また釈教の三千界にひろまること、わづかに二千余年の前後なり。刹土のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず、人またかならずしも利智聡明のみあらんや。
 しかあれども、如来の正法、もとより不思議の大功徳力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。
 わが朝は、仁智のくににあらず、人に知解(チゲ)おろかなりとして、仏法を会(エ)すべからずとおもふことなかれ。いはんや人みな般若の正種(ショウシュ)ゆたかなり。ただ承当することまれに、受用することいまだしきならし。
 

【現代語訳】
 また釈尊の教えが全世界に広まったのは、わずかに二千余年前後の間です。その国土はさまざまで、必ずしも情けや智慧のある国ばかりではなく、人も又必ずしも理智聡明の者ばかりではありません。
 しかしながら、如来の正法は、もともと不思議な大功徳力を備えていて、時至ればその国土に広まるのです。また人は、まさに正しい信心を起こして修行すれば、賢い人も愚かな人も区別なく、等しく悟りを得るのです。
 我が国は、情けや智慧のある国ではありませんが、人の理解力が劣っていて仏法を理解できないと思ってはいけません。まして人は皆、悟りの智慧の種子を豊かに持っているのです。ただそれを会得することが稀なので、それを使用することがまだ出来ないだけなのです。
 

《「わづかに二千年」とは驚きですが、インドの思考はそのようにすべからく悠久なのです。三千世界に仏法が広まるのにはそのくらいのスパンで考えなければならない、そのくらい世界は広いと考えるのでしょう。そういう広い世界では、これまで仏法が出会った国も人も様々なのであって、そうそう優れた国、人ばかりではなかった。それでも仏法は立派に広まってきて、そこでは人びとはインド中国の人々と同じように、ちゃんと「得道」してきたのです、…。
 初めの「また」は、先に仏法の理解が必ずしも「仁智」には関わらないといことを説明してきた(前章)のに対して、ここでは土地柄がさまざまなのだから、広く浸透するのには時間がかかることを承知して、急ぐ必要はなく、希望を持って当たればよいということを説こうとしているのでしょう。
 以上のようなわけだから、我が国にこの正法を広めることについて心配することはない、「まして人は、悟りの智慧の種子を豊かに持っている」のだから、だれでも悟りに至らないということはないのだというのですが、さらりと言われた「般若の正種豊かなり」は大きなことで、元来人は皆仏法に向かおうとする種を持っているのだというのは、いわば性善説であって、仏法の基本的立場であるようです。
 仏教は、除夜の鐘の百八の煩悩の話など、どちらかと言えば人の持つ業(ごう)について語ることが多く、人間性の否定的な把握が基本かのように思われますが、「本来本法性」ともあるように、元来性善説で、そういう意味では楽観的であるようです。
 ただそれをきちんと「承当」(「引き受けて学ぶ」・『注釈』)しないから、なかなか自分のものとすることが少ないに過ぎないのだ、と、禅師の強調するひたすらに修し証することの大切さを改めて語って、すべての問答の結びとします。》