『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

袈裟功徳

2 

 大宋嘉定十七年癸未(ミズノトミ)十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。
 この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士(モンガクシ)なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂(ハツウ)なし、俗人(ゾクニン)のごとし。
 あはれむべし、比丘形(ビクギョウ)なりといへども、比丘法なし。小国辺地のしかあらしむるならん。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。
 釈迦牟尼仏、十二年中頂戴してさしおきましまさざりき。すでに遠孫(オンソン)なり、これを学すべし。いたづらに名利のために、天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門をめぐらして、仏衣頂戴に回向(エコウ)せん、よろこぶべきなり。
 

ときに仁治元年 庚子(カノエネ)開冬日、在観音導利興聖宝林寺示衆。
 建長七年 乙卯(キノトウ)夏安居(ゲアンゴ)日、令義演書記書写畢。同七月初五日一校了、以御草案為本。
 建治元年 丙子(ヒノエネ)五月二十五日、書写了。
 

【現代語訳】
 大宋国の嘉定十七年十月に、高麗(朝鮮)の僧二人が慶元府にやって来ました。一人は智玄という名で、もう一人は景雲といいました。
 この二人は、しきりに仏や経の道理を論じていましたが、それは経文を学ぶ僧でした。しかし、僧の護持すべき袈裟が無く、鉢盂(食事に使う鉢)が無いことは、俗人と変わらなかったのです。
 哀れなことに、彼らは僧形であっても、僧としての基本を身に着けていなかったのです。きっと遠方の小国辺地の僧だからでしょう。日本国の僧形の仲間も、他国へ行けば、又この智玄等と同様なのでしょう。
 釈尊は、苦行の十二年間、仏袈裟を頭上に押し頂いて大切にされました。既に我々は釈尊の遠孫なのですから、これに学びなさい。我々は、徒らに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する考えを改めて、仏袈裟を頭上に押し頂くことに心を向けることを、喜ぶべきなのです。
 

時に仁治元年、冬の初めの日、観音導利興聖宝林寺で衆僧に説示する。
 建長七年、夏安居の日、義演書記に書写させ終わる。同年七月五日、一度校正し終わり、御草案を本にする。
 建治元年五月二十五日、書写し終わる。
 

《巻の最後を戒めで結びます。正伝の袈裟の尊さを語り、袈裟の本来の体色量を語り、袈裟を掛けることの功徳を語り、修行のあるべき姿を語り来たって、最後に、しかしお前たちはいまそのままそのような仏法の高みにいるのだと思ってはならない、あくまで「袈裟」をつけ、「鉢」を持って初めて僧であるのだと、いわば釘を刺します。
 居並ぶ僧たちは急に我が身のほどを突きつけられて、先ほどまで格調高い話と同じ高みにいるような気がしていたところから、一挙に身の回りの現実に引き戻されて、目指すところの遠さに居住まいを正す、といったところでしょうか。
 

次は「仏性」巻を読んでみます。》

1 袈裟正伝の功徳

 1 ときにひそかに発願(ホツガン)す、「いかにしてかわれ不肖なりといふとも、仏法の嫡嗣(テキシ)となり、正法を正伝して、郷土の衆生をあはれむに、仏祖正伝の衣法を見聞せしめん。」
 かのときの発願いまむなしからず、袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし、歓喜するところなり。
 受持袈裟のともがら、かならず日夜に頂戴すべし、殊勝最勝の功徳なるべし。
 一句一偈の見聞は、若樹若石(ニャクジュニャクセキ)の見聞、あまねく九道(キュウドウ)にかぎらざるべし。袈裟正伝の功徳、わづかに一日一夜なりとも、最勝最上なるべし。
  

【現代語訳】
 そして、その時 密かに発願しました。「私は愚かな人間ではあるが、仏法の嫡子となって正法を伝え、郷土の人々を哀れんで、皆に仏や祖師が正しく伝えて来た袈裟や法のことを教えてあげよう。」と。
 その時の発願は、今無駄ではありません。今では袈裟を護持する在家や出家の菩薩(修行者)が多くいて、私の大きな喜びとなっているからです。
 ですから、袈裟を護持する者たちは、必ず日夜に袈裟を頭上に押し頂いて敬いなさい。袈裟を護持することは最上の優れた功徳なのです。
 ほんの少しの経を聞くとは、樹木や石の経を聞くことであって、それは広く人間の好む世界に限るものではないのです。このように、袈裟を正しく伝え護持する功徳は、それがたった一日一夜であったとしても、最も優れた最上のものなのです。(この訳不確実)
  

《訳の末尾の「この訳不確実」はサイトにあるもので、難渋されたようですが、確かに終わりの一段落が分かりにくく思われます。
 「若樹若石」は、「若しくは樹、若しくは石」(『提唱』)で、その昔雪山童子(釈尊の前身と言われる)が鬼から「諸行無常 是生滅法」という言葉を聞いて、その続きの語句を身を賭して尋ね聞いて、その時鬼が教えてくれた詩句(生滅滅已 寂滅為楽)を樹や石に書き残した(誰でも目にすることができるように、という意図でしょうか)という逸話を指す言葉だそうです。
 次の「九道」は「この三界・五趣のなかにあって、生けるものの住むところは九処であるという。われらの住む世界というほどの意」(『全訳注』)だそうで、その二つのことをつなげると、わずかな教えを受けることはたいへんなことではあるが、われわれの生きる世界だけではなく、どこででも起こることである、というようになりそうです。
 それに対して、袈裟の正伝を受けるということは、「どこにも滅多にあることではない。されば、袈裟を受持することわずか一日一夜なりとも、なおその功徳は最高のものである」(『全訳注』)ということになるようです。》 

合掌恭敬


  予、在宋のそのかみ、長連牀(チョウレンジョウ)に功夫(クフウ)せしとき、斉肩の隣単をみるに、開静(カイショウ)のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬(クギョウ)し、一偈を黙誦(モクジュ)す。
 その偈にいはく、「大哉解脱服、無相福田衣、被奉如来教、広度諸衆生。」
 ときに予、未曾見のおもひを生じ、歓喜みにあまり、感涙ひそかにおちて衣襟(エキン)をひたす。
 その旨趣は、そのかみ阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟の文(モン)をみるといへども、その儀則をいまだあきらめず。
 いままのあたりみる、歓喜随喜し、ひそかにおもはく、
「あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すすむる善友あらず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる。かなしまざらめやは。
 いまの見(ケンモン)するところ、宿善よろこぶべし。もしいたづらに郷間にあらば、いかでかまさしく仏衣を相承著用せる僧宝(ソウボウ)に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千万行。」
 

【現代語訳】
  私が宋国にいたその頃、道場の僧堂で修行している時に、私と肩を並べていた隣の僧が、坐禅の終わる度に袈裟を捧げて頭上に載せ、合掌し敬って一つの偈文を黙唱しているのを見ました。
 その偈文とは、「大いなるかな解脱の服よ、一切の執着を離れた衣、福を与える田の衣よ、この如来の教えを身に着けたてまつりて、すべての人々を悟りの世界へ渡そう。」でした。
 その時に私は、初めてそれを見ることが出来たという思いで、歓喜のあまり感激の涙が人知れず落ちて衣のえりを濡らしました。
 その訳は、昔 阿含経を読んだ時に、袈裟を頭上に押し頂く文を見たのですが、その作法が分かりませんでした。
 今それを目の前で見て、歓喜して密かに思ったのです。「悲しいことに、私が郷土にいた時には、袈裟の作法を教えてくれる師匠はいないし、袈裟を勧める善友もいなかった。そのために、どれほど多くの時を無駄に過ごしてしまったことか。それが残念であり悲しく思う。
 それを今知ることが出来たのは、きっと前世の善根のお蔭であろう。喜ばしいことである。もし無駄に郷土に留まっていれば、このように、正しく袈裟を受け継いで着用する僧と、隣に肩を並べることは無かったであろう。この感激は並ではなく、涙が止めどなく流れるばかりだ。」と。

 

《「袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し」は、読むだけではなんでもないところですが、『読む』が、その姿を写真にして載せているのを見ると、本当に畳んだ袈裟を菅笠のように頭に載せて(それはあたかも温泉につかって畳んだタオルを頭に載せた形に酷似しています)合掌している姿で、失礼ながらかなり滑稽に見えます。普通なら捧げ持って礼拝する、といったくらいではないでしょうか。
 語られているのは、おそらく禅師が初めて天童山の長連牀(坐禅堂)で坐った時のことでしょうが、初めて見て、笑わないで、即座に「歓喜みにあまり、感涙ひそかにおち」たというのは、実は、そういう作法が、阿含経に書かれてあるようで、それを以前読んで、知っていたからでした。
 それを今、目の当たりにしての感激だったのです。何事によらず、古くから伝えられてきたことが大まじめにそのままの形で行われている時、いくらか滑稽感を伴う、というのはよくあることです。しかし、その形の意味を承知している人にとっては、その形のままに行われていること自体がすばらしいことに思え、その姿が美しく思えるというのも、理解できることです。
 相撲の塵手水を切ったり、四股を踏むのも、また、歌舞伎で見得を切るのも、何も知らずにいきなり見たら、何を大袈裟な、と思ってしまうでしょう。野球のユニフォームを、なんとおかしな服を考えたものだ、と言った友人がいます。
 日本では見ることがなかったらしいその所作を見た禅師は、伝統の重さを感じて、袈裟の精神への恭敬の思いを新たにし、すっかり感銘を受けたのでした。》

2 正伝の糞掃衣

 かくのごときの糞掃、および浄命よりえたるところは、絹にあらず、布にあらず。金銀(コンゴン)珠玉、綾羅錦繍等にあらず、ただこれ糞掃衣なり。
 この糞掃は、弊衣のためにあらず、美服のためにあらず、ただこれ仏法のためなり。
 これを用著(ヨウチャク)する、すなはち三世の諸仏の皮肉骨髄を正伝せるなり、正法眼蔵を正伝せるなり。
 この功徳(クドク)、さらに人天に問著(モンジャク)すべからず、仏祖に参学すべし。

 正法眼蔵 袈裟功徳

【現代語訳】
 このようなぼろ切れや、清浄な生活で得たものは、絹でも麻や綿でもありません。金銀 珠玉や綾羅 錦繍などでもなく、もっぱらこれは糞掃衣と言うべきものです。
 この糞掃衣は、破れ衣のためでも美服のためでもなく、ただ仏法のためにあるのです。
 これを着用することは、過去現在未来の仏たちの皮肉骨髄を正しく伝えることであり、仏法の真髄を正しく伝えることなのです。
 この袈裟の功徳を学ぶには、決して人々に尋ねてはいけません。このことは仏や祖師に学びなさい。
 

さて、このようにして得られた布は、ぼろ布であろうと、綾羅錦繍であろうと、そういう布の名前を失って、ただ糞掃衣なのだ、…このことも先の第十一章2、3節にありました。
 そういう袈裟を身にまとうことは、それはそのまま直ちに「正法眼蔵を正伝せる」ことなのだ、と禅師は言います。形が人を作る、ということでしょうか、その糞掃衣を身につけることが彼を仏徒にするということでしょう。
 先にも書きましたが、人は心をただそうとしても、心に直接的に働きかけることは、実は大変難しい、むしろ形から入る方が易しいし、それさえしておればいいという安心感があります(第三十一章)。もちろんそれは、ただ形だけに終わってしまう恐れもありますが、形はただすがって立つ杖なのであって、行く先を目指して歩を進めるのは自分だということを忘れなければ、そうした過ちに陥ることはないでしょう。
 ところで、これまで幾度か見てきたように、このようにこの巻には、重複する内容があちこちにあります。『読む』によれば「道元禅師は『伝衣』巻に手を入れ、書き加えて『袈裟功徳』を書かれた」のだそうで、二つの巻の末尾にある日付は同じ日になっていますから、あるいはそういうことが理由なのかもしれません。
 
この袈裟功徳の巻は一応ここまでが本文であるようで、この後は禅師の感慨が語られています。


1 日本の糞掃衣

 しかあればすなはち、この糞掃衣は、人天龍等のおもくし、擁護するところなり。これをひろうて袈裟をつくるべし。これ最第一の浄財なり、最第一の清浄なり。
いま日本国、かくのごとくの糞掃衣なし。たとひもとめんとすともあふべからず、辺地小国かなしむべし。
 ただ檀那所施(ショセ)の浄財、これをもちゐるべし。人天の布施するところの浄財、これをもちゐるべし。
 あるいは浄命(ジョウミョウ)よりうるところのものをもて、いちにして貿易(ムヤク)せらん、またこれ袈裟につくりつべし。

 【現代語訳】
 そのために、この糞掃衣は、人間、天人、龍神などが重んじて守って来たのです。ですから、この糞掃(ぼろ布)を拾って袈裟を作りなさい。これが最も第一の清浄な衣材であり、最も第一の清浄な袈裟なのです。
 今の日本国には、このような糞掃衣はありません。たとえ求めようとしても出会うことが出来ないのです。この国が、糞掃衣の伝わらない辺地の小国であることは悲しいことです。
 ですから今は、ただ施主の施す清浄な衣材を用いて袈裟を作りなさい。人々の布施する清浄な衣材を用いて袈裟を作りなさい。
 或いは、清浄な生活で得たものによって、市で衣材を買い求めて袈裟を作りなさい。
 

《「いま日本国、かくのごとくの糞掃衣なし」というのがよく分かりません。
 『読む』は「鎌倉時代の日本は貧乏であった。『今昔物語』の「羅城門」の話のように、飢饉や疫病で死んだ人の着物をはぎ、髪の毛を抜いて生活の糧にする人もいた」と言って、多くの人がぼろ布をあさったので、糞掃が手に入らなかったのだ、といった口ぶりですが、ぼろ布よりも、「浄命よりうるところのもの」の方が得やすかった、というのも、変な気がします。また、理屈を言えば、そういうものがあるなら、ぜひ糞掃衣を作ろうと思えば、市へ行って布を買わないで、ぼろ布を拾った人からそれを買い求めればいいわけです。
 「かくのごとくの」というのは、これまで述べてきたような歴とした「正伝」の、という意味ではないかと思ってもみますが、「檀那所施の浄財」でよいということですから、そうでもなさそうです。
 あるいは、そんなふうにして本物のぼろ布を集めよと言っても、実際にそうする人はいそうにないので、ともあれ袈裟を掛けることが先だと、妥協したというようなことがあるのでしょうか。
 なお、「浄命」は、「比丘が邪命(耕作、占い、周旋、呪術によって生活の資を得ること)を離れ、乞食または信者の布施により生活すること」(『読む』)だそうです。
 また、ここでは便宜上「ぼろ布を買う」という言い方をしましたが、『読む』によれば、「鎌倉時代はまだ貨幣経済の時代ではなかった」ので、買うのではなく「貿易」(物々交換)であったようです。

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ