商那和修(ショウナワシュ)尊者は、第三の附法蔵なり。うまるるときより衣と俱生(クショウ)せり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。
また鮮白(センビャク)比丘尼、発願施氎(セジョウ)ののち、生生(ショウショウ)のところ、および中有、かならず衣と俱生せり。
今日釈迦牟尼仏にあふたてまつりて出家するとき、生得(ショウトク)の俗衣、すみやかに転じて袈裟となる、和修尊者におなじ。
あきらかにしりぬ、袈裟は絹布等にあらざること。いはんや仏法の功徳よく身心諸法を転ずること、それかくのごとし。
【現代語訳】
商那和修尊者は、釈尊から第三代の正法を受け継いだ人です。この人は、生まれた時から衣を身に着けていました。その衣は、在家の時は俗服であり、出家すると袈裟になりました。
また鮮白比丘尼は、前世に発願して仏に衣を施してからは、生まれ変わる度に、そして生まれ変わる間にも、必ず衣を身に着けていました。
そして今日、釈尊にお会いして出家すると、生得の俗衣は、すぐに袈裟になりました。これは商那和修尊者の場合と同じです。
これらのことから、明らかに知ることは、袈裟は絹や綿などではないということです。まして仏法の功徳が身心の全てを変えていくことは、このように明らかなのです。
《商那和修と鮮白の二人の人は、衣を着た姿で生まれたと伝えられていて、「成長するにつれてその衣も大きくなり、出家の時に袈裟になった」(『読む』)と『西域記』という書にあるのだそうです。
これは、現実にはあり得ない話ですが、伝説として聞くなら大変ありがたい話として、何の問題もないでしょう。しかし禅師は、このことからも、人の世界でいう布ではなくて、袈裟は袈裟という別個のものであることは明らかなのだ、と説きます。
すると禅師はこの話を、伝説ではなく現実の話と考えているのでしょうか。しかし、それは、前に、絹糸は蚕ではなくて樹神が吐き出したものだという説(化糸の説・十二章1節)を、「わらふべし」と否定した禅師には、考えられないことのように思われます。
あるいは、この伝説に何か寓意を読み取って、それを根拠としている、ということなのでしょうか。
『読む』は「袈裟は人間本具の仏性の象徴なのである。衣とともに生まれ、衣は人の生長とともに大きくなり、出家すれば袈裟となる」と言っています。これは、つまり「生まれたときから衣を身につけて」いたとは、仏性を持って生まれることであり、生長とともにその仏性が袈裟を着る姿をとる、つまり仏になる、というような理解、ということのように思われます。
ということになると、ここに至って袈裟は、これまでの「体色量」を持った、物としての袈裟とは全く異なり、「象徴」であることさえ超えて、いわば仏性という言葉の同義語に変わったわけです。
少なくとも、袈裟にはその二面がある、ということのようです。》