修行の力量、おのづから国土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯すべきなり、かれに瞌睡(カッスイ)することなかれ。
愚人(グニン)これをよろこぶ、たとへば癡犬(チケン)の枯骨をねぶるがごとし。賢聖(ケンショウ)これをいとふ、たとへば世人の糞穢(フンネ)をおづるににたり。
おほよそ初心の情量は、仏道をはからふことあたはず、測量(シキリョウ)すといへども、あたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟(クキョウ)に究尽(グウジン)なきにあらず。
【現代語訳】
また仏道修行の力によって、仏法が自然に国土に広まったり、世の中が一見仏法に叶うようになる場合があります。そのような時には、更にそれを弁えるべきです。それに油断して居眠りしてはいけません。
愚かな人は、これを喜ぶのです。例えば、愚かな犬が干からびた骨を喜んでなめるようなものです。賢人聖人はこれらの事を嫌うのです。例えば、世の人が糞便を恐れるようなものです。
およそ初心の人の思慮分別では、仏道を推し量ることは出来ません。推し量っても当たらないものです。しかし、初心の人に推し量れなくても、修行を究めた人に、究め尽くすことが無い訳ではありません。
《ここも、世間の評価や他人の褒貶に目を向けてはならないという話ですが、それは翻って、あくまでも自分の初心をしっかりと保って、それだけを指針にしなさいということのようです。
初めは純粋に道を求めていても、ある程度周囲に認められていくと、これでいいのではないかという気がしてくる、というのは、人間の甘さというか弱さというか、ついつい湧いてくる気持ちでしょう。
もっとも、最初が不純なスタートだという場合もありそうで、第十章2節でそれに触れて、そうしているうちに正師に会うことがあればよいのだということでした。しかし、正師に会うには、正師を求める心がなければならないでしょうから、どこかで自分の中で本筋に入ることが必要だと思われます。そうならなかったのが、少林寺の達磨における二人の僧(十二章1節)だということになりそうで、そういう人もいるわけです。
そもそも、仏道の深いところは、「初心」の人に容易に到達することができるはずはないもので、自分でそうだと思っても、当たっていない。「修行」の人は、ちょっとした到達感に満足することなく、本来自分が求めようとしたものが何であるかを常に忘れずに励めば、初めは解らなかったことでも、「究め尽くすことが無い訳ではありません」。
あくまでも、自分が本来求めるべきものを見失うな、という教えであるように思われます。》