しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見(ショウケン)と、かたちをつくすまで学習すべし。
まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗(キボウ)し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。
まさにしるべし、今生(コンジョウ)のわがみ、ふたつなし、みつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業(アクゴウ)を感得せむ、をしからざらむや。
悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟(ジャシユイ)するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。
悪思惟によりては、きたるべき善根も、転じて悪報のきたることもあり。悪思惟は無間(ムゲン)によれり。
【現代語訳】
ですから、修行者は決して誤った考えを起こしてはいけません。誤った考えとは何であるか、正しい見方とは何であるかと、一生学習しなさい。
先ず因果を否定し、仏と法と僧を謗り、三世(過去 現在 未来)や煩悩の解脱を否定することは、皆誤った考えです。
まさに知ることです、今生の我が身は、二つあるのでも、三つあるのでもありません。その我が身が徒に誤った考えに堕ちて、空しく悪業を感受することになれば、惜しいことではありませんか。
悪業をつくりながらそれを悪と思わず、悪の報いなど無いと考えていても、悪の報いを受けないことはないのです。
悪しき考えによっては、来るはずの善い果報も、悪い果報に変わることがあります。悪しき考えは、すぐに地獄に堕ちる原因なのです。
《「かたちをつくすまで」を『全訳注』は「はっきりするまで」と訳しています。「かたち」は「邪見」「正見」のそれぞれの姿を言っているようです。
「今生のわがみ、ふたつなし、みつなし」は『修証義』で聞き慣れた言葉ですが、我が身は前世から現世、次世、次次世、さらには「第四生、乃至百千生」(第十二章1節)まで、途切れることのないひとつながりのものだということでしょうか。
「悪業を感得せむ」は「悪業の果を身に受ける」(『全訳注』)。
「悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟する」というのは、胸を突かれる言葉です。人は多く、悪を悪と承知していて行うものではなく、普通のこととして、または当然のこととして、あるいは何気なく、行ってしまうものです。
そういう過ちを避けるには、まさしく「いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習」しておかなければならないでしょう。》