『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十三

2 小臣にして帝位にのぼらず

  振旦一国に、なほ小臣(ショウジン)にして帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如来に比すべからず。如来は梵天、帝釈、転輪聖王等、昼夜に恭敬侍衛(クギョウジエ)し、恆時(コウジ)に説法を請(ショウ)したてまつる。
 孔老かくのごとくの徳なし、ただこれ流転の凡夫なり。いまだ出離解脱のみちをしらず、いかでか如来のごとく、諸法実相を究尽(グウジン)することあらん。もしいまだ究尽せずば、なにによりてか世尊にひとしとせん。孔老内徳なし、外用なし、世尊におよぶべからず。三教一致の邪説をはかんや。
 孔老、世界の有辺際(ウヘンザイ)、無辺際を通逹(ツウダツ)すべからず。広をしらずみず、大をしらずみざるのみにあらず、極微色(ゴクビシキ)をみず、刹那量をしるべからず、世尊あきらかに極微色をみ、刹那量をしらせたまふ、いかにしてか孔老にひとしめたてまつらん。
 孔老、荘子、恵子等は、ただこれ凡夫なり、なほ小乗の須陀洹(シュダオン)におよぶべからず。いかにいはんや第二、第三、第四の阿羅漢におよばんや。
 しかあるを、学者くらきによりて、諸仏にひとしむる、迷中又深迷(ウジンメイ)なり。孔老は三世をしらず、多劫(タゴウ)をしらざるのみにあらず、一念しるべからず、一心しるべからず。
 なほ日月天(ニチガツテン)に比すべからず、四天王、衆天(シュテン)におよぶべからざるなり。世尊に比するは、世間、出世間に迷惑するなり。
 

【現代語訳】
 中国一国に、小臣のままで帝位に上らなかった孔子老子と、三千大千世界(宇宙)の王である如来(仏)とを比べてはいけません。如来は、天界の梵天や帝釈天、統治者の王である転輪聖王などが昼夜に敬って護衛し、常に説法を請い求めるのです。
 孔子老子にこのような徳はなく、ただの生死流転する凡夫なのです。まだ生死を出離解脱する道を知らないのであり、それでどうして如来のように諸法実相(すべてのものは、そのまま真実の姿である)を究め尽くすことが出来ましょうか。もしまだ究め尽くしていないのなら、何をもって世尊(仏)と同じであると言うのでしょうか。孔子老子には内徳が無く、外の働きも無いのであり、世尊には及ばないのです。ですから、三教(仏教 儒教 道教)の教えは一致するというような邪説を言ってはいけません。
 孔子老子は、世界の有限、無限を詳しく知らないので、世界の広さ大きさを知らないし見たことも無いだけでなく、極微の世界も見ていないし、刹那の分量も知らないのです。しかし世尊は、はっきりと極微の世界を見ているし、刹那の分量を知っているのです。これでどうして孔子老子と同等にすることが出来ましょうか。
 孔子や老子、荘子、恵子などは、ただの凡夫であり、小乗の最初の悟りである須陀洹にさえ及ばないのです。ましてその第二の悟り、第三の悟り、第四の悟りである阿羅漢には到底及ばないのです。
 それなのに、仏道を学ぶ者が無知で、孔子老子などを諸仏と同列に並べることは、迷いの上にまた深く迷いを重ねる行為です。孔子老子は三世(過去現在未来)を知らず、多くの劫(測り知れない長い時間)を知らないだけでなく、刹那の一念を知らず、一心を知らないのです。
 彼らを日天子(太陽)月天子(月)にさえ、なぞらえてはいけません。彼らは四天王(東方持国天、西方広目天、南方増長天、北方多聞天)や多くの天神にも及ばないのです。彼らを世尊(仏)になぞらえることは、世の人々や出家の人々を惑わすことなのです。
  

《「小臣にして帝位にのぼらず」として孔子老子を軽んずるというのはちょっと意外な話で、現世での栄達を煩悩と切り捨てる(例えば「出家功徳」巻十九章)禅師の言葉とは思えない気がしますが、ご愛敬といったところでしょうか。
 それに、「三千大千世界」を認識の内に収める仏法と、基本的に現世における生き方を説く孔老とでは、どちらが偉いか、というような問題設定も、長編小説と短編小説ではどっちがおもしろいか、という問題と似ているような気がします。ドストエフスキーとエドガー・ポーとどっちが偉いか、と言われても、にわかには返事ができません。というより、そういう比較はしない方がいいのではないかと思います。
 もちろん、「三教」が一致するというのは、それ以上に大きな誤りで、それぞれの教えを歪曲しなければ成り立たない考え方だろうと思われますから、偉そうに言えば、禅師はその無意味さを説く方がよかったような気がします。
 禅師の話の進め方は、そういう理論よりも、何か憤りといったようなものが先に立っているような感じです。》


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1 生知者

 孔子の書に生知者(ショウチシャ)あり、仏教には生知者なし。仏法には舎利の説あり、孔老、舎利の有無をしらず。ひとつにして混雑せんとおもふとも、広説の通塞つひに不得ならん。
 論語に云はく、「生まれながらにして之を知るは上(ジョウ)なり、学んで之を知るは次なり、困(クル)しみて之を学ぶは又其の次なり、困しみて学ばざるは、民斯を下(ゲ)と為す。」
 もし生知あらば、無因のとがあり。仏法には無因の説なし。四禅比丘は、臨命終(リンミョウジュウ)の時、たちまちに謗仏(ボウブツ)の罪に堕(ダ)す。
 仏法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生のうちより謗仏の罪ふかかるべし、学者はやく仏法と孔老と一致なりと邪計する解(ゲ)をなげすつべし。この見(ケン)たくはへてすてずば、つひに悪趣におつべし。
 学者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲(イッシュウ)の安立(アンリュウ)をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。
 六天のこと、なほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界をしらず、中千界をしるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。
 

【現代語訳】
 孔子の書に生知者(生まれながらに知っている者)という言葉がありますが、仏教には生知者という言葉はありません。仏法には舎利(仏の遺骨)の説がありますが、孔子老子は舎利の有無を知りません。これを一つに混同しようと思っても、その広説の通用は遂に得られないのです。
 論語には「生まれながらにこれを知っている者は上等の人である。学んでこれを知る者は次の人である。行きづまってからこれを学ぶ者は、又その次の人である。行きづまっても学ばない者は、人として下等である。」とあります。
 もし生まれながらに知っているというのであれば、因果を無視する咎があります。仏法には無因果の説はありません。そのために四禅比丘(四禅定を得たことで、阿羅漢を得たと思った比丘。)は、臨終の時に仏を謗った罪により、すぐに阿鼻地獄に堕ちたのです。
 仏法を、孔子老子の教えと同じと思うことは、一生の内から仏を謗る罪が深いと言うべきです。仏法を学ぶ者は、仏法と孔子老子の教えは一致するという邪まな考えを早く投げ捨てなさい。この考えを蓄えて捨てなければ、遂には地獄、餓鬼、畜生などの悪趣(悪道)に堕ちることになるのです。
 仏法を学ぶ者は明白に知りなさい。孔子老子は三世(過去現在未来)の法を知らず、因果の道理を知らず、一つの世界の安心立命を知らないのです。ましてや全世界の安心立命を知っているでしょうか。
 六天(欲界の六天神)のことを又知らず、ましてや三界(凡夫の住む欲の世界、物の世界、心の世界。)や九地(九つの凡夫の境地)の法を知っているでしょうか。小千界(須弥山を中心とする天上界と地上界の一団を一世界として、それらが千集まった世界。)を知らず、中千界(小千界が千集まった世界。)を知らないのです。ましてや三千大千世界(中千界が千集まった世界を大千世界といい、小千界と中千界と大千世界を合わせて三千大千世界という。宇宙のこと。)を見たことがありましょうか、知っているでしょうか。

 

《ここの『論語』の言葉は季氏十六にあるものです。これだけを読むと、なるほどそうだ、と思ってしまいますが、確かに「生まれながらにして之を知る」(「之」は特に何を指すのではなく、要するに知者ということのようです)ということは、ないように思われます。

「舎利の説」というのは、『提唱』が「人が死んでも、その人の生涯における営々とした努力というものは非常に価値があるのであって、そのような価値のある生涯から残された遺骨というものについても、十分の尊敬を払わなければならない」という考え方を言うと言いますが、生前の努力が価値があるという以上に、自分の身につけたもののすべてが、そういう過去の人から受け継いだものだという意味で、過去の人に敬意を払うべきだという考え方をするのでしょうか。
 孔子も「死しては之を葬むるに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす」と言っています(『論語』為政)から、決して過去の人を軽んじていたわけではないでしょうが、得道において師から弟子へという関係を絶対的な要件として考える仏法の立場から見れば、「生知者」などという考え方は容認できないことであろうと思われます。
 もっとも、孔子も、「生知者」を最上としてはいますが、それはものの順序として挙げただけで、言おうとするところは、その後の「学んで」以下に挙げた、学ぶということへの態度、学ぶことに喜びを感じるようでなくてはならない、ということだったのだろうと思われます。彼にとっては、学ぶということが大切なのであって、生まれながらにして知っている人は、もしそういう人がいるとしても、孔子はさしたる関心はなかったのではないでしょうか。》



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未曾有経~毗摩大国徙陀山の中に、一の野干あり ~2

 これを天帝拝畜為師(テンタイハイチクイシ)の因縁と称す。あきらかにしりぬ、仏名(ブツミョウ)、法名(ホウミョウ)、僧名(ソウミョウ)のききがたきこと、天帝の野干を師とせし、その証なるべし。
  いまわれら宿善のたすくるによりて、如来の遺法(ユイホウ)にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。これすなはち法要なるべし。
 天魔波旬(ハジュン)、なほ三宝に帰依したてまつりて患難(ゲンナン)をまぬかる。いかにいはんや余者(ヨシャ)の、三宝の功徳におきて、積功(シャック)累徳せらん、はかりしらざらめやは。
 おほよそ仏子の行道(ギョウドウ)、かならずまづ十方の三宝を敬礼(キョウライ)したてまつり、十方の三宝を勧請(カンジョウ)したてまつりて、そのみまへに焼香散華して、まさに諸行を修(シュ)するなり。これすなはち古先の勝躅(ショウチョク)なり、仏祖の古儀なり。
 もし帰依三宝の儀いまだかつておこなはざるは、これ外道の法なりとしるべし、または天魔の法ならんとしるべし。仏仏祖祖の法は、かならずそのはじめに帰依三宝の儀軌あるなり。
 

 正法眼蔵 帰依三宝 第六

 建長七年 乙卯(キノトウ)夏安居の日、先師の御草本を以て書写し畢(オワ)る。未だ中書、清書等に及ばず、定んで御再治の時、添削有る歟、今に於て其の儀、叶ふべからず。仍(ヨ)って御草、此(カク)の如く云う。
 

弘安二年己卯(ツチノトウ)夏安居 五月二十一日、越宇中浜新善光寺に在って之を書写す。                               義雲
 

【現代語訳】
 これを、帝釈天が畜類を礼拝して師とした因縁と言います。この話から明らかに知られることは、仏(仏陀)という呼び名、法(仏法)という呼び名、僧(僧団)という呼び名は、この世界では聞くことが難しいということです。これは、帝釈天が仏の名を称えた狐を師としたことが、その証拠と言えましょう。
 今我々は、過去世の善行の助けによって、釈尊の残されたみ教えに会うことができ、昼夜に仏、法、僧という三宝の尊い呼び名を聞いて止む時がありません。これが仏法の大切なところなのです。
 天界の魔王でさえ、三宝に帰依して悩み苦しみを免れるのです。ましてその他の者が、三宝の功徳を積み重ねたならば、その果報は計り知れないことでしょう。
 およそ仏弟子の仏道修行とは、必ず最初に、十方の三宝を恭敬礼拝して十方の三宝をお迎えし、その御前で香を焚き、華を散らして供養してから、まさに様々な行を修めるのです。これは古聖先哲が行ってきた勝れた足跡であり、仏や祖師の古来の決まりなのです。
 もし、三宝に帰依する儀式を一度も行ったことがないのであれば、これは外道の法であると知りなさい。又は、人を惑わす天魔の法であろうとわきまえなさい。仏から仏、祖師から祖師へと伝えられた法は、必ずその初めに三宝に帰依するという儀式があるのです。
  

 正法眼蔵 帰依三宝 第六 

 建長七年、夏安居(夏期九十日修行)の日に、先師(師の道元)の残された原稿を書写した。まだ清書されておらず、きっと御病気が治られた時には添削されたことであろう。今ではその事は叶わないので原稿のままである。
 

弘安二年、夏安居の五月二十一日、越前中浜新善光寺にてこれを書写する。 義雲
 

《「あきらかにしりぬ、仏名、法名、僧名のききがたきこと、天帝の野干を師とせし、その証なるべし」というのは、帝釈天が「孤露にして導師無く、…」と言ったことについて言っているのでしょう。
 心から「南無帰依十方仏」と唱える者こそ師とするにたるのであって、その声を聞いたなら、狐にさえも頭を下げて師事しなくてはならない、それほどに、普通にはまれなことなのだ、という教えだと思われます。
 ところが、幸いなことに私たち(禅師とその弟子たち)は、どういう因縁か、その道に入ることができている、である以上は、帰依三宝ということを実践していかなければならないのだ、と説いて、この巻を終わります。
 なお、建長七年は一二五五年、弘安二年は一二七九年で、「義雲」は永平寺第五世です。懐弉が書き写しておいたものを、さらに写したものであるようで、この弘安二年のことは、『全訳注』、『提唱』ともに書かれていません。

 次は「深信因果」巻を読んでみます。》


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2 剃髪染衣すれば

仏の言く、「若し衆生有りて我が出家と為り、鬚髪を剃除し、袈裟を被服せば、設(タト)ひ戒を持せざるとも、彼等悉く已(スデニ)涅槃(ネハン)の印の為に印せらる也。
 若し復出家して、戒を持せざる者も、非法を以て悩乱罵辱(メニク)毀呰(キシ)を作(ナ)し、手に刀杖を以て打縛(ダバク)斫截(シャクセツ)し、若しは衣鉢を奪ひ、及び種々の資生の具を奪ふ者有らば、是の人則三世諸仏の真実の報身を壊し、則一切人天の眼目(ガンモク)を挑(クジ)るなり。
 是の人 諸仏所有の正法、三宝の種を隠没(オンモツ)せんと欲するが為の故に、諸天人をして利益(リヤク)を得ず、地獄に堕せしむるが故に、三悪道増長し盈満(エイマン)するが為のゆえに。」
 しるべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるるなり。ひとこれを悩乱すれば、三世諸仏の報身を壊するなり、逆罪とおなじかるべし。
 あきらかにしりぬ、出家の功徳、ただちに三世諸仏にちかしといふことを。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「もし、人々が私を拠り所にして出家となり、髪を剃り落として袈裟を着ければ、たとえ戒を守っていなくても、彼等は皆、涅槃(煩悩の消滅した安らかな悟り)に至ることが約束されるのである。
 又、出家して戒を守らない者であっても、仏法に反していると誹謗したり、杖や刀で危害を加えたり、衣鉢や生活の道具を奪うなどする者があれば、この人は三世の諸仏の真実の仏身を壊し、人間界天上界の指導者を害しているのである。
 この人の行いは、諸仏の正法や、三宝(仏 僧という宝)の種を無くそうとする行為なので、天人たちの利益を得られず、地獄に堕ちて三悪道が増長し満ちるのである。」と。
 この釈尊の言葉から知りなさい、髪を剃り衣を染めて出家すれば、たとえ戒を守っていなくても、無上の大涅槃の悟りが約束されるのです。人がこの者を誹謗すれば、三世の諸仏の成就した仏身を壊してしまうのです。それは逆罪(殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血など)を犯すことと同じなのです。
 明らかに知られることは、出家の功徳は、すぐに三世の諸仏に近くなるということです。
 

《この頃、このあたりを読みながら、ずっと思っていることがあります。それは、ここで説かれているのは、出家の功徳そのものではなくて、これから出家しようとする人、または出家はしたもののまだ迷いがあって後悔しそうになっている人への激励なのではなかろうか、ということです。
 その道を選んで大丈夫だよ、脇見をしないで進みなさい、先師たちもこのように保証している、…。
 しかし、もし私が禅師の前にいることができたのだったら、私は次のようなことを訊ねたいのです。
 出家したら、私は今とどう変わるのでしょうか。どういう景色が見えるのでしょうか、「無上大涅槃」とは一体どのような状態なのでしょうか、…。
 おそらくそれは、お前が自身でやってみるしかない、と言われるでしょう。いや、その前に、臨済の「六十棒」(『行持』第三十章1節)の数倍の棒をいただくことになるか、直ちに破門となるか、または無視されるか、…。気の利いた人なら、「六十棒」を受ければ、そこではっと悟るのでしょうが、残念ながら私はそうはいかないだろうなあと、我が身を振り返ります。
 それでも、そういう境地に憧れはあるのですが、…。》



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1 不受戒者

 仏の言(ノタマ)はく、「及び我に依りて鬚髪(シュホツ)を剃除(テイジョ)し、袈裟の片を著(ヂャク)して戒を受けざる者有らんに、是の人を供養せば、亦(マタ)乃至(ナイシ) 無畏城(ムイジョウ)に入ることを得ん。是の縁を以ての故に、我是の如く説く。」
あきらかにしる、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒をうけずといふとも、これを供養せん人、無畏城にいらん。
 又云はく、「若し復(マタ)人有りて、我が出家と為り、禁戒を得ざるも、鬚髪を剃除し袈裟の片を著せんに、非法を以て此れを悩害せん者有らば、乃至三世諸仏の法身(ホッシン)報身を破壊(ハエ)す。乃至三悪道に盈満(エイマン)するが故に。」
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「私を拠り所にして髪を剃り袈裟を着けて、出家の戒を受けていない者もいるが、この人でも供養すれば、遂には畏れのない堅固な心を得ることができる。このような因縁があるので、私はこのように出家の功徳を説くのである。」と。
 この言葉から明らかに知られることは、髪を剃り袈裟を着けた者であれば、その者が出家の戒を受けていなくても、これを供養する人には、畏れのない堅固な心が得られるであろうということです。
 また言うには、「又、私を拠り所にして出家となり、禁戒を受けずに髪を剃り落として袈裟を着ける人を、仏法に反していると誹謗する者は、遂には三世(過去世、現在世、未来世)の諸仏の法身、諸仏の成就した仏身を壊してしまうであろう。遂には三悪道(地獄餓鬼畜生)に堕ちる因が満ちるからである。」と。
 

《「鬚髪を剃除し、袈裟の片を著」してはいるが、まだきちんと戒を受けていない、そういう人でも、その者を「供養」すれば、それによって、その「供養」した人は「無畏城にいらん」、つまり悟りの境地に至れるであろう、…。
 髪を剃り、袈裟を身につけるというのは出家の意思を示すことですが、それだけで、戒を受けずとも、また悟道に至らずとも、その人は出家者として扱われるのであって、そういう人を供養すれば、それは仏を供養するのと同じ功徳があるのだ、ということのようです。
 先に「出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり」(第十一章2節)とありましたが、「出家して禁戒を破」しても大丈夫なくらいですから、「破」す前の「戒を受けざる」ことなど問題ではない、ということでしょうか。
 逆に、そういう人を「非法を以て此れを悩害」したりすれば、地獄に落ちるであろう、…。
 先に「ただ修証していること、また坐禅している姿が『即心是仏』なのだ」というふうに考えてみたことがありました(「即心是仏」巻第七章1節)が、それと同じように、悟りの深浅はあるとしても、住む世界は仏の世界なのだと考えるのでしょう。
 「出家」というのはそれほど尊いのであって、その意思を示しただけで仏と同じ平面に立つことになるのだという教えのようです。》

  都合により、明日は休載します。


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