『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十四

2 順後次受業~5 今生のわがみ、ふたつなし、みつなし

 しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見(ショウケン)と、かたちをつくすまで学習すべし。
 まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗(キボウ)し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。
 まさにしるべし、今生(コンジョウ)のわがみ、ふたつなし、みつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業(アクゴウ)を感得せむ、をしからざらむや。
 悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟(ジャシユイ)するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。
 悪思惟によりては、きたるべき善根も、転じて悪報のきたることもあり。悪思惟は無間(ムゲン)によれり。
 

【現代語訳】
 ですから、修行者は決して誤った考えを起こしてはいけません。誤った考えとは何であるか、正しい見方とは何であるかと、一生学習しなさい。
 先ず因果を否定し、仏と法と僧を謗り、三世(過去 現在 未来)や煩悩の解脱を否定することは、皆誤った考えです。
 まさに知ることです、今生の我が身は、二つあるのでも、三つあるのでもありません。その我が身が徒に誤った考えに堕ちて、空しく悪業を感受することになれば、惜しいことではありませんか。
 悪業をつくりながらそれを悪と思わず、悪の報いなど無いと考えていても、悪の報いを受けないことはないのです。
 悪しき考えによっては、来るはずの善い果報も、悪い果報に変わることがあります。悪しき考えは、すぐに地獄に堕ちる原因なのです。
 

《「かたちをつくすまで」を『全訳注』は「はっきりするまで」と訳しています。「かたち」は「邪見」「正見」のそれぞれの姿を言っているようです。
 「今生のわがみ、ふたつなし、みつなし」は『修証義』で聞き慣れた言葉ですが、我が身は前世から現世、次世、次次世、さらには「第四生、乃至百千生」(第十二章1節)まで、途切れることのないひとつながりのものだということでしょうか。
 「悪業を感得せむ」は「悪業の果を身に受ける」(『全訳注』)。
 「悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟する」というのは、胸を突かれる言葉です。人は多く、悪を悪と承知していて行うものではなく、普通のこととして、または当然のこととして、あるいは何気なく、行ってしまうものです。
 そういう過ちを避けるには、まさしく「いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習」しておかなければならないでしょう。》


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1 順後次受業~4 作悪行の者

 作悪行(サアクギョウ)の者は、臨命終の時に順後次受の善業力(ゼンゴウリキ)故に、欻(タチマ)ちに天趣の中有ありて現前せり。
 便ち是の念を作さく、我一身の中に常に悪行を作して、未だ嘗て善を修せず。応に地獄に生まるべし。何の縁にて此の中有ありて現前するや。
 遂に邪見を起こして、善悪及び異熟果を撥無す。邪見力(ジャケンリキ)の故に、天趣の中有尋(ツ)いで即ち陰歿(オンモツ)し、地獄の中有 欻爾(タチマチ)に現前し、此れ従り命終して、地獄に生ぜり。
 この人、いけるほど、つねに悪をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず。
 「われ一生のあひだ、悪をつくれりといへども、天趣にむまれんとす、はかりしりぬ、さらに善悪なかりけり。」
 かくのごとく善悪を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに陰歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。

 

【現代語訳】
 常に悪行を為していた者は、命の終わる時に順後次受の善業力によって、たちまち天界の中有が目の前に現れました。
 そこで、自ら思うに、「私は一身の中に常に悪行を為して、未だ善を修めたことは無い。ならば地獄に生まれるはずである。何の因縁でこの天界の中有が現れたのだろうか。」と。
 そこで誤った考えを起こして善悪やその果報を否定しました。するとその不正な考えのために、天界の中有はすぐに消えて地獄の中有がたちまち現れ、命が終わると地獄に生まれました。
 この人は生きている間、常に悪業をつくり、少しも善行を修めなかっただけでなく、命が終わる時に、天界の中有が現れたのを見て、それが順後次受の報いであることを知りませんでした。
 そこで、「私は一生の間、悪業をつくってきたが、今 天界に生まれようとしている、これを推し量るに、全く善悪というものは無い。」と考えました。このように善悪を否定する誤った考えによって、天界の中有はたちまち消えて、すぐに地獄の中有が現れ、命が終わると地獄に堕ちました。これは不正な考えを起こした為に、天界の中有が消えたのです。
 

《前章の「善行を修するもの」と対になる、「作悪行の者」の話です。
 「順後次受の善業力によって」といいますから、この人は、現世では悪業を積んできたのでしたが、前世において善を積んでいたのでしょう、その功徳で、臨終に当たって、来世へは天上への道が示されたのでした。
 その時彼は思いました。現世であんなに悪いことばかりしてきたのに、次世に天界に生まれられるようだ、してみると、世の中には善悪とか、応報などということは、ありはしないのだ、…。
 そう思った瞬間に、彼は真っ逆さまに(?)地獄に落ちたのでした。
 この人がそうなったのは、仏の教えである「順後次受」ということを知らず(あるいは信じず)、そのために「善悪及び異熟果を撥無」するなどという「邪見」を抱いたからです。
 それにしても、もしも彼が「順後次受」ということを知っていて、「天趣の中有ありて現前」したときに、「順後次受の善業力」にそれに思い至ったならば、次の次の生において地獄に行かねばならないことをどう思ったのだろうかと考えてみると、内面のさまざまなドラマが考えられそうですが、それは本題とは別のことです。》


2 慧可~3

 身をかへりみて身をかへりみる。自惟(ジユイ)すらく、「昔の人、道を求むるに、骨を敲(ウ)ちて髄を取り、血を刺して饑(ウエ)たるを済(スク)う。髪を布きて泥(デイ)を淹(オオ)ひ、崖(キシ)に投げて虎に飼ふ。古(イニシ)へ尚此(カク)の若し、我又、何人ぞ。」
 かくのごとくおもふに、志気(シイキ)いよいよ励志あり。
 いまいふ古尚若此(コショウニャクシ)、我又何人(ガウカジン)を、晩進もわすれざるべきなり。しばらくこれをわするるとき、永劫(ヨウゴウ)の沈溺(チンデキ)あるなり。
 かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。澡雪の操を操とせざるによりてしかありけるなるべし。
 遅明のよるの消息、はからんとするに肝胆もくだけぬるがごとし、ただ身毛の寒怕(カン)せらるるのみなり。
 

【現代語訳】
 慧可は何度も我が身を省みて、自ら思うのでした。
「昔の人は、道を求めるのに自分の骨をたたいて髄を取り出したり、或いは、飢えた者を救うのに自分の身を刺して血を与えたり、或いは、仏の為に自分の髪を泥の上に敷いたり、或いは、法の為に崖から身を投げて飢えた虎に与えたりしたという。昔の人でさえ、このようにされたのである。ならば私は一体どんな人間なのか。」
 このように考えて、慧可は求道の志をいよいよ励ましたのです。
 今言うところの、「古尚若此、我又何人」という言葉を、晩学後進の人も忘れてはいけません。少しでもこれを忘れれば、永劫に苦界に沈むことになるのです。
 慧可はこのように自ら考えて、法を求め、道を求める志だけが積み重なったのです。雪を浴びることを、問題にしなかったので、そうなったのでしょう。(この訳不確実)
 夜明けの遅い厳冬の夜の寒さは、推測するに心も砕けてしまうほどであったでしょう。思えばただ身の毛もよだつばかりです。
 

《さて、「(達磨の元への)参向を全く無視し、拒否」された慧可は、古人の道を求めるすさまじい振る舞いを思い返し、腰まで雪に埋もれて立ち尽くしたまま、自らの内心に、「我又、何人ぞ」と問いかけます。
 そして「志気いよいよ励志あり」と、自身に確信を持ちます。
 「澡雪の…」についての「この訳不確実」の書き込みはS『試み』の著者自身のものです。ちなみに澡雪」は『行持』によれば「あらいすすぐ」だといいます。「澡」は、あらう意ですから、「雪」を、雪ではなく、すすぐと読んで、「自分の心の汚れを洗い清めようとする、堅い、変わらぬ志」と訳しています。
 続けて『行持』は「『操』は、すなわちそうした志し。『操を操とせざる』とは、自己の迷いを澡雪しようと修行する志をわが志としていることをも全く捨て去ってしまうこと」と言います。
 『全訳注』はこの部分を「雪を浴びる苦しみを少しも苦しみとしなかったからであろう」と訳してい、結局は同じ内容になると思われます。
 平たく言えば、この雪の冷たさなど、古人の辛苦に比べれば、何ほどのことでもないと考えたので、今自分はここでこのつらさに耐えて頑張らなくてはならないという気持ちも忘れて、ただひたすら求道にだけ思いを凝らすことができたのだ、というようなことでしょうか。
 そうして彼は厳寒の中に一晩立ち尽くしたのでした。》


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1 慧可~2

 このとき窮臈(キュウロウ)寒天なり、十二月初九夜といふ。天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜(トウヤ)は、おもひやるに人物の窓前に立地すべきにあらず。竹節なほ破す、おそれつべき時候なり。
 しかあるに、大雪匝地(ソウチ)、埋山沈峰(マイサンチンホウ)なり。破雪して道(ドウ)をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。
 つゐに祖室にとづくといへども、入室(ニッシツ)ゆるされず、顧眄(コメン)せざるがごとし。
 この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。堅立(ケンリュウ)不動にしてあくるをまつに、夜雪(ヤセツ)なさけなきがごとし。ややつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴滴こほる。なみだをみるになみだをかさぬ。
 

【現代語訳】
 慧可が達磨大師を訪ねた時期は、年の瀬の寒い季節、十二月初旬 九日の夜であったと言います。大雪が降らなくても、深山高峰の冬の夜は、想像するに、とても人間が窓の外に立っていられる所とは思えません。寒さで竹の節さえ割れるという恐ろしい時候です。
 しかもその日は大雪が地に満ちて、山を埋め峰を没するほどでした。雪をかき分けて道を求めることに、どれほど多くの困難が伴ったことでしょう。
 そうして慧可は、遂に達磨の部屋に行き着いたのですが、師は部屋に入ることを許さず、慧可を顧みることさえしなかったのです。
 慧可はこの夜、眠らず、坐らず、休むことはありませんでした。じっと立って夜明けを待つ慧可に、夜の雪は情けのない者のように降るのでした。雪がだんだん積もって腰を埋める間、落ちる涙の一滴一滴は凍り、その涙を見てまた涙を重ねるのでした。
 

《禅師がこれを語るのにその元とした『景徳伝燈録』の、このあたりの消息を伝える記述は、わずがに「天ニ大イニ雪雨ル。光、堅ク立チテ動カズ。遅明、積雪、膝ヲ過グ」とあるだけだそうです(『行持』)から、その他の叙述は禅師の想像力による加筆ということになります。
 慧可の禅史に残る有名なエピソードの始まりですが、その中心は次章のこととして、まずは辿った雪山がいかに「嶮難」であったかが語られ、次いで、迎える側、「達磨の厳酷とも、冷厳ともいえる、修行者慧可への試練」(『行持』)が語られます。
 その「慧可の参向を全く無視し、拒否した態度こそ、慧可の内に潜む求道心を発露させるための必然的過程であったと思われる」と『行持』が言います。終わりの慧可の「なみだ」は、寒さに耐えかねての涙でもあるでしょうが、それ以上に自分の願いが叶えられない悲しみと考えなくてはならないでしょう。
 私事の思い出で恐縮ですが、大学の卒論の口頭試問の時に、私が担当教授(中村光夫先生)の部屋の前で順番を待っていると、部屋の中から、私の前の学生(彼は在学中に仏和辞典を二冊使い潰して三冊目を使っていると学生間で噂になっていたのでした)を激しく叱りつける教授の大声が聞こえてきて、厳しい人だとは承知していたものの、改めてびびったものでした。
 しかし入れ替わって入った私には思いのほか優しく、「書き残したと思うことはないかね」とまで訊いてもらえて、ほっとして退出しました。
結果、私は何事もなく卒業させてもらいましたが、後に、私の前の彼は、実はその春、中村教授の下に大学院生として残ったのだったという話を聞き、さらに後年、同君が某国立大学で仏文学の名物教授として教鞭を執っていたことが分かり、不肖の弟子には優しく、愛弟子と思えばこその厳しい叱咤だったのだと思い至って、なるほど、指導とはそういうふうにするものなのだと、先生への敬意を改めて強くして、今に至っています。》



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3 法常~5

 これよりのちに、なほ山奥(サンオウ)へいらんとせしちなみに、有頌(ウジョ)するにいはく、
 「一池(イッチ)の荷葉(カヨウ)、衣(キ)るに尽くること無し。
  数樹の松華、食(ジキ)するに余り有り。
  剛(カエッ)て、世人(セニン)に住処を知られて、
  更に茅舎(ボウシャ)を移して深居に入る。」
 つひに庵を山奥にうつす。
 

【現代語訳】
 その後、法常禅師は、さらに山奥へ入ろうとして、詩を作って言うに、
 「この池の蓮の葉は、衣にするには十分であり、
  数本の松の実は、食べきれないほどである。
  しかし、世間に住みかを知られてしまったので、
  更に草庵を移して山奥に住むとしよう。」
 そしてついに庵を山奥へ移しました。

 

《古く「尭から天子の位を譲ろうといわれた隠士許由が、汚れた話を聞いたといって潁水で耳を洗い清めたという故事」(コトバンク)がありますが、ここの常法もそういう気持ちだった、ということでしょうか。なお、この許由の逸話には続編があるそうで、許由のその振る舞いを見ていた牛飼いの巣父という人が、そんな汚れた水は牛にも飲ませられないと牛を連れ去ったのだそうですが、そこまでやられると、もう、笑うしかなくなります。
 ところで、『行持』によれば、ここの詩は、「これまで大梅常法の作と考えられてきたが、実は、盛唐の隠者、許宣平の作であることが、柳田聖山氏により明らかにされている」のだそうです。》


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