『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

現成公案

4 風性常住、無処不周

 麻谷山(マヨクザン)宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性(フウショウ)常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。」
 師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず。」と。
 僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理。」ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧礼拝(ライハイ)す。
 仏法の証験、正伝(ショウデン)の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。
 風性は常住なるがゆゑに、仏家(ブッケ)の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(チョウガ)の蘇酪を参熟せり。
 

正法眼蔵 現成公案
 

 これは、天福元年中秋のころ、かきて鎮西(チンゼイ)の俗弟子 楊光秀(ヨウコウシュウ)にあたふ。
 建長 壬 子(ミズノエ ネ)拾勒(シュウロク)
 

【現代語訳】
 麻谷山宝徹禅師が扇を使っていると、僧が来て尋ねました。
「風の性は変わることなく常にあり、すべて行き渡らない所は無いとされています。それなのに、なぜ和尚様は扇を使っておられるのですか。」
 師は答えました。「おまえはただ、風の性は変わらず常にあることを知ってはいても、まだ、すべてに行き渡っているという道理を知らないな。」と。
 僧は尋ねました。「それでは、風の性がすべてに行き渡っている道理とは、どういうことでしょうか。」
 その時に師は、何も言わずに扇を使っているだけでした。そこで僧は師を礼拝しました。
 仏法の証拠、仏祖の正しい伝統の活路とは、このようなものです。風の性は常にあるので、扇を使うことはない、扇を使わない時にも風を感じるはずである、というのは、風の性が常にあることも知らず、また風の性をも知らないのです。
 風の性は変わることなく常にあるので、仏家の風は大地を黄金にかえ、大河の乳水を醍醐味に熟させるのです。
 

 正法眼蔵 現成公案
 

 これは、天福元年(西暦1233年)中秋(陰暦八月)の頃に書いて、九州の俗弟子、楊光秀に与えたものである。
 建長四年(西暦1252年)に収録す。
 

《最後は実に楽しいエピソードで結ばれます。
 僧の質問は、風はどこでも吹いているものなのに、どうして扇を使う必要があるのか、ということです。
 『参究』は「『風性』は、風の譬えをもって仏性を示す」と言いますが、この場合、初めはもうちょっと気軽な場面を考えたい気がします。
 和尚が暑さにうだって扇を使っているのを見かけた弟子が、普段頭の上がらない師に、ちょっとやんちゃ心を出して、真面目くさって、おやおやお師匠、日頃「風性常住、無処不周」とお教えを受けておりますのに、今日はことさら扇を使って風をお立てになっているのはどうしたことですか、と問いかけた、といったところでしょうか。
 そこで師は、お前は「風性常住」ということは分かっているようだが、まだ「無処不周」ということが分かっておらんようじゃ、と応じたわけです。
 「風性」というのがどういうことを指すのか諸注語ってくれませんが、言葉通り、風の持つ性質だとして、「風性常住」は、空気は風の性質を備えてその辺り一帯のどこにもある、という意味かと思われます。
 そこで弟子が、それなら「無処不周」はどういう意味なのですかと尋ねると、和尚は、黙って扇で煽いで見せたのでした。風になるもの(空気)は風になる性質を持ってどこにでもあるが、こうして煽いでやらねば風という性質は発揮されないのだよ。
 そこで弟子は、師匠が仏性のことを言っているのだと気がついて、「礼拝」したというわけです。

「証験」はわかりにくい言葉のようで、ここでは証拠と訳されていますが、『釋意』は「體驗的に識る(という)意味」と言い、『参究』は「明らかに示され」ることとします。いずれにしても、仏法が仏法として理解され、示されている、というような意味だと思われます。
 また「正伝の活路」は「正伝の仏法がいきいきと活く道筋」(『参究』)で、初めの一文をまとめると、仏法が確かに存在し、そしてそれが正しく伝わり、生きていることを、宝徹禅師が明らかに示したのだ、ということ意味のようです。
 「風性は常住なるがゆゑに」という句は、大変微妙な言葉です。前の「風」は、文字通りの風のことですが、ここは「かぜ」とともに「ふう」(「ならい、ならわし、すがた、風教」・『広辞苑』)を指すことになっている、と考える必要があるようです。
 そこで「仏家の風」は、それを起こして吹かせてやれば、人々に大きな恵みをもたらすことになるだろう、と禅師はいいます。
 魚が泳いで初めて水は水になる、鳥が飛んで空は初めて空になる、魚は水の中にいて初めて魚であり、鳥は空を飛んで初めて鳥になる、水、空、鳥、魚という固定的事実があるのではない、人は人としての言動があって初めて人であり、仏性があるなら、何もしないでも悟りに至るはずだなどと考えてはならない、それは常住ということの意味を分かっていないのだし、仏性も分かっていないのだ…。
 そう口に出して言わないで、黙って(多分、弟子の顔をじっと見ながら)ただ扇を使ったというのが楽しく、察した弟子もなかなかです。
 ちなみにこの節について『参究』が「この最終節は名文である」として、「高い禅体験は、美しい大自然に感応し、その一つ一つの事物とひとつになることであるから、高い境涯に達した禅者が、美しい名文を書くことができるようになるのは自然であろう」と言います。
 また『風景開眼』を思い出し、かの画家の絵を思い出します。

 次は、「即心是仏」巻を読んでみます。》
 

「現成公案」巻おわり

3 何必

 得処(トクショ)かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有(ミツウ)かならずしも見成(ゲンジョウ)にあらず。見成これ何必(カヒツ)なり。
 

【現代語訳】
 ですから、会得したことが必ず自己の見識となって、心に知られるものと思ってはいけません。究極の悟りは速やかに成就するのですが、その親密な悟りは必ずしも現れるものではありません。それは現れなくてもよいのです。
 

《『参究』が、初めに単語の意味を列挙しています。それによると、「慮知」は人間の理性的認識能力、「証究」は、修し証する実践、「密有」は親密にして秘密の本証、「何必」は、「何ぞ必ずしも…ならん」で、それではない、つまり言葉では表し得ない真実絶対の事実、という意味のようです。
 さてそこで、前節に続けて、悟りを得たと言っても、ではそれで何が解ったのかということが自分で理解できるわけではない、と言います。
 何事でも本当の名人は自分を名人と思わず、まだまだと思っている、という話と同じように思えます。
 あるいは、究極の技術の先にある、名人自身にも曰く言いがたい、その道の「コツ」のようなものでしょうか。
 ただ、名人の場合は、結局は、常人には見えないものが見えてくる、ということなのでしょうが、悟りということの場合は、魚は水とともに、鳥は空とともに「爾かある」状態で充足しているように、人もまたその充足の中にあって、悟りの意識を持たず、したがって自らそれに気づかない、というようなことでしょうか。
 「証究すみやかに現成す」以下については、『哲学』が、「仏道の真理は現成する。現成する真理は、現成した限りにおいて現前しているが、真理そのものは不特定である。『何必』とはそれである」と言って、「否定神学というものがあって、究極の真理はただ否定語を以て現すよりほかはないと云」う、と結びます。
 先に、「一花開きて、天下春」を挙げました(1節)が、その花が開く前は、「冬」だったのではなくて、春ではない何ものかだった、というような考え方ではないか、と思ってみます。そういうものを把握することを悟りという、と考えているのではないか、…。》

 これにところあり、みち通達(ツウダツ)せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(グウジン)と同生(ドウショウ)し同参するゆゑにしかあるなり。
 

【現代語訳】
 ここに仏道の場所があり、この道に熟達することによって知られる道の辺りを、自ら知ることがないのは、この知るという行為が、仏法の究極(今この時)と同時に生じ、同時に係り合っているからなのです。
 

《長い一文で、ちょっと戸惑いますが、「しらるるきはのしるからざる(知られる道の辺りを、自ら知ることがない)」「ゆゑ」を説いているようです。
 初めの「これ」は前節の「得一法通一法、遇一行修一行」を指すと考えられます。「ところ」「みち」は先にあった「万物を爾かあらしめる道理」であり、またその「法位」(前章4節)です。
 「得一法通一法、遇一行修一行」したところに見える風景は、実は「自ら知ることがない」のだと言います。
 先に「さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし」(第三章5節)とありましたが、それに符合する話です。
 なぜそういうことになるかというと、究極に到達したとき、その当人もその「究極」の世界の中にいるのであって、彼にとっては、それは究極ではなく日常であるからだ、ということではなかろうかと思います。「大きな石の顔」のアーネスト(第一章7節)は、まさしくそういう地点に立っていると言えそうです。
 ただそうすると、例えば香厳撃竹の話などのように、ある一瞬に悟りを得たという逸話がいくつもあって、そうすると、その前後では明らかな違いが当人自身に意識されるのではないが、それは「しらるる」ということにはならないのか、という疑問が湧きます。
 が、それは、必ず師にそのことを伝えて諮問を受け、師から認可を受ける必要がある、というのが禅師の考えですから、やはり自分では「しるるきはのしるからざる」ということなのでしょう。
 もっとも、私が先に挙げた『風景開眼』((第三章5節)は、画家自身の覚醒の自覚を語っていました。そのへんは、画家と禅家の違いということでしょうか。
 ここの初めの所、「みち通達せるによりて」の解釈は二様あるようで、一つはここにあるように、「しらるる」を説明しているとする読み方で、『哲学』もそう解します。
 もう一つは上の「これにところあり」と対になって「しるからざる」の根拠となっているとする(『参究』)読み方です。この場合、「仏法の活(はたら)きと道の活きがこれ(得一法通一法…)に活いているのだから」と解することになるようです(『全訳注』もこの解のように思われます)。》

1 得一法通一法

 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法(トクイッポウ)通一法(ツウ イッポウ)なり、遇一行(グウイチギョウ)修一行(シュイチギョウ)なり。
 

【現代語訳】
 このようにして、人がもし仏道を修行し悟るならば、一つの物事に会えばそのことに心を注ぎ、一つのなすべきことに会えばそのことを専一に行うのです。
 

《ここの後半は対句で、一つのことを言っているようです。
 「ただ今現在を一途に思いを込めて生きる」(前節)とは、具体的には日常的な何かをすることで、「家族のために料理を作る一行為であったり、論文を書くことであったりする」(『参究』)のですが、「この一行を仏法の活き(はたらき)と一つになって行ずるとき」(同)、つまり「一途に」行うとき、そのことについて明るくなる、そこを通して万法に至る、ということになるということのようです。
 同書はここで「有名な禅語『一花開きて天下春』は『得一法通一法』の具体例であると言ってよいであろう」と言います。
 私事ですが、大変懐かしい言葉で、私は唐木先生の講義でこの言葉を知りました。「春になって花が開くのではない、花が開いて春になるのだ、」という話を、私は目の覚める思いで聞いたものです。世界はレールの上を進んでいるのではない、一切は動的で、混沌の中を手探りで進んでいるのだ、…。
 もっとも、ここの場合は、『哲学』が、「多くの注解は、一法を得ることは法全体を得ることであると解する。そう解してよい場合もあるが、ここは一から全体へ直ちに飛躍するのは適当ではあるまい」として、「得坐禅、通作仏」、「一つの通路から、一つの根源へ導」く言葉だと解していてます。
 「通一法」という言い方には、その解の方が近いような気がして、ここの訳し方がよいように思われます。》

 

5 水と魚は自他の関係にはない

 このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

【現代語訳】
 この道、この所は、大きくもなく小さくもなく、自己でもなく他者でもなく、前からあるものでもなく、今現れたものでもない為に、このようにあるのです。
 

《「みち」「ところ」は、前節にあったそれで、つまり「万物を爾かあらしめる道理」であり、またその「法位」(『哲学』)であろうと思われますが、もちろん現成した仏法の真理というようなものが、目に見える形で存在することなど考えられるはずもありませんから、それが「大小を以て現されるものでもなく、自他の区別を以て云い得るものでもな」い(同)というのは、あまりに当然なことに思われて、何のための説明かと、かえって解りにくい気がします。
 あるいは、大小、自他、前後は、それぞれ水と魚、空と鳥を言うのでしょうか。
 水の方が大きいから、水があってその後の魚がいるのではない、水と魚は自他の関係にはない、二つで一つなのだ、もちろん魚が先にいて水があるということはない、そうではなくて、「かくのごとくある」のだ、…。
 さてその「かくのごとくある」、とは、どういうことか。無論、前節の「以水為命」「以魚為命」であるのですが、それを『哲学』は「現成であり、而今である」と言い、『釋意』は「如實な相である。卽ち『如是』である」と言います。
 『哲学』が、「万物各々その所を得るが故に万物たり得る。所は究極において法位であり、万物法位においてあるが故に万法である。…それ自身は観念でありながら、それを一つの事実として直観しているところに、わたくしは道元の本領があると推測する」と言います。
 禅師には、先のような、魚と水、鳥と空のあり方が、ただの譬えではなくて、現実の光景として見えていた、ということのようです。そういう光景を同書は「原事実」と呼び、その直観があるから、「その(禅師の)表現は詩的に昇華される」と言います。
 それは修証を行ずることによって見えてくる情景なのでしょうが、卑近な言い方で言えば、ただ今現在を一途に思いを込めて生きる中でも見えてくるのではないでしょうか。
 それは、私には、あの「大きな石の顔」のアアネスト(第一章7節)のあり方に近似するように思えます。》

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