しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。自己の身命(シンミョウ)をかへりみることなかれ。
禽獣よりもおろかなる恩愛、をしむですてざることなかれ。たとひ愛惜(アイジャク)すとも、長年(チョウネン)のともなるべからず。
あくたのごとくなる家門、たのみてとどまることなかれ。たとひとどまるとも、つゐの幽棲にあらず。
【現代語訳】
ですから、祖師 達磨の大恩に報いるのは、今日一日の行持につとめることなのです。この事に自己の身命を顧みてはいけません。
禽獣よりも愚かな恩愛を、惜しんで捨てないでいてはいけません。たとえ愛し惜しんでも、それは長年の友にはならないのです。
ごみ屑のような家門を頼りにして、留まっていてはいけません。たとえ留まっても、そこは終生の住み処ではないのです。
《「しかあれば」は、第一に人の命ははかないものであること、第二に俗世の名利もまたはかないものであること、第三にそれに代わる「広大深遠」な仏正法に出会っていること、の三つを受けていると考えればいいでしょうか。
そういうことであるから、あとはただ、辛苦を越えて正法を我々の前にもたらされた「祖師の大恩」に報いて、ひたすらその道を歩む以外に何の価値あることがあろうか、…。
「禽獣よりもおろかなる恩愛」という言葉に、また驚きますが、その純一さにおいて、人間同士の恩愛は禽獣にも劣る、ということでしょうか。
『行持』が、「禽獣には、仏道を修行して仏に成る可能性がないのに、人間は、その可能性を持ちながら、恩愛を抛捨できないでいる」ことを言っているのだ、としますが、ちょっと意味の分かりにくい文章です。
そうではなく、禽獣は仏道修行とは関係なく、ただ恩愛の点での比較にすぎず、人は雑ぱくな恩愛という頼りないものに引きずられて、もっと頼りがいのある、そして護持しなくてはならない仏法に、足を踏み出さないでいる、ということへの教えと言うべきではないでしょうか。
雑ぱくな恩愛といいましたが、確かに禽獣の恩愛はただただ本能に基づくものですから純一といえばそのとおりでしょう。そこに行くと人間の恩愛には、様々な心情が混在して、憎しみでさえも恩愛の変形であることがあります。そう考えると逆に、そういういじらしい「恩愛」こそが人間の生きているということそのものではないか、という気がして、それを全否定することは、人間の存在自体を否定することにならないだろうか、禅師ははたしてそんなペシミステイックなことを考えていたのだろうかという疑問を持ちます。
以前、法然と比べて禅師の生真面目さということを書いたことがあります(「辨道話」第十九章1節)が、「禽獣よりもおろかなる」という言葉が、もしつい筆が走り過ぎたとかということではなく、書かれているとおりの話だとしたら、その生真面目さがやや教条主義的になっているのではないかという気がして、またしても『狭き門』が思い出されます。
もちろん、その先には、そういう人間らしさの対極である、例えば先の「廓然無聖」(第五章1節)とか、「香厳撃竹」のような世界があるのではありますが(いや、それは、対極であるのか、どこのところでつながるのか、…)。》