『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

六 霊雲志勤

2 

 大潙いはく、「縁より入る者は、永く退失せじ。」すなはち許可するなり。
 いづれの入者(ニッシャ)か従縁せざらん、いづれの入者か退失あらん、ひとり勤(ゴン)をいふにあらず。
 つひに大潙に嗣法す。山色の清浄身(ショウジョウシン)にあらざらん、いかでか恁麼(インモ)ならん。
 

【現代語訳】
 これを見て大潙の言うことには、
「縁によって仏道に入る者は、永く退くことがない。」と。大潙は即座に悟道を許可しました。
仏道に入った者で、誰か縁によらない者がいるでしょうか。仏道に入った者で、誰が退くというのでしょうか。これは志勤禅師一人のことを言っているのではありません。
 こうして霊雲は、遂に大潙の法を継ぎました。山色が仏の清浄身でなければ、どうしてこのように霊雲が悟ることがありましょうか。
 

《さて、志勤も、香厳と同じように大潙和尚に偈を送りました。この人は潙山霊祐という和尚で、「法嗣に仰山を得て潙仰宗を創めた。法弟に大安なるものがいて、同じく潙山と称した。よって彼を大潙という」(『全訳注』)のだそうです。
 「縁より入る者は、…」がよく分かりません。訳は、諸注ともに、ここにあるのとほぼ同じです。『提唱』は「『縁』というのは…周りの情景ということ」と言い、ここではそういうことでしょうが、「縁」による以外に、どういう入り方を想定しているのでしょうか。
 人や書物に誘われて入るのも「縁」と言えるでしょう(「いづれの入者か従縁せざらん」はそれを言うのではないでしょうか)が、ここで大潙は志勤の場合(香厳もそうですが)のように、突然霊感を得たような特別な場合だけを限って「縁」と言ったのかもしれません。
 それにしても、「いづれの入者か退失あらん」ということなら、大潙はつまらぬことを言ったものだということになりそうす。それなら彼の言葉は省略して、ただ「すなはち許可するなり」だけでよさそうなものですが、…。
 また別の疑問があります。「いづれの入者か退失あらん」というのですが、悟道者も弁道修証を怠ってはならないという禅師の教えがあって(「辨道話」第十二章)、それは、そうしなければ「退失」することになってしまうからだと考えられ、そうだとすると、この言葉はどういうふうに考えればよいのか、…。
 「恁麼(インモ)」というのは変な言葉ですが、「このような(に)」「そのような(に)」という意味の中国の俗語」(コトバンク)だそうです。
 ともあれ、以上三人の例によって悟道の瞬間の消息が語られてきたわけで、これは何度も例に挙げますが、『風景開眼』(東山魁夷著)の語るこの画家の「開眼」の消息もこれらに酷似しているように思われます。》

1 偈

 又霊雲志勤(シゴン)禅師は、三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見(モウケン)す。ときに春なり、桃華のさかりなるをみて、忽然(コツネン)として悟道す。
 偈をつくりて大潙に呈するにいはく、
 「三十年来 尋剣の客、
  幾回(イクタビ)か葉落ち又 枝を抽(ヌキ)んづる。
  一たび桃華を見てより後、
  直(ジキ)に如今(イマ)に至るまで更に疑はず。」
 

【現代語訳】
 また霊雲志勤禅師は、三十年仏道に精進しました。ある日 行脚に出かけ、山すそに休息して遠くの人里を望みました。季節は春であり、桃の花が満開に咲いているのを見て、たちまち悟道しました。
 そこで詩を作って 大潙禅師に送りました。
 「私は三十年来、川に落とした剣を船べりで探す愚かな人間であった。
  その間、桃の木はいくたび葉を落とし 枝を伸ばしてきたのであろうか。
  一たび桃の花を見てから後は、
  今日に至るまで、全く疑うことはない。」
 

《こちらは満開の桃の花を見て「悟道」した人のエピソードです。
 「尋剣の客」のここの解釈は、「舟に刻して剣を求む」の故事(『呂氏春秋』)を踏まえてのことかと思われ、『哲学』『注釈』もこの解釈です。
 つまり、自分の三十年来の弁道を、誤った「愚かな」方向に向かっていたことだ、という意味に考えているわけです。
 しかし、その三十年を否定しているのではなく、「今、桃花を見て忽然自得するところがあった。三十年等、無駄な努力をしたようだが、…修行は修行なので、修行に専らであれば、そのことによって本来の自分に帰っている」、「自分は三十年来自己を発揮してきたのであった」と『哲学』が言います。それが「更に疑わず」の意味だと言うことでしょうか。
 『全訳注』は「剣客を尋ぬ」と読んで「知識を訪ねて」と訳していて、『提唱』も同様です。知識を剣に喩えるということには唐突さがありますし、第二句をどう考えるか、ちょっと困るところではないかと思われます。
 『哲学』が、「志勤の偈の解釈については諸註区々である」と言い、他のいくつかを「それぞれ含蓄ある解釈」として挙げていますが、『哲学』の読み方は分かり易いように思います。》

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