とうていはく、「この行は、いま末代悪世にも、修行せば証をうべしや。」
 しめしていはく、「教家(キョウケ)に名相(ミョウソウ)をこととせるに、なほ大乗実教には、正像(ショウゾウ)末法をわくことなし、修すればみな得道すといふ。
 いはんやこの単伝の正法には、入法(ニッポウ)出身、おなじく自家(ジケ)の財珍を受用するなり。証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし。」
 

【現代語訳】
 と
うて言う、「この坐禅の行は、今の末代の悪世でも、修行すれば悟りを得られるでしょうか。」
 教えて言う、「経典を拠り所とする教家では、教えの名目や法相をもっぱら重んじていますが、大乗真実の教えでは、依然として正法、像法、末法と時代を分けることはありません。修行すれば、皆悟りを得ることが出来るというのです。
 まして、この正しく相伝した正法は、法に入って解脱を得るのに、皆同じく自己の財宝を使用するのです。悟りを得たか否かは、修行する者が自然に知ることであり、それは、水を使う人が冷暖を自ら知るようなものです。」
 

《第十五の問いです。質問の意図が分かりにくいのですが、「いま」という言葉が大切で、現在の末法の世でも、という意味のようです。
 末法というのは、サイト「世界史の窓」によれば、「中国で生まれた仏教の観念。釈迦の教えが行われなくなる時代が到来すると認識し、極楽浄土への往生を希求する浄土思想」から出たもので、「大乗仏教には歴史観として、未来を含めて歴史を三段階で分ける考えがあった。正法五百年、像法千年、末法万年といい、正法は仏陀の死後五百年でその教えが正しく実行されている時代、次の像法千年は教えは守られているが、それを実行し悟りを開くことが困難な時代(像とは似ているという意味)であり、末法は仏陀の教えが行われなくなる時代であるという」とあります。
 そういう、修証の「困難な時代」をすでに過ぎて末法の代になってしまった平安末期のこの今の時代でも、修証はかなうのだろうかという問いで、かなり切実です。
 答えの方に行きますと、「名相」は「ここでは名目、法相である。名目とは法門の名称であり、法相とはその理論」(『全訳注』)、「大乗実教」は、いろいろな解釈があるようですが、ここでは「コトバンク」の「実大乗」のことで、それは「真実の大乗の教えの意。 一切の成仏を説く教え。主に天台宗・華厳宗が、…法相宗・三論宗などに対して、自分の教説をいう」という解説を採るのが分かりやすそうです。禅もそれに含まれるということで説かれているのでしょう。
 というよりも、「いはんや」とありますから、中でもこの「単伝正法」である禅は、と強調しています。
 「入法出身」は「法に従って法の中に入っていく、修行していく、そして法から出る」(『講話』)、そのいずれの場合も「自分の持っているたからを、自分でつかうのだ。仏祖から鼻糞一つも与えてもらうものはない」(『参究』)、ということは、「仏陀の教えが正しく行われなくなる」というような外的条件は関係がない、いや、そもそも「正・像・末法」という時代分けを考えないのであって、どういう時代でも、修証ということは、常に自分自身の問題なのだ、という意味のようです。
 これは大変重要な指摘、主張であるように思われます。何か、力強く、嬉しい気がします。》