『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

二十四 第十八問 日本人の得道

3

 しかはあれども、仏法に証入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。
 仏在世にも、てまりによりて四果を証し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし、正信(ショウシン)のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。
 また、癡老の比丘黙坐せしをみて、設斎の信女(シンニョ)さとりをひらきし、これ智によらず、文(モン)によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
 

【現代語訳】
 しかしながら仏法を悟ることは、必ずしも人の世間的智慧をもって解脱の舟とするわけではありません。
 釈尊が世に在りし時にも、手まりで頭を打たれて四果の悟りを得た人や、戯れに袈裟を着けた縁で大道を明らかにした人がいましたが、皆、暗愚な者、狂痴な者でした。しかしながら正しい信心に助けられて、迷いを離れる道を得たのです。
 又、説法を請われた愚かな老僧が黙って坐っているのを見て、供養を設けた女性が悟りを開きました。これは智慧によるものでも、経文によるものでも、言葉を聞いたからでも、話を聞いたからでもありませんでした。ただ正しい信心に助けられたのです。
 

《なるほど我が国は文化の遅れた国ではあるけれど、そもそも仏法というものは、「人間界や天上界の才智を要するものではない」(『参究』)。
 「てまり」の話は『雑宝蔵経』にある話だそうです(同)。『参究』によって紹介しますと、ある熱心な求道者が、凡僧を大阿羅漢尊者だと誤解して、「私にも四果阿羅漢果(小乗仏教で、修行によって得られる悟りの位を四段階に分けたもの・コトバンク)を悟らせて下さい」と頼んだら、凡僧はその人を面壁させて背中に手まりをぶつけ、これが初果だと言った、是非第二果を、というので、またぶつけた、それを四回やったところ、その求道者が悟りを開いたと言い出した、で、釈迦のところに行って本当だろうかと尋ねると、「ただ自らの信ずる力であるぞ」と答えられた、という話です。
 「袈裟」の話は、「正法眼蔵・袈裟功徳巻」にある話ですので、そちらに譲ります。
 「癡老の比丘」の話は「正法眼蔵啓迪(けいてき)」という書物にあると『参究』が紹介しています。それによると、信心深い老婆が老凡僧を招いたのだったが、その僧はごちそうになっただけで、蒙昧のために説法の時になって何も言えず、赤くなって黙り込んでしまった、すると老婆は、「是法不可示、言辞相寂滅、言語同断心行所滅」こそ真の正法なのだと、悟りを得た、という話だそうです。
 このように、才智はいらないのだから、日本人でも大丈夫なのだ、ただ「正しい信心」さえあれば、…。》

2 答え

 しめしていはく、「いふがごとし。わがくにの人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となるぬべし。名利にはおもむきやすく、惑執とらけがたし。

【現代語訳】
 教えて言う、「あなたの言うとおりです。我が国の人は、まだ情けや智慧が行き渡らず、人の心はねじけています。たとえ正しい法を教えても、甘露はかえって毒となることでしょう。名利には向かいやすく、迷執からは離れ難いのです。
 

《こんなに簡単にそのとおりだと言ってしまわれても困るという気がしますが、しかたがありません。
 それにしても、「仁智あまねからず」はまだいいとして、「人また迂曲なり」というのは、平安文化のどこにそれがあるのか、と思います。
 『講話』は、「北条執権が暴威をふるい、皇室の御稜威も甚だ微弱な状態になっていた」ことを嘆いての言葉だとしていますし、あるいは延暦寺、建仁寺の僧たちの堕落を言っているとも考えられますが、ここの言い方からは、そういう社会の一部の問題とするよりも、全体的な文化や生活の水準の低さを嘆いていると理解する方がいいように思われます。
 あの華麗な平安文化も、禅師の目には、せいぜい大陸文化の亜流くらいにしか見えていなかったのでしょうか。
 あるいは、それはそれで一つの文化であるとしても、それはまったく、わずか千人ほどで構成された貴族社会内部だけのものであって、禅師の目は、より多く、それとはまったく関わりのないところで日々を生きていた、たとえば光源氏と夕顔の逢瀬の早朝の場面に隣室でぼそぼそと対話する人々のような、庶民の方に向いており、いたということでしょうか。
 禅師のように純一な生き方をした人から見れば、あるいは普通の人々の生き方はここに語られるように見えるのかも知れません。
 以前、将棋の田中寅彦九段が、素人のおじさんたちが集まってわいわいガヤガヤ将棋を指して遊んでいるのを見て、将棋にはこんな楽しみ方もあるのかと驚いた、という話をしていました。そこで指される一手々々は彼から見ればあり得ない手であり、また振る舞いもしばしばあり得ないマナーであったことでしょうし、さらに、そういう意味不明の手を指しながら、それに一喜一憂している姿は、幼時から真剣に一筋にその道に打ち込んできた彼には、到底理解不能なものだったことでしょう。
 もちろん宋国でも庶民はそういう人たちだったのですが、禅師がかの国で接したのは、選りすぐりのエリートたちだけだったでしょうから、そこが高貴な国に見えるのも無理ありません。》

1 問

 とうていはく、「西天(サイテン)および神丹国は、人もとより質直(シツジキ)なり。中華のしからしむるによりて、仏法を教化(キョウケ)するに、いとはやく会入(エニュウ)す。我朝は、むかしより人に仁智すくなくして、正種(ショウシュ)つもりがたし。番夷のしからしむる、うらみざらんや。
 又このくにの出家人は、大国の在家人にもおとれり。挙世(コセ)おろかにして、心量狭小なり。ふかく有為(ウイ)の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禅すといふとも、たちまちに仏法を証得せんや。」
  

【現代語訳】
 問うて言う、「インドと中国は、人間がもともと質実正直です。世界の中心いうことで、仏法を教化するにしても、すぐに会得します。しかし、我が国は、昔から人に情けや智慧が少なく、正法の種子の広がりにくい所です。遠地の未開人のためであり、残念なことです。
 又、この国の出家人は、大国の在家人よりも劣っています。世を挙げて皆愚かで心は狭小です。深く世間の功利に執して、うわべの善を好んでいます。このような者たちが仮に坐禅したとしても、すぐに仏法を悟るものでしょうか。」
 

《第十八、最後の問答です。
 当時の日本人が中国インドをどのように見ていたかということがよく分かります。明治の人が西欧、英独仏を見るような気持ちだったでしょう。ただ、明治の人は、和魂洋才、魂、精神においては負けていないと思えたのでしたが、ここでは、「質直」、「仁智」、「挙世おろか」、「心量狭小」と、その精神面でも性格面でも劣っていると考えざるを得ない状況だったようです。
 明治の人が、おそらく武士道と江戸文化という独自の精神をバックボーンとして持ちながら西欧に向き合うことができたのに対して、平安末の人にとっての平安文化のほとんどは、その洗練ぶりにもかかわらず、根本においてまだ中国の模倣の域を出ないと考えざるを得なかったかったということなのでしょうか。
 これはもちろん禅師が自ら設定した問いなのですから、禅師自身、このように感じていた、ということなのでしょう。禅師の見た当時の南宋は、北方に台頭した金と一線を画して「漢文化の伝統を持ちながら、さらに高度な経済力を成長させ、(文化国家として)繁栄」(サイト「世界史の窓」)したようですから、一般的な大陸観以上に、禅師にとっては一種理想的な国情と見えたのではないでしょうか。インドについての禅師の知識がどれほど正確なものであったかは、保証の限りではないようです。
 インドにおける仏教については、「1203年、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教国ゴール朝の軍隊によってヴィクラマシー僧院、ナーランダー僧院が破壊され、インドにおける仏教の繁栄は終わった」(同)とされるようで、このことを知れば、禅師の評価は、必ずしもそのままではなかったのではないかと思われます。
 それにしても、私たちの現代中国に対する感覚とのあまりに大きな懸隔に、その間に一体何が変わったのだろうという感慨を覚えます。》

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ