『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十四

2 順次生業

 むかしは老耼をもて世尊にひとしむる邪党あり、いまは孔老ともに世尊にひとしといふ愚侶(グリョ)あり、あはれまざらめやは。孔老なほ転輪聖王の十善をもて世間を化するにおよぶべからず。
 三皇五帝、いかでか金銀(コンゴン)銅鉄諸輪王の七宝千子具足して、あるいは四天下(シテンゲ)を化し、あるいは三千界を領せるにおよばん。孔子はいまだこれにも比すべからず。
 過現当来の諸仏諸祖、ともに父母、師僧、三宝に孝順し、病人等を供養するを化原とせり。害親を化原とせる、いまだむかしよりあらざるところなり。
 しかあればすなはち、老耼と仏法と、ひとつにあらず。父母を殺害(セツガイ)するは、かならず順次生業にして、泥犁(メイリ)に堕すること必定(ヒツジョウ)なり。たとひ老耼みだりに虚無を談ずとも、父母を害せんもの、生報(ショウホウ)まぬがれざらん。
 

【現代語訳】
 昔は老耼を世尊(仏)と同列に並べる邪党がいました。今では孔子老子も共に世尊と同じであると言う愚かな僧侶がいます。哀れなことです。孔子老子は、転輪聖王(三十二の好相を具えた偉大な世俗の王)が十の善行で世の中を治めることにさえ及ばないのです。
 たとえ太古の聖天子と呼ばれた三人の皇帝や五人の皇帝であっても、どうして金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王などの転輪聖王たちが七宝や千人の子息を具備して、ある人は四天下(東西南北の国土)を導き、ある人は三千界(宇宙)を治めていることに及ぶものでしょうか。孔子はまだ、この太古の聖天子にもなぞらえることは出来ないのです。
 過去 現在 未来の諸仏や諸祖師は、皆ともに父母、師僧、三宝(仏、法、僧団)に孝を尽くし、病人等を供養することを教化の基本としているのであり、親を害することを教化の基本とすることは昔から無かったのです。
 ですから、老耼と仏法は同じではありません。父母を殺害する者は、必ず次の生にその報いを受けて、必ず阿鼻地獄に堕ちるのです。たとえ老耼がむやみに虚無を説いたとしても、父母を害した者は、次の報いを免れることは出来ないのです。
 

《さて、そういう驚くべき話について解説です。禅師はこれを「かならず順次生業にして、泥犁に堕すること必定なり」と批判します。それはもちろんそうでしょうが、「父母を殺害」させる、また、実行する、という行為自体の非道さについては、何も触れず、そういうことをしたという事実を「順次生業」の例として取り上げるだけで、この出来事の驚くべき残虐さの度合いについてはあまり関心がないようです。
 たまたま昨日、禅師とほぼ同時代の『宇治拾遺物語』の絵仏師良秀の話(芥川龍之介の『地獄変』の種本)を読むことがあったのですが、そこでも、火事で焼け死ぬ妻子のことはほとんど問題にされず、もっぱら家が燃え上がっていることだけが取り上げられています。
 人が死ぬということに対しての感覚が、現代とはずいぶん違っていたのでないか、とそんな気がしてきます。ちなみに、『地獄変』の方は、火の回った車に閉じ込められた娘を中心に語られています。
 もちろんここでは「父母を殺害する」ことは否定されているのですが、それは、「順次生業」となるということ以前に、そのこと自体が十分に大罪である、ということが、もっと強調されていいような気がするのですが、…。》


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1 父母等の七人の頭を

 列伝に云はく、
 喜、周の大夫と為り星象(セイショウ)を善くす。因みに異気を見て、東にして之を迎ふ。果たして老子を得たり。請うて書五千有言を著さしむ。喜、亦自ら書九篇を著し、関令子と名づく。化胡経(ケコキョウ)に準ず。
 老、関西(カンセイ)に過(ユ)かんとす、喜、耼(タン)に従ひて去(ユ)くことを求めんと欲(ネガ)ふ。耼云はく、「若し志心に去くことを求めんと欲はば、当に父母等の七人の頭を将(モ)ち来るべし。乃ち去くことを得べし。」
 喜、乃ち教えに従ふに、七頭、皆 猪頭(チョトウ)に変ず。
 古徳云はく、
「然(シカ)あれば俗典の孝儒は尚木像を尊ぶ、老耼(ロウタン)は化(ケ)を設けて、喜をして親を害せしむ。如来の教門は、大慈を本と為す、如何(イカン)が老氏の逆を化原(ケゲン)と為さんや。」
 

【現代語訳】
 老荘の列伝に言うことには、
 尹喜(インキ)は周の国の大夫となり星の吉凶に詳しかった。ある日、特異な気配を見て東に行きこれを迎えると、予期した通り老子という人物を得た。そこで請うて五千言余りの書物を書いてもらった。
 尹喜は又、自ら九編の書を著して関令子と名づけた。
これは道家の化胡経(老子が仏となり仏教の基となったと説く)に準ずるものである。
 ある時、老耼(老子)は函谷関の西へ行こうとした。そこで尹喜は老耼に同行したいと願い出た。
 老耼が言うには、「もし本当に私と行きたいのなら、父母ら七人の頭を持ってきなさい。そうすれば同行を許す。」と。
 そこで尹喜が教えに従うと、七人の頭は皆猪の頭に変わったという。
 そこで古聖の言うには、
「老子と仏は同じと言うが、俗典の孝経儒教でも父母の木像を尊んでいるのに、老耼は猪を父母らに変化させて尹喜に親を害させた。如来(仏)の教えは大慈悲を根本としているのであり、どうして老耼の教えた逆罪を教化の基本とすることがあろうか。」と。
 

《冒頭の「列伝」については、『提唱』は『史記』の「列伝」編としていますが、『全訳注』は先にあった「止観輔行伝弘決」(第十二章)からの引用としています。孫引きと言うことになりますが、後の「古徳云はく」を含めて、そういうことなのでしょう。
 さて、そこに老子のエピソードが載っていました。初めは尹喜という人が老子に会って、心酔したという話、次いで、尹喜が老子に同行を求めた際の驚くべき出来事が語られます。
 「古徳」は、ここも「止観輔行伝弘決」の著者湛然でしょうが、その解説は、さすがにそれを「老氏の逆」と呼んでいます。
 ところで、父母等七人の頭を持って来いと言ったことも、それをそのとおりにしたことも、そしてその頭が豚だか猪だかに変じたことも、それは大変なことで、どれをとっても、何か一言あるべきところではないでしょうか。
 老子の「無為自然」とは余りにかけ離れたエピソードですが、一体どういう考えがあって、「当に父母等の七人の頭を将ち来るべし」などということを言ったのでしょうか。
 手がかりがほしくて『提唱』を読みますが、全く淡々と読み進めていて、とりつくしまもなく、それにも驚いてしまいました。》

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3 般若波羅蜜を学すべし

 仏の言(ノタマ)はく、「若し菩薩摩訶薩、是の思惟を作(ナ)さん、我何(イズ)れの時に於いてか、当に国位を捨てて、出家するの日、即ち無上正等菩提を成じ、還(マ)た是の日に於いて妙法輪を転じて、即ち無量無数の有情(ウジョウ)をして遠塵離垢(オンジンリク)し、浄法眼(ジョウホウゲン)を生ぜしめ、復(マタ)無量無数の有情をして永く諸漏(ショロ)を尽くし、心慧解脱せしめ、亦無量無数の有情をして、皆無上正等菩提に於いて、不退転を得せしめん。
 是の菩薩摩訶薩、斯(コ)の事を成ぜんと欲(オモ)はば、応に般若波羅蜜を学すべし。」
 これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生(ゴウショウ)し、捨国位、成正覚、転法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり。
 

【現代語訳】
 釈尊の言うことには、「もし菩薩がこのように考えたとする。私がいつか国王の位を捨てて出家した日には、すぐに無上の悟りを成就し、その日に優れた法を説いて無数の人々を煩悩から離れさせ、物事の真実を見る眼を得させよう、また無数の人々の煩悩を永く滅ぼして、心情と智慧の迷いを解脱させよう。また無数の人々が、皆 無上の悟りに安住して退かないようにしようと。
 菩薩がこれらの事を成就しようと願うのなら、般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。
 これは釈尊が、仏になる前の最後の菩薩身としてカピラ城の王宮に生まれ、国王を継ぐ位を捨てて仏の悟りを成就し、法を説いて人々を救うという功徳を説いておられるのです。
 

《「仏」は釈尊です。その言葉の中の「我」は、「国位(国王の位)を捨てて出家する」とありますから、釈尊自身を指すのだと思われ、以下は、「菩薩摩訶薩」の気持ちであるようです。
 つまり、「菩薩摩訶薩」(釈尊の弟子たち)が、釈尊出家の暁には、自分も「無上正等菩提を成じ、…、不退転を得せしめん」と思うとしよう、そのときその菩薩は「般若波羅蜜を学すべし」…。
 「般若波羅蜜」とは、「般若は智慧であり、波羅密は成就、完成、建立等の意の言葉である。つまり、直観的に把握せられたる絶対完全なる智慧」(『全訳注』)であり、また、「涅槃の彼岸にいたるために、菩薩が修行する六種もしくは一〇種の行のうちの一つで、真理を認識するさとりの智慧」(コトバンク)。
 『提唱』が、「般若波羅蜜を学す」とは、つまり「坐禅の修行をして般若(「非常に正確な直感」)学ぶ」ことであると言いますが、ここで釈尊が言っているのは、坐禅の宣伝をしているのではなく、出家とともに、そういう遠い、しかし根本的な智慧を目標にせよという教えではなかろうかと思われます。》


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2 出家即日に成就

 仏の言はく、「復次に舎利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日法輪を転じ、転法輪の時、無量阿僧祇(アソウギ)の衆生、遠塵離垢(オンジンリク)し、諸法の中に於いて、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏(ショロ)の心解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、不退転を得んと欲はば、当に般若波羅蜜を学すべし。」
 いはゆる学般若(ガクハンニャ)菩薩とは、祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就するなり。
 しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚(ゼンナ)するにあらず。学人しるべし。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「また舎利弗や菩薩たちよ、もし出家の日に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を成就し、その日に人々のために法を説き、それによって無数の人々が煩悩を離れて、すべての物事の中に真実を見る眼を得、また無数の人々が、すべての物事に捕らわれない心を得て、さまざまな煩悩から解脱することを得、そして無数の人々が、阿耨多羅三藐三菩提に安住して退かないことを願うならば、まさに般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。
 いわゆる般若(智慧)を学ぶ菩薩とは歴代の祖師のことです。そうではありますが、阿耨多羅三藐三菩提は、必ず出家したその日に成就するのです。
 しかし、菩薩が三阿僧祇劫、無量阿僧祇劫という長い間修行するのは、迷いや悟りの有無に囚われているからではありません。仏道を学ぶ人はこのことを知りなさい。
 

《息の長い文の引用ですが、「若し出家の日」に、以下に挙げる六つのことを「不退転を得んと欲はば」という構造だと思われます。
 そして要するところ、出家即菩提であるということのようです。出家して修行して、その後に「阿耨多羅三藐三菩提」に至るのではなく、出家をしたその時に至っているのだ、と禅師は説きます。
 「しかあるに」は、ここでは逆接に訳してあります(『全訳注』も同様です)が、逆接である意味が分かりません。
 『提唱』が「おそらく鎌倉時代の初期には、…「それだから」という意味に使う例があったものと思われます」と言いますが、特にそういうことを想定しなくても、ここは、前の「いはゆる…」の一文を補足的に挿入されたものと考え、「しかあるに」からが本文で、前の「仏」の話全体を受けて、「そういうことで」と繋げていると考えればよいように思います。
 終わりのところ「有辺無辺に染汚する」は「染汚」が「よごれる、よごす(『漢語林』)で、『全訳注』が「有辺は有の辺際に執することであり、無辺は無の辺際に執することである」。その二つはまったく矛盾する。…そんな矛盾にそまるというほどの意である」と言います。「阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就する」と言ったことと修行することとが矛盾しないということを、これも補足的に語っておいた、ということでしょうか。「本来本法性 天然自性身」ならば何故に修行しなければならないか、ということが、禅師の問いの始まりであったことを思い出します。》


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1 出家者は、まさに悪を起こすべからず

 仏の言(ノタマ)はく、「夫れ出家者は、まさに悪を起こすべからず。若し悪を起こさば、則出家に非ず。出家の人は、身口相応すべし。若し相応せざれば、則出家に非ず。
 我、父母、兄弟、妻子、眷属知識を棄てて、出家修道す。正に是諸の善覚(ゼンガク)を修集する時なり。是不善覚を修集する時に非ず。
 善覚とは、一切衆生を憐愍(レンミン)すること、猶(ナオ)赤子(シャクシ)の如し。不善覚とは、此れと相違す。」
 それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり。その儀すでに出家なるがごときは、その徳いまかくのごとし。
 

【現代語訳】
 釈尊が言うことには、「そもそも出家者は、悪心を起こしてはいけない。もし悪心を起こせば、それは出家とは言えない。また出家の人は、言行が一致していなければいけない。もし一致していなければ、それは出家とは言えない。
 私は父母や兄弟、妻子、親戚、知人を棄てて出家修道したが、この時に、多くの善心を修めたのであって、悪心を修めたのではない。
 善心とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことである。悪心とは、これと相反することである。」と。
 このように、そもそも出家の本性とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことです。 これがつまり悪心を起こさないことであり、言行が一致していることなのです。すでに出家の身であれば、その修めるべき徳行とはこの通りです。
 

《「憐愍一切衆生、猶如赤子」はいい言葉です。「衆生」は自分を含めてでしょうし、また人間のみならず生きとし生けるもの全てを言うのでしょう。
 この世に生きている人間は、仮に悪人であっても、「赤子」の時から悪人だったのではないのであって、生きていく過程のどこかで横道に逸れて悪を働くようになったに違いないでしょう。それはその人の運命なのであって、さればこそ、罪を憎んで人を憎まず、というような言葉も生まれるわけです。
 高校の校長を退職した後、幼稚園園長を勤めたという人から、教育生活の中でその園長時代が一番楽しかったという話を聞きました。あの幼い子たちはまさに天真爛漫、猜疑心や損得勘定もなくまっすぐで、先生、と言いながら走り寄ってくる姿に、これが人間の本来の姿なのかも知れないとつくづく思い、何とかこれをこのまま大事にして育たせることはできないものか、と思ったそうです。勿論そこにはいくらかの美化があるのでしょうが、しかしそれは多くの大人の思いに一致するでしょう。
 そして実は、大人になっての猜疑心や損得勘定も身勝手も、ほとんど実は彼の生きようとするけなげさからのものなのではないでしょうか。
 そういう衆生は、同じ衆生の目から見れば煩悩の塊ですが、仏の目から見れば愛おしまれるべきものであるということなのでしょう。「自未得度先度他」という考え方もそこから生まれます。
 そしてそういう見方こそが「すなはち不起悪」ということなのだと言います。ここの「悪」とは、「禁戒を破」(第十一章1説)って悪事を働くということとは別のことのようです。》


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