大潙いはく、「縁より入る者は、永く退失せじ。」すなはち許可するなり。
いづれの入者(ニッシャ)か従縁せざらん、いづれの入者か退失あらん、ひとり勤(ゴン)をいふにあらず。
つひに大潙に嗣法す。山色の清浄身(ショウジョウシン)にあらざらん、いかでか恁麼(インモ)ならん。
【現代語訳】
これを見て大潙の言うことには、
「縁によって仏道に入る者は、永く退くことがない。」と。大潙は即座に悟道を許可しました。
仏道に入った者で、誰か縁によらない者がいるでしょうか。仏道に入った者で、誰が退くというのでしょうか。これは志勤禅師一人のことを言っているのではありません。
こうして霊雲は、遂に大潙の法を継ぎました。山色が仏の清浄身でなければ、どうしてこのように霊雲が悟ることがありましょうか。
《さて、志勤も、香厳と同じように大潙和尚に偈を送りました。この人は潙山霊祐という和尚で、「法嗣に仰山を得て潙仰宗を創めた。法弟に大安なるものがいて、同じく潙山と称した。よって彼を大潙という」(『全訳注』)のだそうです。
「縁より入る者は、…」がよく分かりません。訳は、諸注ともに、ここにあるのとほぼ同じです。『提唱』は「『縁』というのは…周りの情景ということ」と言い、ここではそういうことでしょうが、「縁」による以外に、どういう入り方を想定しているのでしょうか。
人や書物に誘われて入るのも「縁」と言えるでしょう(「いづれの入者か従縁せざらん」はそれを言うのではないでしょうか)が、ここで大潙は志勤の場合(香厳もそうですが)のように、突然霊感を得たような特別な場合だけを限って「縁」と言ったのかもしれません。
それにしても、「いづれの入者か退失あらん」ということなら、大潙はつまらぬことを言ったものだということになりそうす。それなら彼の言葉は省略して、ただ「すなはち許可するなり」だけでよさそうなものですが、…。
また別の疑問があります。「いづれの入者か退失あらん」というのですが、悟道者も弁道修証を怠ってはならないという禅師の教えがあって(「辨道話」第十二章)、それは、そうしなければ「退失」することになってしまうからだと考えられ、そうだとすると、この言葉はどういうふうに考えればよいのか、…。
「恁麼(インモ)」というのは変な言葉ですが、「このような(に)」「そのような(に)」という意味の中国の俗語」(コトバンク)だそうです。
ともあれ、以上三人の例によって悟道の瞬間の消息が語られてきたわけで、これは何度も例に挙げますが、『風景開眼』(東山魁夷著)の語るこの画家の「開眼」の消息もこれらに酷似しているように思われます。》