(ショウオウ)さとりをひらく。いはんやそのほかの人をや。ただ正師(ショウシ)の教道をたづぬべし。
【現代語訳】
そして志す者は、必ず心の本性を解明することが多いのです。このことで、世俗の務めは仏法を妨げないことが、自然と知られます。
国家に真実の仏法が広まれば、すべての仏や天神たちが絶え間なく護ってくださるので、国王の治世は太平なのです。聖帝の治世が太平であれば、仏法はその力を得るものなのです。
又、釈尊の世に在りし時には、悪逆非道の者が改心して仏道を悟りました。祖師の門下では、猟師や樵(キコリ)が悟りを開きました。ましてその他の人はいうまでもありません。ですから、ひたすらに正法の師の教導を尋ねることです。
《そういう国家中枢の多忙の人でさえも道を得ることができるのだ、そのようにして国に仏法が広まれば、国は安泰になり、またそうなれば、逆に仏法もさらに力を得ることになるのだ、…。
さらに釈尊の時代には悪逆非道の者でも、また漁師木樵でも可能だった、身分の高下にかかわらず、また知無知にも関わらない、と言います。
もともとの問は、「在俗の繁務」で仏道を務めるのが難しい人はどうすればいいか、というものでしたから、ちょっと本題から外れたように見えますが、いかに多忙の人でも、また「逆人邪見」の人でも、教養のない人でも、ただただ志を持つことだけが大切なのだということのようです。
その志とは、「ただ正法の師の教導をたづぬべし」というものです。
正しい教えを求めようという気持ちさえしっかりしておれば、後はおのずと道が開けていく、と禅師の考えは、この点に関してはかなり楽観的に見えます。》