『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十一

1 達磨~19

 しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。自己の身命(シンミョウ)をかへりみることなかれ。
 禽獣よりもおろかなる恩愛、をしむですてざることなかれ。たとひ愛惜(アイジャク)すとも、長年(チョウネン)のともなるべからず。
 あくたのごとくなる家門、たのみてとどまることなかれ。たとひとどまるとも、つゐの幽棲にあらず。
 

【現代語訳】
 ですから、祖師 達磨の大恩に報いるのは、今日一日の行持につとめることなのです。この事に自己の身命を顧みてはいけません。
 禽獣よりも愚かな恩愛を、惜しんで捨てないでいてはいけません。たとえ愛し惜しんでも、それは長年の友にはならないのです。
 ごみ屑のような家門を頼りにして、留まっていてはいけません。たとえ留まっても、そこは終生の住み処ではないのです。
 

《「しかあれば」は、第一に人の命ははかないものであること、第二に俗世の名利もまたはかないものであること、第三にそれに代わる「広大深遠」な仏正法に出会っていること、の三つを受けていると考えればいいでしょうか。
 そういうことであるから、あとはただ、辛苦を越えて正法を我々の前にもたらされた「祖師の大恩」に報いて、ひたすらその道を歩む以外に何の価値あることがあろうか、…。
 「禽獣よりもおろかなる恩愛」という言葉に、また驚きますが、その純一さにおいて、人間同士の恩愛は禽獣にも劣る、ということでしょうか。
 『行持』が、「禽獣には、仏道を修行して仏に成る可能性がないのに、人間は、その可能性を持ちながら、恩愛を抛捨できないでいる」ことを言っているのだ、としますが、ちょっと意味の分かりにくい文章です。
 そうではなく、禽獣は仏道修行とは関係なく、ただ恩愛の点での比較にすぎず、人は雑ぱくな恩愛という頼りないものに引きずられて、もっと頼りがいのある、そして護持しなくてはならない仏法に、足を踏み出さないでいる、ということへの教えと言うべきではないでしょうか。
 雑ぱくな恩愛といいましたが、確かに禽獣の恩愛はただただ本能に基づくものですから純一といえばそのとおりでしょう。そこに行くと人間の恩愛には、様々な心情が混在して、憎しみでさえも恩愛の変形であることがあります。そう考えると逆に、そういういじらしい「恩愛」こそが人間の生きているということそのものではないか、という気がして、それを全否定することは、人間の存在自体を否定することにならないだろうか、禅師ははたしてそんなペシミステイックなことを考えていたのだろうかという疑問を持ちます。
 以前、法然と比べて禅師の生真面目さということを書いたことがあります(「辨道話」第十九章1節)が、「禽獣よりもおろかなる」という言葉が、もしつい筆が走り過ぎたとかということではなく、書かれているとおりの話だとしたら、その生真面目さがやや教条主義的になっているのではないかという気がして、またしても『狭き門』が思い出されます。
 もちろん、その先には、そういう人間らしさの対極である、例えば先の「廓然無聖」(第五章1節)とか、「香厳撃竹」のような世界があるのではありますが(いや、それは、対極であるのか、どこのところでつながるのか、…)。》


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3 真際従諗~3

 趙州の趙州に住することは、八旬よりのちなり、伝法よりこのかたなり。正法正伝せり。諸人これを古仏といふ。
 いまだ正法正伝せざらん余人(ヨニン)は、師よりもかろかるべし。いまだ八旬にいたらざらん余人は、師よりも強健(ゴウケン)なるべし。壮年にして軽爾(キョウニ)ならんわれら、なんぞ老年の崇重(スウチョウ)なるとひとしからん、はげみて辨道行持すべきなり。
 四十年のあひだ、世財をたくはへず、常住に米穀なし。あるいは栗子(リス)、椎子(スイス)をひろうて食物(ジキモツ)にあつ、あるいは旋転飯食(センデンボンジキ)す。
 まことに上古龍象の家風なり、恋慕すべき操行(ソウギョウ)なり。
 

【現代語訳】
 趙州従諗和尚が趙州(の観音院)に住したのは、八十歳以後であり、(南泉普願禅師の)法を受け継いでからのことです。彼は仏祖の正法を正しく伝えた人です。そこで人々は、彼を古仏と呼んで讃えました。
 まだ仏祖の正法を受け継いでいない他の人は、師よりも立場が軽いことでしょう。まだ八十歳にならない他の人は、師よりも身体が強健なことでしょう。壮年で軽い立場の人が、どうして老年で尊く重い師と等しいものでしょうか。我々は、励んで行持に精進するべきなのです。
 師は四十年の間、世の財を畜えることがなかったので、道場には米もありませんでした。そこで栗や椎の実を拾い集めて食料としたり、僧が交替で食事を取ったりしました。
 実にこれは、昔の優れた修行者の家風であり、慕うべき行いです。
 

《「壮年にして軽爾」の者が「老年の崇重」の人よりも怠けていてはならない、というのは、「いまだ八旬にいたらざらん」者にとっては、まことに耳の痛い言葉です。
 ところで、先に「古仏の家風きくべし」(前節)と言った後で「諸人これを古仏といふ」と言う順序は、談話ならともかく、書かれてものとしてはちょっと違和感がありますが、後ろの「われら」という書中珍しい言い方と合わせて、いかにも講話の具体的な対象を意識した上で話しかける気持ちで書かれたものという印象を受けます。
 また、「四十年のあひだ、…」以下は、前節の初めにつながると分かり易い話で、こうした点を見ると、仏祖の行持を語ろうとして「あとからあとからと範例が湧きいでてとどまるところがなかった」(『全訳注』)ということなのだろうという、その感じがよく分かる気がします。
 「旋転飯食」は、『行持』の注によれば「旋転」はぐるぐる巡ること、「飯食」は飯を食べることで、そのまま訳すとここのようになるわけですが、同書の訳は「今日の食料を明日まで持ち延ばして食べたりした」とあり、『提唱』も「一日の食料の一部を次の日に回すというふうなこと」としています。》


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2 真際従諗~2

 いまだかつて一封の書をもて檀那につけず。
 僧堂おほきならず、前架なし、後架なし。あるとき牀脚(ジョウキャク)をれき。一隻(イッシャク)の焼断の燼木(ジンボク)を、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴(キョウリャク)し、修行するに、知事この牀脚をかへんと請(ショウ)するに、趙州ゆるさず。古仏の家風きくべし。
 

【現代語訳】
 その間、一度も喜捨を求める書を信者に託しませんでした。
 その僧堂は大きくなく、堂の前後の設備も整っていませんでした。ある時、住持の椅子の脚が折れたので、一本の焦げた木を椅子に縛りつけて、長い間修行していましたので、係りの僧が椅子の修理を申し出たところ、趙州和尚はそれを許しませんでした。いにしえの仏祖の家風を我々は学ぶべきです。
 

《六十年の仏道生活だったのですが、その間、趙州は「簡素・枯淡に徹した行持」(『行持』)に終始したようです。
 前架」、「後架」についての諸注が興味深いものです。
『全訳注』~「前架」・禅堂にていわゆる六知事(六役)の坐する床几であろう。「後架」・僧たちが脚絆をとって、洗足するところであろう。
『提唱』~「前架」・「外単」といっておる部分(「単」は僧に与えられる坐禅道での生活空間)、「後架」・坐禅道の後ろにある、洗面その他に使う場所。
『行持』~「前架」・僧堂の外の外堂に設けられた棚。食事や行茶の時の器物を置く、「後架」・僧堂の背後にある、衆僧の洗面所にある棚。洗面器などを置くのに用いる。また、洗面所、後には、便所の意に用いるようになった。
 前の二つは、仏家の説明であり、『行持』は文学者のものですが、ずいぶん異なる説明で、しかもそれぞれ逆の立場からのもののように見えます。特に本題に大きく関わるところではありませんが、それでもやはり少なくとも仏家におかれては、もう少し具体的に意味が特定されなければならないのではないでしょうか。》

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1 真際従諗~1

 趙州(ジョウシュウ)観音院真際(シンザイ)大師従諗(ジュウネン)和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす。
 瓶錫(ビョウシャク)をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、「七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我即ち伊(カレ)に問うべし。百歳の老翁なりとも、我に及ばざれば、我即ち他(カレ)を教うべし。」
 かくのごとくして南泉の道を学得する、功夫すなはち二十年なり。年至八十のとき、はじめて趙州城東観音院に住して、人天を化導(ケドウ)すること四十年来なり。
 

【現代語訳】
 趙州観音院の真際大師従諗和尚は、六十一歳の時に初めて発心し求道を志しました。
 水瓶と錫杖を携えて行脚し、諸方を巡り歩いて、常に自ら言うことには、「七歳の子供でも、私より優れていれば教えを受けよう。百歳の老人でも、私に及ばなければ、教えてあげよう。」と。
 このようにして、南泉禅師の道を学んで精進すること二十年でした。そして八十歳の時に初めて趙州城東の観音院に住持して、人々を導くこと四十年に亘りました。
 

《十二人目は真際大師従諗和尚(八九七年沒)で、次の章にまたがる話です。
 「七歳の童子なりとも…」は、同じような考え方が『論語』にもあったような気がしますが、道を求めることにおいての謙虚さと自信と、そして真摯さが伝わる言葉です。
 六十一歳にして初めて「発心求道」というのは、「八十にして捨家染衣」という波栗湿縛尊者(第五章)ほどではありませんが、ずいぶん晩学です。
 それから「功夫すなはち二十年」で八十歳、それから「人天を化導すること四十年来」となると御年百二十歳ということになります。そこまで現役だったということでしょうか、「いかに、…人間として当然考慮すべき年齢や寿命を超越して『化道』に精進していたかを記述している」(『行持』)ことになる、と言えば、そのとおりですが、こうさらりと書かれると、笑ってしまいます。

 

2 糞掃衣

 その衣財(エザイ)、また絹布よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布(フ)は清浄(ショウジョウ)なり、絹(ケン)は不浄なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見なし、わらふべし。
 諸仏の常法、かならず糞掃衣(フンゾウエ)を上品(ジョウボン)とす。糞掃に十種あり、四種あり。
 いはゆる、火焼(カショウ)、牛嚼(ゴシャク)、鼠噛(ソコウ)、死人衣(シニンエ)等、五印度の人、此(カク)の如き等の衣、之を巷野に棄つ。
 事、糞掃に同じく、糞掃衣と名づく。行者之を取って、浣洗縫治(ホウジ)して、用いて以て身に供(クウ)ず。
 そのなかに絹類あり、布類あり、絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。
 糞掃衣は、むかし阿耨達池(アノクダッチ)にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨華(ウゲ)礼拝しき。
 

【現代語訳】
 袈裟の材料は、絹であれ麻や綿であれ適したものを使います。必ずしも麻や綿が清浄で、絹が不浄というわけではありません。また麻や綿を嫌って絹を取るという考えもありません。このような考えは笑うべきものです。
 諸仏のしきたりでは、必ず糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)を上等とします。糞掃(ぼろ布)には十種類または四種類あります。
 いわゆる、焼け焦げた服、牛の噛んだ服、鼠のかじった服、死人の服などです。インド地方の人々は、これらの服を路地や郊外に捨てたのです。
 それは糞掃(ぼろ布)と同じなので、糞掃衣と呼ぶのです。修行者はこれを拾って洗い、縫い直して身に着けるのです。
 糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)の中には絹の類があり、麻や綿の類がありますが、絹や麻 綿という見方を投げ捨てて、糞掃というものを学びなさい。
 糞掃衣は、昔 出家がそれを阿耨達池(ヒマラヤ山脈の北にあるという池)で洗っていると、そこに棲む龍王が賛嘆して花を降りそそぎ、礼拝したといわれます。
 

《呼び名の話の次は、材料とする布の話です。
 「絹布」の「絹」は言うまでもなく繭から採ったものですが「布」は「植物の繊維で織った布」(『漢語林』)なのだそうです。
 ここでは、先にあった南山道宣(第八章1節)が「肉食蚕衣」といって「蚕の命を絶って作る絹を肉食と同じく否定した」(『読む』)ことを念頭に、材質の違いは問題ではなく、どのように求められたものかということが大切なのだと言います。
 「糞掃」の「糞」は、排泄物の意ではなくて、「はらう。けがれを払い除く。掃除する」(『漢語林』)の意のようで、『読む』は「糞掃」に「はきすて」とルビを振っています。
 終わりのところ、「絹布の見をなげすてて」は、ものを区別する考え方をやめて、というような意味でしょうか。
 「糞掃」となった衣類を見れば、髑髏がその人の貴賎に関わらないように、それがもと何であったかということを失って、原初的なものに還元しているわけで、世の一切のものを、がそのように本来的、根元的な姿において見よ、と言っているのではないかと思われます。
 『読む』が「糞掃はここでは、人間の執着の対象とならぬ絶対の真実を意味する」と言っています。
 なお、「糞掃に十種あり、四種あり」とありますが、後の第三十三章にその十種のすべてが示されています。ここの訳はでは「十種類または四種類」となっていて「十種」が分け方によって四種になるというように読めますが、あるいはまったく別の分け方で「四種」というのかもしれません。例えば、二十六章には縫い方の違いで四種類があるとされています。
 「五印度」は「東、西、南、北と中インド」(『読む』)だそうです。》

 


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