『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十四

3 般若波羅蜜を学すべし

 仏の言(ノタマ)はく、「若し菩薩摩訶薩、是の思惟を作(ナ)さん、我何(イズ)れの時に於いてか、当に国位を捨てて、出家するの日、即ち無上正等菩提を成じ、還(マ)た是の日に於いて妙法輪を転じて、即ち無量無数の有情(ウジョウ)をして遠塵離垢(オンジンリク)し、浄法眼(ジョウホウゲン)を生ぜしめ、復(マタ)無量無数の有情をして永く諸漏(ショロ)を尽くし、心慧解脱せしめ、亦無量無数の有情をして、皆無上正等菩提に於いて、不退転を得せしめん。
 是の菩薩摩訶薩、斯(コ)の事を成ぜんと欲(オモ)はば、応に般若波羅蜜を学すべし。」
 これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生(ゴウショウ)し、捨国位、成正覚、転法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり。
 

【現代語訳】
 釈尊の言うことには、「もし菩薩がこのように考えたとする。私がいつか国王の位を捨てて出家した日には、すぐに無上の悟りを成就し、その日に優れた法を説いて無数の人々を煩悩から離れさせ、物事の真実を見る眼を得させよう、また無数の人々の煩悩を永く滅ぼして、心情と智慧の迷いを解脱させよう。また無数の人々が、皆 無上の悟りに安住して退かないようにしようと。
 菩薩がこれらの事を成就しようと願うのなら、般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。
 これは釈尊が、仏になる前の最後の菩薩身としてカピラ城の王宮に生まれ、国王を継ぐ位を捨てて仏の悟りを成就し、法を説いて人々を救うという功徳を説いておられるのです。
 

《「仏」は釈尊です。その言葉の中の「我」は、「国位(国王の位)を捨てて出家する」とありますから、釈尊自身を指すのだと思われ、以下は、「菩薩摩訶薩」の気持ちであるようです。
 つまり、「菩薩摩訶薩」(釈尊の弟子たち)が、釈尊出家の暁には、自分も「無上正等菩提を成じ、…、不退転を得せしめん」と思うとしよう、そのときその菩薩は「般若波羅蜜を学すべし」…。
 「般若波羅蜜」とは、「般若は智慧であり、波羅密は成就、完成、建立等の意の言葉である。つまり、直観的に把握せられたる絶対完全なる智慧」(『全訳注』)であり、また、「涅槃の彼岸にいたるために、菩薩が修行する六種もしくは一〇種の行のうちの一つで、真理を認識するさとりの智慧」(コトバンク)。
 『提唱』が、「般若波羅蜜を学す」とは、つまり「坐禅の修行をして般若(「非常に正確な直感」)学ぶ」ことであると言いますが、ここで釈尊が言っているのは、坐禅の宣伝をしているのではなく、出家とともに、そういう遠い、しかし根本的な智慧を目標にせよという教えではなかろうかと思われます。》


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2 出家即日に成就

 仏の言はく、「復次に舎利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日法輪を転じ、転法輪の時、無量阿僧祇(アソウギ)の衆生、遠塵離垢(オンジンリク)し、諸法の中に於いて、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏(ショロ)の心解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、不退転を得んと欲はば、当に般若波羅蜜を学すべし。」
 いはゆる学般若(ガクハンニャ)菩薩とは、祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就するなり。
 しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚(ゼンナ)するにあらず。学人しるべし。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「また舎利弗や菩薩たちよ、もし出家の日に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を成就し、その日に人々のために法を説き、それによって無数の人々が煩悩を離れて、すべての物事の中に真実を見る眼を得、また無数の人々が、すべての物事に捕らわれない心を得て、さまざまな煩悩から解脱することを得、そして無数の人々が、阿耨多羅三藐三菩提に安住して退かないことを願うならば、まさに般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。
 いわゆる般若(智慧)を学ぶ菩薩とは歴代の祖師のことです。そうではありますが、阿耨多羅三藐三菩提は、必ず出家したその日に成就するのです。
 しかし、菩薩が三阿僧祇劫、無量阿僧祇劫という長い間修行するのは、迷いや悟りの有無に囚われているからではありません。仏道を学ぶ人はこのことを知りなさい。
 

《息の長い文の引用ですが、「若し出家の日」に、以下に挙げる六つのことを「不退転を得んと欲はば」という構造だと思われます。
 そして要するところ、出家即菩提であるということのようです。出家して修行して、その後に「阿耨多羅三藐三菩提」に至るのではなく、出家をしたその時に至っているのだ、と禅師は説きます。
 「しかあるに」は、ここでは逆接に訳してあります(『全訳注』も同様です)が、逆接である意味が分かりません。
 『提唱』が「おそらく鎌倉時代の初期には、…「それだから」という意味に使う例があったものと思われます」と言いますが、特にそういうことを想定しなくても、ここは、前の「いはゆる…」の一文を補足的に挿入されたものと考え、「しかあるに」からが本文で、前の「仏」の話全体を受けて、「そういうことで」と繋げていると考えればよいように思います。
 終わりのところ「有辺無辺に染汚する」は「染汚」が「よごれる、よごす(『漢語林』)で、『全訳注』が「有辺は有の辺際に執することであり、無辺は無の辺際に執することである」。その二つはまったく矛盾する。…そんな矛盾にそまるというほどの意である」と言います。「阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就する」と言ったことと修行することとが矛盾しないということを、これも補足的に語っておいた、ということでしょうか。「本来本法性 天然自性身」ならば何故に修行しなければならないか、ということが、禅師の問いの始まりであったことを思い出します。》


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1 出家者は、まさに悪を起こすべからず

 仏の言(ノタマ)はく、「夫れ出家者は、まさに悪を起こすべからず。若し悪を起こさば、則出家に非ず。出家の人は、身口相応すべし。若し相応せざれば、則出家に非ず。
 我、父母、兄弟、妻子、眷属知識を棄てて、出家修道す。正に是諸の善覚(ゼンガク)を修集する時なり。是不善覚を修集する時に非ず。
 善覚とは、一切衆生を憐愍(レンミン)すること、猶(ナオ)赤子(シャクシ)の如し。不善覚とは、此れと相違す。」
 それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり。その儀すでに出家なるがごときは、その徳いまかくのごとし。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「そもそも出家者は、悪心を起こしてはいけない。もし悪心を起こせば、それは出家とは言えない。また出家の人は、言行が一致していなければいけない。もし一致していなければ、それは出家とは言えない。
 私は父母や兄弟、妻子、親戚、知人を棄てて出家修道したが、この時に、多くの善心を修めたのであって、悪心を修めたのではない。
 善心とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことである。悪心とは、これと相反することである。」と。
 このように、そもそも出家の本性とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことです。 これがつまり悪心を起こさないことであり、言行が一致していることなのです。すでに出家の身であれば、その修めるべき徳行とはこの通りです。
 

《「憐愍一切衆生、猶如赤子」はいい言葉です。「衆生」は自分を含めてでしょうし、また人間のみならず生きとし生けるもの全てを言うのでしょう。
 この世に生きている人間は、仮に悪人であっても、「赤子」の時から悪人だったのではないのであって、生きていく過程のどこかで横道に逸れて悪を働くようになったに違いないでしょう。それはその人の運命なのであって、さればこそ、罪を憎んで人を憎まず、というような言葉も生まれるわけです。
 高校の校長を退職した後、幼稚園園長を勤めたという人から、教育生活の中でその園長時代が一番楽しかったという話を聞きました。あの幼い子たちはまさに天真爛漫、猜疑心や損得勘定もなくまっすぐで、先生、と言いながら走り寄ってくる姿に、これが人間の本来の姿なのかも知れないとつくづく思い、何とかこれをこのまま大事にして育たせることはできないものか、と思ったそうです。勿論そこにはいくらかの美化があるのでしょうが、しかしそれは多くの大人の思いに一致するでしょう。
 そして実は、大人になっての猜疑心や損得勘定も身勝手も、ほとんど実は彼の生きようとするけなげさからのものなのではないでしょうか。
 そういう衆生は、同じ衆生の目から見れば煩悩の塊ですが、仏の目から見れば愛おしまれるべきものであるということなのでしょう。「自未得度先度他」という考え方もそこから生まれます。
 そしてそういう見方こそが「すなはち不起悪」ということなのだと言います。ここの「悪」とは、「禁戒を破」(第十一章1説)って悪事を働くということとは別のことのようです。》


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2 順後次受業~5 今生のわがみ、ふたつなし、みつなし

 しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見(ショウケン)と、かたちをつくすまで学習すべし。
 まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗(キボウ)し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。
 まさにしるべし、今生(コンジョウ)のわがみ、ふたつなし、みつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業(アクゴウ)を感得せむ、をしからざらむや。
 悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟(ジャシユイ)するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。
 悪思惟によりては、きたるべき善根も、転じて悪報のきたることもあり。悪思惟は無間(ムゲン)によれり。
 

【現代語訳】
 ですから、修行者は決して誤った考えを起こしてはいけません。誤った考えとは何であるか、正しい見方とは何であるかと、一生学習しなさい。
 先ず因果を否定し、仏と法と僧を謗り、三世(過去 現在 未来)や煩悩の解脱を否定することは、皆誤った考えです。
 まさに知ることです、今生の我が身は、二つあるのでも、三つあるのでもありません。その我が身が徒に誤った考えに堕ちて、空しく悪業を感受することになれば、惜しいことではありませんか。
 悪業をつくりながらそれを悪と思わず、悪の報いなど無いと考えていても、悪の報いを受けないことはないのです。
 悪しき考えによっては、来るはずの善い果報も、悪い果報に変わることがあります。悪しき考えは、すぐに地獄に堕ちる原因なのです。
 

《「かたちをつくすまで」を『全訳注』は「はっきりするまで」と訳しています。「かたち」は「邪見」「正見」のそれぞれの姿を言っているようです。
 「今生のわがみ、ふたつなし、みつなし」は『修証義』で聞き慣れた言葉ですが、我が身は前世から現世、次世、次次世、さらには「第四生、乃至百千生」(第十二章1節)まで、途切れることのないひとつながりのものだということでしょうか。
 「悪業を感得せむ」は「悪業の果を身に受ける」(『全訳注』)。
 「悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟する」というのは、胸を突かれる言葉です。人は多く、悪を悪と承知していて行うものではなく、普通のこととして、または当然のこととして、あるいは何気なく、行ってしまうものです。
 そういう過ちを避けるには、まさしく「いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習」しておかなければならないでしょう。》


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1 順後次受業~4 作悪行の者

 作悪行(サアクギョウ)の者は、臨命終の時に順後次受の善業力(ゼンゴウリキ)故に、欻(タチマ)ちに天趣の中有ありて現前せり。
 便ち是の念を作さく、我一身の中に常に悪行を作して、未だ嘗て善を修せず。応に地獄に生まるべし。何の縁にて此の中有ありて現前するや。
 遂に邪見を起こして、善悪及び異熟果を撥無す。邪見力(ジャケンリキ)の故に、天趣の中有尋(ツ)いで即ち陰歿(オンモツ)し、地獄の中有 欻爾(タチマチ)に現前し、此れ従り命終して、地獄に生ぜり。
 この人、いけるほど、つねに悪をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず。
 「われ一生のあひだ、悪をつくれりといへども、天趣にむまれんとす、はかりしりぬ、さらに善悪なかりけり。」
 かくのごとく善悪を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに陰歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。

 

【現代語訳】
 常に悪行を為していた者は、命の終わる時に順後次受の善業力によって、たちまち天界の中有が目の前に現れました。
 そこで、自ら思うに、「私は一身の中に常に悪行を為して、未だ善を修めたことは無い。ならば地獄に生まれるはずである。何の因縁でこの天界の中有が現れたのだろうか。」と。
 そこで誤った考えを起こして善悪やその果報を否定しました。するとその不正な考えのために、天界の中有はすぐに消えて地獄の中有がたちまち現れ、命が終わると地獄に生まれました。
 この人は生きている間、常に悪業をつくり、少しも善行を修めなかっただけでなく、命が終わる時に、天界の中有が現れたのを見て、それが順後次受の報いであることを知りませんでした。
 そこで、「私は一生の間、悪業をつくってきたが、今 天界に生まれようとしている、これを推し量るに、全く善悪というものは無い。」と考えました。このように善悪を否定する誤った考えによって、天界の中有はたちまち消えて、すぐに地獄の中有が現れ、命が終わると地獄に堕ちました。これは不正な考えを起こした為に、天界の中有が消えたのです。
 

《前章の「善行を修するもの」と対になる、「作悪行の者」の話です。
 「順後次受の善業力によって」といいますから、この人は、現世では悪業を積んできたのでしたが、前世において善を積んでいたのでしょう、その功徳で、臨終に当たって、来世へは天上への道が示されたのでした。
 その時彼は思いました。現世であんなに悪いことばかりしてきたのに、次世に天界に生まれられるようだ、してみると、世の中には善悪とか、応報などということは、ありはしないのだ、…。
 そう思った瞬間に、彼は真っ逆さまに(?)地獄に落ちたのでした。
 この人がそうなったのは、仏の教えである「順後次受」ということを知らず(あるいは信じず)、そのために「善悪及び異熟果を撥無」するなどという「邪見」を抱いたからです。
 それにしても、もしも彼が「順後次受」ということを知っていて、「天趣の中有ありて現前」したときに、「順後次受の善業力」にそれに思い至ったならば、次の次の生において地獄に行かねばならないことをどう思ったのだろうかと考えてみると、内面のさまざまなドラマが考えられそうですが、それは本題とは別のことです。》


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